「俺たちは本当に正しいのだろうか」という「不安」を描いた映画~クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」
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高橋伴明監督「赤い玉、」を見た。
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映画「セッション」(原題Whiplash:Whiplashは映画内でもっとも練習されるジャズの曲の名であり、また映画の主たる現象「鞭打つこと」を意味する英語)を見て来た。
(以下ネタバレあり)
この映画、前半、ぼくは狂喜した。
僕の愛してやまない人がそこにいたからだ。
それは世界のニナガワ、蜷川幸雄である。
もちろん、映画「セッション」はアメリカのジャズ界を舞台にした鬼教師とジャズドラマーとして世界に名を残したいと考えているイチ生徒の話だから、蜷川幸雄が出てくるはずがない。ないけれども、しかし、蜷川さんのもとに居たことのある人や、彼が演出家として行うエキセントリックな稽古の話を聞いたことがある人は、JKシモンズ演ずる鬼教師の姿に「これは蜷川さんだ」と思わずにいられない。
この映画には何度もあるエピソードが出てくる。それは、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが名奏者になるきっかけのエピソードだ。若きチャーリー・パーカーの下手くそな演奏にぶちきれたジョー・ジョーンズがドラムのシンバルをチャーリー・パーカーに向かってぶん投げた、つまり「理不尽で暴力的なひどいこと」をされたことをきっかけにしてチャーリー・パーカーは天才となったというような、「理不尽で暴力的なひどいこと」をもって生徒を指導する鬼軍曹の指導を正当化するようなエピソードだ。そのエピソードによって正当化された映画のなかの鬼教師は、生徒にむかってパイプ椅子をぶん投げる。その瞬間また「蜷川だ!」老いてパイプ椅子を俳優に向かって投げる蜷川幸雄を見たことがある。
だから、蜷川幸雄を信奉している僕はこの映画に心を鷲掴みにされた。エキセントリックな鬼教師が、ニヤニヤ笑うムカつく白デブの少年をどこまで追い込み、どんな風に限界を突破させ、奇跡をおこすのか、映画はそれをどのように描くのか。それを思うととんでもなくワクワクした。
が、結果は、残念な物になってしまっていた。映画「セッション」はとんでもない歴史的な名作となる可能性があったのに、結果として、そうなり損ねた。
簡単に言うと映画はモラルハラスメントな指導はよくない、というような「常識」に回収されてしまった。僕自身は、映画や演劇や芸術は「常識」を補足するものであってはならない、「常識」を側面から揺さぶり、「非・常識」の正当性を示唆するものでないとならない、と考えている。だから、この映画の、蜷川の元を追い出された若者が蜷川の指導を告発するような、本当は自分は才能があったんだと言うような自己弁護の映画になってしまったことが残念でならない。あるシーンから、もう一度作り直してほしいぐらいだ。そこまではパーフェクトな出来であったから。
この映画に限らず、芸術のある高みを目指す人間の話しはたくさん映画になっている。
そういう類の映画の中で、一番最近見た中で、僕が素敵だなと思ったのは「ブラック・スワン」だ。あれは「セッション」の前半のワクワクがラストのラストまで持続するような映画で、最後の最後には、僕は思わず「この映画は完璧だ!」とつぶやいたら、映画のラストのセリフが「パーフェクト(完璧だ)」で、してやられたりと思った。完璧であることに自覚的なのだ。
ちなみに「ブラックスワン」には鬼軍曹はいない。演出家は出てくるが、鬼軍曹のような暴力的な指導でヒロインを突破させるわけではない。が、エキセントリックの種は与えている。それは「オナニーをしろ」という、セクハラで訴えられてもおかしくない指示だ。性的なことで女性が意識の幕を張り現実と折り合いをつけてしまい表現の限界を突破できなくなっていることは大いにあり、そこの突破が重要になるというのは絶対的にあるので、あのエピソードは正しいと思うし、「ブラックスワン」は親の目を気にして自己を肯定できなかった少女が自己を肯定し、肯定することが芸術的完成と生命の完成になるという非・常識的だが芸術的に実に正しい映画だ。
芸術ではなくてスポーツの世界の話になるが、アニメの「あしたのジョー」も、頂点を目指す若者の話という意味においては似た構造をもった物語である。主人公の矢吹丈を指導するトレーナー丹下段平は矢吹丈にボクシングという居場所を見つけてやる。多少の追い込みもする。しかし後半、矢吹丈は鬼軍曹の追い込みではなくて自己の欲求によって頂点を探求し始め、逆に丹下段平はおろおろするばかり。命を顧みるというのが「常識」であるが、命を顧みないという「非・常識」を追求することによって、ありえないパワーを手に入れて、頂点に立つが、それは命と引き換えによってである。アニメ「あしたのジョー」は「ブラックスワン」同様、素晴らしい作品である。
同じボクシングを題材にした映画「百円の恋」も素晴らしい。安藤サクラ演ずる主人公は、本来的には命と引き換えにしないと得られないエキセントリックな至高の世界を、少しだけ垣間見る。多くの実際のプレイヤーは、チャンピオンにはなれないし、歴史に名を残せない。だが、その何人かは、トップには手が届かないが、その向こうにあるはずの至高の世界を一瞬だけ垣間見ることができる。「非・常識」の世界の匂いを一瞬だけ嗅ぐことができる。「百円の恋」は、本来凡人の見ることの出来ない瞬間を垣間見ることの出来た凡人の姿を捕らえた傑作だと思う。
鬼軍曹が出てきて、理不尽なことを新兵に言ってしごきあげ立派な士官にするみたいなのは「愛と青春の旅立ち」に限らずある。そしてそれを彷彿させるやり方を「セッション」でもやっている。だから、そのしごきに耐えて立派な演奏者になりました…という展開だけはいやだなと考えていた。さすがにそれはやってない。そこはちょっとだけ救われる。
ちなみに「セッション」において鬼軍曹JKシモンズは、青年の家族のこと、家族関係のことを罵る。「ブラックスワン」のヒロインが母親から離れて性的に自己肯定することが一番の突破口であるのと同様、「セッション」の主人公の青年にとっては、ダメな息子の存在を許す父親との優しい関係をぶち壊すことが突破口である。それをJKシモンズ演ずる鬼軍曹は見抜いている。だから、家族との関係、父との関係を口汚くののしる。言われるまでもなくぼんやりそのことを自覚していた青年は、父からの電話に出なくなり、毎週一回映画を一緒に見ると言う父の誘いにも応じなくなる。しだいに青年の顔は変わっていく。「百円の恋」の安藤サクラの顔がボクシングに熱中することで凛々しく変わっていくように、「セッション」の主人公の青年の顔も凛々しく変わっていく。そんな時に行われる父や親戚たちとの食事会の主人公の浮きぶりが素晴らしい。父親たちは、スポーツのように明確に勝ち負けが決まらない「音楽の世界」を、お偉いさんの主観によって優劣が決められる「いい加減な世界」と馬鹿にしている。だが、JKシモンズを信じる青年は、音楽の世界は、判断者の基準によって良い音楽がころころ変わるような不定形の場所ではなく、数学的な緻密さで判定の出来る絶対的な世界であるということを主張する。JKシモンズが音楽を聴いて一瞬で判定を下せるように、分かる人には判る絶対的に良い音楽というのはある。それは数学の答えのように厳密で明らかなものなのだ。演劇とかやっていると、良いか悪いかは監督が気分で決めていると思っている俳優がよくいる。そんなふうに思っている俳優はだめだ。判断は人それぞれなんかじゃない。絶対的に良いものはあり、優劣は絶対的につくのだ。しかし、そんなことは門外漢には判らない。だが、あるのだ。父との圧倒的なズレ。青年の確信。この「セッション」の家族との食事のシーンを見た時にはこの映画が傑作であるのを震えるように確信していたのだが…。
JKシモンズ演ずる鬼軍曹は「超越者」である。主人公の若者は、くだらない常識の中に生きており、しかし本能的にその常識を受け入れていることがだめなことをも知っている。そんなとき、若者は、実現不可能と思われた「非・常識」を実行している「超越者」に出会い、その世界に足を踏み入れるためのパスポートを手にする。
「地獄の黙示録」が傑作であるのは、ウィラード大尉が、「超越者」たるカーツ大佐に感化され目を開かされる、にもかかわらず、そのカーツ大佐を殺すという「常識」を行ってしまうところにある。しかし、その行われた「常識」はもはやカーツに会う前の「常識」とはまったく違っている。カーツの門をくぐることによって「常識」は装いは同じながら、実はカーツ的な「非・常識」の実践になってしまっている。「地獄の黙示録」というフィクションが素晴らしい作品であるのは、その転倒、その奇跡を映画が発見した、ということにあるように思う。
ひるがえって「セッション」だ。セッションは「地獄の黙示録」になりそこねた。
パンフレットによれば、「セッション」のほとんどは、監督のデミアン・チャゼルの実際の体験がもとになっているらしい。ジャズ・ドラマーを目指したことも、鬼軍曹がいたことも、鬼のような特訓のことも、JVCなどで演奏したことも全部実際に監督の経験らしい。ああ、だからそうなのか。と思わざるを得なかった。つまり、この映画は、監督の、天才ジャズ・ドラマーに成れなかったことの恨み節、本当は自分は凄いんだぜという自己肯定でしかないということだ。この映画がだめなのはそこだ。
徹底した自己否定の向こうに素晴らしい演奏があるのに、それを徹底できないで離脱した人間が、「僕はほんとうは才能もあり正しいんだ」と甘えたことを言うのを許してしまったのがこの映画だ。
柔道の行き過ぎた指導が訴えられたことがある。あの時に、蜷川さんの傍に居る者たちはギクリとしたに違いない。いつか蜷川さんも訴えられるかもしれないと。非・常識の世界が常識によって裁かれる。愚かなことである。柔道でも何でもいいが、「てっぺんをとる」ためには、悪魔に魂を売る覚悟が必要で、しかし悪魔に魂を売るまでもなく優雅に暮らしていける現代において、その覚悟をするのは本当に困難だ。それを蜷川さんは恐ろしく追い込むことによって実現している。成果を出している。その恐ろしい非常識こそを芸術は肯定すべきだろう。JKシモンズ演じる鬼軍曹はもっともっと想像を超えた恐ろしい形で肯定されるべきだ。「セッション」はその近くまで行っているのに最後、若者の浅い自己肯定の話しになってしまった。監督が28歳の時に書いた脚本らしい。だからかもしれない。彼が鬼軍曹の年齢になったときに、本来書かれるべきだった「セッション」の本当の後半を描いて欲しいと願わずにいられない。
映画の中で鬼軍曹が自分はチャーリー・パーカーを育てられなかったと悔やむシーンがある。蜷川さんは俳優を育てられなかったと悔やむだろうか。蜷川さんの目的は俳優を育てることには無い。舞台上に奇跡を起こすことだけにある。そう僕は思っている。実際蜷川さんは奇跡を起こしてきている。その奇跡のからくりはこうだ。1にもみたいない欠陥のある若者0.3をみつけてきてしごき倒す。0.3しかなかったはずの彼は本番100を超えるパワーを出す。大事なのは欠損0.7があるということ。その欠損0.7を指摘し痛めつけ肯定させることこそが奇跡のパワーを取り出す源泉だ。そこに鬼軍曹の興味と快感がある。蜷川さんが素人に毛の生えたような俳優の居るニナガワ・スタジオやネクスト・シアターやゴールド・シアターを好んで続けているのはそこにある。しかし、そこは1を育ててる場所ではない。蜷川さんのしごきありきで欠損した人間0.3を100にする場なのだ。人を育てる場ではなくて、奇跡の作品を作る場なのだ。時折100を出したことにうぬぼれた者が蜷川さんの元を離れるが、蜷川さんのしごき無しでは100を出せずにこぞって消えていく。0.3は0.3に過ぎず、蜷川さんのもとを離れれば彼らは皆0.3に戻ってしまう。自らを蜷川的に追い込み100のパワーを自分から引き出すことはなかなかほとんど不可能だ(できるのは矢吹丈だけ)。そういう意味でも「人を育てることができなかった」とつぶやくJKシモンズ演ずる鬼軍曹には蜷川さんが重なって見えた。
いや本当に惜しい、もったいない作品だった。芸術的な真実の隣にまで行ったのに、最後にそれを放棄する徹底性の欠けた映画だった。
※文中、蜷川さんに関する記述はぜんぶ想像なんで、違ってたらごめんなさい。
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ようやく、2014年8月公演の情報を公開できる日がやってきました。と言っても、ちょろっとだけですし、ホームページはまだ「かもめ」のままなんですが。
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開幕時期や節電などへの対応の仕方で、セ・リーグがメッチャ叩かれている。
セ・リーグを擁護するやつは100%いない状態だ。
そんななかで、あえて僕は反対の意見を言う。
あいまいな言い方だが「かならずしも」セ・リーグの判断が間違ってるとは言えないぜ。
みんな冷静になって欲しい。
自粛があくまで是とされるのは
自粛によって失われる「機会費用」が、自粛によって得られる「便益」を越えない場合だ。
では、自粛によって失われる「機会費用」とはなんだろうか。
野球の場合で言えば、「セ・リーグの開幕が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」がそれだろう。
で、得られる「便益」とは、「節電等の手段によって確保された資源やエネルギー」であり、これをもう少しわかりやすく印象的に言うと「セ・リーグを開幕させたら停電などによって被害を受けるはずだった人が、受けないで済んだ被害額」ということになるだろうか。
で、自粛が「是」とされるのは
「セ・リーグの開幕が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」<「セ・リーグの開幕によって受ける被害額」
となるような場合だけだ。
と、考えると、
これ、必ずしも、自粛が是であるのが自明ではないだろう。
なにより、セ・リーグを開幕させたらどれほどの停電被害が起きるのかさっぱりわからない。
ちゃんとしたデータに基づいて「セ・リーグ開幕を不謹慎、パ・リーグ素敵」と批判している人は少ないだろう。
皆のしている批判のほとんどが「こんな時期に不謹慎」という程度の感情論にすぎない。
皆を停電させても強行に意味があるほど「セ・リーグ開幕のメリット」が多ければ、それはむしろ世間の流れに逆行してでも開催すべきことなのだ。
とは言うモノの、被害だけでなく「セ・リーグ開幕のメリット」についても、どれほどのものか定量化している人はいない。
というかスポーツのメリットを定量化すること自体が難しい。
問題をややこしくしているのはここである。
つまり、全ての芸術・芸能・エンターテイメントに言える話だが、「セ・リーグの開幕(のみならず芸術・エンターテイメント全般)が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」というやつを定量化するのは難しい。
難しいから、結果として、セ・リーグ開幕による停電被害(そんなのがあるのか知らないが)の方にばかり目が行ってしまい、結局、「セ・リーグけしからん」みたいなところに何の検証もなく行ってしまい「自粛」を「是」とする流れとなってしまう。
僕は当然、芸能に携わるものだから、芸術・芸能・エンターテイメントの力を信じている。
「衣食足りてエンターテイメント」とは思っていない。
むしろ衣食と並び…いや「衣食よりも「前」にエンターテイメント」とすら思っている。
被災地の、日本の、世界の子供たちに希望や生きる意味を与えられるのは僕らの携わる芸能やエンターテイメントの力だと思っている。
また死に際の人々に心の安らぎを与え痛みを忘れさせるのもエンターテイメントの力だと思っている。
この国難に際し、多くの人々が我を失っている。
多くの映画や芝居が延期されたり上映上演中止となっている。
それぞれの事情があり、それぞれがベストな判断を下しているのだと思いたい。
だが、作り手として、エンターテイメント側の人間として思うのは、みんなの電気を奪っても上映上演興行すべきものだと信じられるのなら、堂々と人非人とのそしりを受けても、自らの作品を世に出すべきである。
そういう覚悟のない物は上演する必要ない。自粛すればいいと思う。
「この時期ちょっと…」なんて作り手が思うようなものなら、やらない方が良いに決まっている。
だから、セ・リーグに望んだのは、世間を説得することである。
自分たちのスポーツをいま批判を乗り越えてもやることがどれだけ必要なのかを説得することである。
全員が納得するとは思えない。
思えないが、もしかしたら、そうかも、と思う人がでてきただろう。
一番最悪なのは、説得も何もせず、世間の風潮に流されて開幕を延期したりすることだ。
これは感情的な神様=大衆を助長することにしかならない。
「それみたことか」と、大衆は、国難ある時は、言論や行動を規制するのが当たり前と思い始めるだろう。
それを大衆に許せば戦前の道への逆戻りである。(戦争は軍部が起こしたのではない大衆が好んだのだ)
そう言う意味でも、僕ら不謹慎の徒は衆愚化の流れを止める防波堤にならないといけない。
「みなさんの電気を止めてでも僕らの演劇をさせてください。かならずや電気を止めてもやらせてみて良かったという作品を上演します」と言う。
すると、みんなは「しかたねえなあ、もし酷いモノ見せやがったらただじゃおかねえぜ(笑)」と言う。
僕らは頑張る。
皆は喜んだり、やらせてよかったと言ってくれたり、よくこんなの見せられるな電気返せと笑いながら僕らを小突いたりする。
そういう社会が僕は好きだなあ。
みんなはそういうのよりももっとギスギスしているほうがよいのかい?
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英国王のスピーチを観ようと思ったら夜の回まで激混みで、次に観たかったラース・フォン・トリアー監督の「アンチクライスト」を観た。
で、寝た。
どんぐらい寝たかというと、同行者に「何%みた?」と聞かれるぐらい爆睡した。
爆睡したが見ていなかったわけじゃない。(というような言い訳をよく聞く気がするが…)
むしろ、僕は映画の中に入ってしまっていた。
この映画は、とても恐ろしい映画だ。
例えて言えば、ロールシャッハテストだ。
紙の上に落とした墨。二つ折りにし、開くと、奇妙な絵。その絵を患者に見させて、それが何に見えたかを聞き出すところから、患者の中に眠る強迫観念に迫る手掛かりとするという、あの精神医学の手法だ。
ロールシャッハテストはその実効性が疑われているようだが、しかし、こんだけ一般に認識されるほどに広まったのは、そのテストのアイディアに、「さもありなん」という、なにほどかの納得性があったからだろう。
で、この映画「アンチクライスト」はまさにそのロールシャッハテストに使われる奇妙な絵のような作品だ。
見る人がどのように解釈してもかまわない。
だが、その解釈には確実に、その見るモノの心の奥に眠る強迫観念が反映する・・・。
僕がこの映画を恐ろしいと表現するのはそのためだ。(寝ていたくせに・・・)
次にどういうシーンが来るのだろうという予想がまったく意味をなさないほど、この作品は奔放に作られている。
監督自身はこれをLetting Go、「解き放つ」と表現している。
そもそもこの「アンチクライスト」の脚本は、ラース・フォン・トリアー監督がうつ病になり、そのうつ病を治療するために書いたものだという。
そして、その過程で、監督は、自分をLetting Go、「解き放つ」することに留意した。
映画はこうでなくてはならないとか、物語はこうでなくてはならないということから自由になろうとした。
結果、監督の無意識があふれ出した画が作られている。
そして、だからこそ、その画にどう反応するかが、こちら側のトラウマを浮き彫りにしてしまうという、意図せざるロールシャッハテストのようなことになっているのだろうと思う。
キリスト教に深い理解が必要とされる映画のような気もするが、逆にそのような理解が無いからこそ、この映画は僕らの前に純粋にロールシャッハテストとして現れる。
この映画を居眠りしながら見て、家に帰り、書くべきシナリオを描きながら深く居眠りをして目を覚ましたとたんに思い至った恐ろしい記憶。それは思いだすことを避けていた記憶であった。「アンチクライスト」と深く共鳴して僕の心の中の闇が表に出てきてしまった。
「アンチクライスト」がどんな映画かというと、そんな映画だと言える。
向き合いたくない人は見てはいけない。
僕自身は向き合いたくなかったのに見てしまったが故に向き合わなくてはならなくなった。
これは、まさに監督が自身のうつ病を治療するために格闘して作った作品ならではの効果だろう。
映画を観に行くというよりも、治療を受けに行く…逆治療の可能性もあるが…と考えて観に行くべき映画だ。
(そもそも映画を見るという行為はすべて治療行為なのかもしれないけれども)
さて、以下はこの映画を見て思ったことなど(僕が80%寝ていたことは忘れてください。いや寝ていたからこそ、僕は最も正しくこの映画を批評できる気もするw)
・性行為などにおけるボカシは不必要だと思った。むしろ、生々しく描くことに意味があったはずだ。それは食事や睡眠などと同じように汚く気持ち悪い行為であることを告発する行為のはずだ。だからこそ、ペニスがヴァギナに挿入されているシーンを直接的に撮ったと思うのだ。だとするとあれをボカスことで、本来監督が見せたかった秘密の真相がまたしてヴェールに包まれることになる。
・この作品を作るにあたり、ラース・フォン・トリアー監督がもっともインスパイアされたのはジャパニーズ・ホラーで中でも「リング」に影響を受けたらしい。僕はそれが具体的にどこかは判らないが、ジャパニーズ・ホラーに共通する心理性みたいなものは反映していたのだろう。むしろ心理性しかない。
・心理性は「家族」というモノの間で最も物理化し暴力となる。
・遠慮が無くなるということだ。
・動物や昆虫の営みを撮影するのによくつかわれるハイスピードカメラが使われている。このことで、生きることの美しさと気持ち悪さが丹念に描かれる。それはまさに動物や昆虫たちのそれと同等なのだ。
・ラース・フォン・トリアー監督、本名はラース・トリアーというらしい。フォンはフォン当の名前ではなかったのか。
・フォンなんて言う名前をつけたしたところに、トリアー監督の病がすこし見え隠れする。
・ウィリアム・デフォーだと思ってたらウィレム・デフォーとなっていた。もとからそうなのか?
・そのデフォーがキリストを演じた「最後の誘惑」との連関はまったくない…こともないが
・この役をオファーされたウィレム・デフォーはオファーを受けるかどうか悩んだらしいが、悩んだ原因は、監督の奥さんが、ウィレム・デフォーに「この役を受けちゃダメよ」と忠告したかららしい。まぁ、普通、受けちゃダメだよというよなと思う。が受けるべきとも思う。スパイダーマンなどの映画への出演では得られない本当の格闘・表現を考えることができただろう。役者として生まれたなら、こういう映画への出演は1度は必ずしたいと思うに違いない。小手先で演じることのできる芝居なんてクソくらえだ。
・シャルロット・ゲンズブールはこの役を演じることに「奇妙な喜び」があったと言っている。監督も彼女を同志と認め、彼女も監督を同志と認め、次回作でも組むことになっている。
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この度、映画「莫逆家族(バクギャクファミーリア)」(原作:田中宏、監督:熊切和嘉)の撮影に際し、美術スタッフとしてご協力いただける方を募集しております。
「映画あらすじ」
かつて関東一の暴走族の総会長をしていた男・火野鉄(チュートリアル・徳井義実)は家族を養うために荒らぶる魂を封印して生きていたが、ふとしたことがきっかけでかつての仲間たちと共に「家族」を作り、自分たちのルールで生きていく。
■美術スタッフ募集
美術:安宅紀史(『ノルウェイの森』、『南極料理人』、『デトロイト・メタル・シティ』、『人のセックスを笑うな』他)
装飾:山本直輝(『海炭市叙景』、『ソドムの市』他)
・期間
1/31(月)、2/1(火)、2/2(水)、2/3(木)、2/4(金)、2/6(日)、2/9(水)、2/10(木)、2/11(金)
2/16(水)、2/17(木)、2/18(金)、2/19(土)、2/20(日)、2/21(月)、2/22(火)、2/28(月)、それ以降
お手伝い頂ける日にちを全てお教え下さい。
・業務内容
飾り付け手伝い、撤収など力仕事
・条件
経験など必要ないが、力仕事があるため、男性の方が好ましい
・応募の際必要な事項
①氏名(ふりがな)
②年齢
③住所
④携帯番号
⑤携帯メールアドレス
⑥お手伝い頂ける日にち全て
※メールのタイトルは「莫逆 美術スタッフ」として下さい。
・申込先
株式会社ステアウェイ
stair46☆yahoo.co.jp(☆を@マークに換えてメールしてください)
・注意事項
交通費、ギャラの支給はありませんが、食事を御提供し、エンドクレジットに御名前を記載致します。
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年明け早々、映画「ノルウェイの森」を観てきました。
昨年末にも観たので、2度目です。
もちろん、一度観て面白かったから二度目なわけですが、僕の周囲では評判があまり良くないので、さて、本当に面白かったのかと、自分の目確かめるために観に行きました。
で、やはり素晴らしい映画であることを再確認してきました。
ちなみに、村上隆さんが、ツイッターで、映画「ノルウェイの森」を絶賛するよりも先に僕的絶賛が始まっていたことを一応つまらぬ矜持ですが、付け加えておきます。
村上隆さんの映画「ノルウェイの森」に関連したツイートは、Togetterでまとめられているので、以下のリンクを参照してください。
僕自身は、村上隆さんの言うような「深い」「客観的な」あるいは「構造的な」読みができているとは思いません。
純粋に個人的体験として面白かったのです。
以下に、映画「ノルウェイの森」に関する僕の「個人的」感想を、できるだけ、まとまりのある形で記述しようと思います。
ネタバレについてはありまくりです。
しかし、ネタバレうんぬんがあまり関係のない映画だと思うので、見る前に読まれても大して影響はないでしょう。
あと、もう1つ重大な告白をせねばならないのですが、僕は原作を読んだことがありません。
厳密には、読んだことがあるが、当時は何が面白いのか分からなくて忘れ去っていた一冊が、この原作「ノルウェイの森」でした。
なので、映画を観て、「わー、あのシーンがこうなるんだ」というような感想はゼロです。原作を覚えていない。
そういう人間の感想であるということも付け加えておきます。
●「純愛の不可能性を証明する映画」
まず、goo映画に投稿された、とてもおもしろい評価を紹介したいと思います。
「無知で行ってひどいことになった」というkanon303さんの学生らしい可愛い評価です。
「無知で行ってひどいことになった」
ただ単にポスターを見て純愛映画でおもしろそうだと思い、彼女と一緒に見に行き上映後お互いの空気がかなり気まずくなりました。ストーリーも学生の自分には良くわからなく、性描写がかなりパンチが効いていたので失敗と感じました。もし本などを読んで内容をしっている方でしたら楽しめるかもしれません。何も知らない状態で彼女や親と行くのはやめておいたほうがいいでしょう。
これを読んで、「だからこの映画は成功なのだ」と僕はホクソ笑みました。
というのも、この映画は、純愛映画などではなく、純愛の不可能性を証明する映画だからです。
だから恋愛に幻想を抱いているカップルが行ったら、とんでもないことになること請け合いです。
「とんでもないことになること」を防ぐためには、男は、映画が終わり次第、客席のライトがつくなり、彼女に向かって、彼女が何かを言いだす前に、次の言葉を発する必要があるでしょう。
「酷い映画だったね。僕はこういう男たちのことが理解できないね。そういう奴らもいるようだけど、僕は違うな」
そういった、男が身を守らなければならないと言う事情もあって、この映画は「酷い映画」と言われるバイアスを持っているんじゃないかと勘繰りたくなります。
実際、この映画を肯定することは、男としては、結構リスキーです。
主人公のワタナベは、先輩の永沢を内心俗物と軽蔑しているのですが、それは永沢が女性をセックスの対象としか見ていないからで、その俗物の永沢に振り回されているハツミに同情をし、永沢と別れるようにアドバイスまでし、さらには運命の恋人と言えるような直子という存在を得ながらも、実は直子に隠しながら緑と言う魅力的な女の子と密会を続けており、直子にも緑にも「君だけを愛している」というような態度をとり続けるわけです。しかも、自分が俗物でないことをワタナベは信じている。
女をあからさまに裏切っている永沢とは異なり、主人公のワタナベは、女に同情をし、純愛がそこにあるかのようにふるまいながら、結果として、永沢などよりも卑怯な形で女を裏切ることになります。その見せかけの優しさは直子を傷つけ死に追いやってしまうのです。
そんな「酷い男」の話が、ビートルズの「ノルウェイの森」の美しいメロディでカバーされることで、美しい過去の思い出のようになっていく…そんな話がこの映画「ノルウェイの森」です。直子が死んでくれて、自分は人生を始められると潜在的に思っているのはワタナベです。そのことを分かっているから直子は死を選ぶ。本当にワタナベは「酷い男」なんです。
いま思わず「酷い男」と書いてしまいましたが、これ、間違いで、彼が特に「酷い」というわけではなく、男一般がそうなのであって、ワタナベは実に「普遍的な男」なのだと思います。
●男は誰もがワタナベである。
そして、この「普遍的な男」感を出すために、映画では、松山ケンイチがキャスティングされています。いかにもプレイボーイの玉山鉄二に対抗して、みかけ凡庸でちょっと言葉がなまっていて鈍臭そうな松山ケンイチ。そこがいいのです。彼のキャスティングを得て、さらには玉山鉄二との対比でワタナベは普遍的な男性になるのです。
ワタナベが普遍的な男性と描かれているおかげで、観客たちは、この映画の罠にかかります。
映画の初めに、男たちはみな「俺はワタナベだ」とまんまと思います。同時に、女たちはみな「私の彼氏はワタナベだ」と思います。
しかし、この「俺はワタナベだ」という初期設定は、映画が進むほどやばい展開を呼び込みます。
つまり、ワタナベが本性を現していくうちに、「男って可愛い女なら誰でもいいんじゃない?」という誰もが薄っすらと思っていた純愛否定のパンドラの箱が開いてしまうのです。
ついに、男は映画の始まりに「俺はワタナベだ」などと思った自分を後悔します。そして、映画が終わり次第、隣に座る彼女に向き直り焦って映画を否定することになります。
一方、女のほうは、映画の終わりに向けて確信に変わりつつあった疑惑。自分の横に座ってる男こそワタナベではないかという疑惑とともに映画を見終えます。しかし、映画終了間髪いれずに彼氏がこう言います。「こういう男ってサイテーだよね、俺は違うけど」。
けれども、そんな、「僕は違うよ」なんて言ってこの映画を否定する男をこそ女たちは疑うべきです。そして、「僕は違うな」なんて見え透いた否定を信じる馬鹿女をこそ男は遊びつくして飽きたところで捨て去るべきです。
だから、goo映画に感想を書いたkanon303さんの「彼女と行くのはやめておいたほうがいいでしょう」というアドバイスに反して、僕はカップルこそ、この映画に行くべきだと思います。
なぜならば、あなたが「本物」の男なら、この映画に描かれる男を隣の彼女の前でも敢然と肯定できるはずだし、あなたが「本物」の女ならば、自分の彼氏が、如何にこの映画を肯定しつつ、つまり純愛の不可能性を肯定しつつ、そのうえで今の自分たちの愛を如何にして肯定するのかという男の出方を楽しむことができるからです。
逆に言うと、自分が本物の男や本物の女でないという自覚があったり、女を騙して付き合っているような男は、この映画をカップルで一緒に観てはいけないという事が言えます。間違って観てしまうと、kanon303さんのように酷い目に会うことになります。
さらに、このことを利用した遊びも考えることができます。
たとえば、自分の彼氏が遊びで自分と付き合ってるんじゃないかと疑っている彼女は、彼氏には何も事前情報を教えずに、この映画を2人で見て、その後に彼氏の感想を聞けば思わぬ本音が聞けると思います。その時の彼氏の言い訳が薄っぺらなら、あなたが遊ばれていることが確定です。(もちろん、その薄っぺらさを見抜ける能力が女性になければいけませんが)
「純愛の不可能性を証明する」ためのこの映画を肯定した先にこそ、本当の愛がある。
そこに辿りつけるかどうか、それが観る者に試されている映画だということができると思います。
そういう意味において、映画「ノルウェイの森」は非常にユニークな映画であると思います。
自分たちが「本物」であると自信がある男女は、ぜひともカップルで観に行くべきです。お互いがどのような感想を抱くかその衝突を楽しんでください。
ちなみにkanon303さんは「親とも行ってはいけない」とアドバイスしていますが、それも逆で、僕は親とも行くべきだと思います。本当の愛がどんなものかを、より知っているはずの「大人」と観に行くことは、息子や娘たちに新しい気付きを与えることになるはずです。もちろん、薄っぺらい親ならば、その薄っぺらさを子供たちの前で露呈することになってしまうので、間違っても、子供たちとこの映画に行ってはいけないのですが。。。
ちなみに、原作は、緑とワタナベの純愛の可能性を示唆する条件がいくつか描かれているようです。しかし、僕はそれは映画で描かなくてよかったと思っています。というのは、それを描くことは、「純愛は可能」という皆の幻想を強化してしまうことになり、この映画で描こうとしていることに反するからです(逆に原作はそう誤読されているのではと思っています)。
純愛は不可能である。その不可能性を肯定したところからしか本当の愛は始まらない。
それが描かれているのが「ノルウェイの森」なのです。
●原作に忠実な作品
原作を読みなおしました。
実は「純愛の不可能性を証明する作品」であるのは、映画の性質と言うよりも、原作の持っている本質なんですね。
つまり、その本質を考えると、映画は忠実に原作を映像化したものと言えるんだろうと思います。
ちなみに、初版の小説「ノルウェイの森」の帯には「100%の恋愛小説」とあるらしいです。しかし、本来、村上春樹は「100%の恋愛小説」ではなく、「100%のリアリズム小説」と書きたかったようです。それが無理なので「恋愛小説」という死語をあてたらしい。
リアリズムとはつまり「純愛は不可能」という厳然たる事実のことです。「ノルウェイの森」は売るために「恋愛小説」と謳われたものの、その実は、真逆のリアリズムで書かれた「反恋愛小説」であったわけです。最初っから。
ただ販売の戦略から、「恋愛小説」と喧伝された。
そして、先入見とは恐ろしいもので、その「100%の恋愛小説」との帯を観て「ノルウェイの森」を手にして読んだ読者たちは、勝手に、この小説を「恋愛小説」として「誤読」してしまった。
時は経ち、読者たちの脳内で小説「ノルウェイの森」はキラキラと輝く遠い記憶に変わってしまった。
読者たちの観念の中で作り上げられた素敵な恋愛小説「ノルウェイの森」の誕生です。
つまり、多くの原作ファンは、原作が反純愛小説であることに気付かず、むしろ自分の「誤読」が作り上げた美しい小説イメージこそを原作と信じて、「原作を損なっている」と映画を批判しているように思うのです。
むしろ映画は原作通りであり、さらに原作よりも先鋭に、原作がオブラートに包んでいた部分をあからさまに広げている。
映画が検索をうまく拾えてないと嘆いている原作ファンに言いたいのは、原作を読みなおして欲しい、ということです。原作が、いかに「反恋愛小説」かを確認してください。映画が本質的に原作に忠実であることが判ると思います。
●小説に比べ圧倒的な情報量を持つ映像
情報量と言うことで言うと、小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない。
このことに異論を挟む人も多いと思います。
小説を映画化する場合、沢山のエピソードがそぎ落とされてしまうのは事実です。
だから、映画よりも小説の方が情報量が多いと考える人も少なくないと思います。
しかし、パソコンなどで使用する保存データのことを考えると、「小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない」という考え方は納得できるでしょう。
テキストデータは、映像のデータに比べて、無きに等しい情報量にすぎません。テキストが100キロバイトなら写真は100メガバイト、映像は100ギガバイト。
つまり情報量の少ない小説は、実は、読者が沢山の書かれていないデータを補足的に追加することで、イメージを作り上げているのです。
「ワタナベ」というキャラクターを考えればわかります。どれだけ小説が情報を費やしても、沢山いる読者の脳内の「ワタナベ」イメージを統一することはできません。千差万別です。
が、映像はそうではない。松山ケンイチが演じれば、もうあれが圧倒的に「ワタナベ」なのです。他の想像の余地を許さない。それほど、松山ケンイチの映像がもたらす情報たるや莫大です。なにをしなくても、その人の人間性が臭ってきます。
パンフレットで、トラン・アン・ユン監督も言っています。
つねにキャスティングで重視するのは、その役者の人間性です。…(中略)…その次に、もちろん役者としてどれだけの可能性を秘めているかを見極めます。
●人間性の水位の差が「物語」を生む
そして、映像化されたキャラクター同士の人間性の水位の違いによって「物語」が生まれます。
たとえば、菊地凛子のことを考えます。
賛否両論あるキャスティングです。巷間話題となっているように、菊地凛子の女優魂が獲得した直子役なので、監督的にもアプリオリに「直子役は菊地凛子で」というわけではなかったのだと思います。
が、結果として菊地凛子ははまり役です。
これは、緑役を演じる水原希子との人間性の水位の違いから正当化されます。
ワタナベ(松山ケンイチ)は幼馴染みのキズキ(高良健吾)からキズキの半分恋人であった直子(菊地凛子)を押し付けられます。「押しつけられる」というのは僕流の簡略化で、正しくは、キズキが直子を残して自殺したので、ワタナベは直子の面倒を観てやらねばならないと「責任」を感じるようになるわけです。一方、ワタナベの目の前に現れた魅力的な女の子緑(水原希子)。ワタナベの気持ちが緑に行くのも当然です。しかし、責任感からワタナベは直子を捨てるわけにはいかず、むしろ直子を最愛の人と「思おう」と努力するわけです。この「思おう」という努力というのは、思われる方にとっては酷いことです。それを感じ取った直子はどんどんと狂い始め、最終的には自ら死を選ぶことになります。
これをごちゃごちゃ説明せずに登場したキャラクターで「さもありなん」と観客に納得させる上において、直子の菊地凛子、緑の水原希子のキャスティングは本当に素晴らしい対比…人間性の水位の差を生みだします。その差から「物語」が生まれるのです。
菊地凛子は実年齢29歳で、水原希子が実年齢20歳。この差も大きく効いています(とくに画面に映る肌の差)。
あきらかに、世の男性は、水原希子を選ぶでしょう。なんのしがらみもなければ。
ワタナベが緑を好きになる説明臭いエピソードを作る必要が無い。
しかも、菊地凛子は、水原希子に比べて単に女性的魅力が劣っているというだけではない。そのメンドクササや狂気、そして魅力において、優柔不断なワタナベに、僕が捨てたら直子は死んでしまうと思わせて、義務感から、直子を捨てられなくなる…ということを内在的に引き起こすにふさわしい人間性を放射している。
菊地凛子、水原希子、松山ケンイチがいるだけで、なんの説明もなく「欺瞞としての二重純愛の構造」が見えてきます。
●キャスティングの妙
菊地凛子、松山ケンイチ、水原希子、そして、玉山鉄二と初音映莉子は、うまくこの映画の主題である「純愛の不可能性」を証明するに足るキャスティングと言わねばなりません。
松山ケンイチは寡黙で鈍臭く真摯である…菊地凛子との純愛、水原希子との純愛、この両立すること不可能な二つの純愛を成立させそうな感じがある。このキャスティングが少しでもおかしいと、ワタナベは単なる浮気男です。実際単なる浮気男なのですが、その浮気にも情状酌量の余地があると思わせてしまうようなタタズマイが松山ケンイチにはある。おかげで観客もワタナベも周囲の女性たちも最後の最後まで純愛の可能性を信じることになる。それは必要です。結果として純愛の不可能性を書くためには極限まで可能性を信じて突き進むしかありません。それを観客にさせる人間性が松山ケンイチにはあるのです。
また菊地凛子は、魅力と非-魅力が絶妙なバランスで同居する女優です。彼女が直子を演じることで、ワタナベが直子にこだわることの信ぴょう性を付加するとともに、直子を(内心)面倒くさく思い緑の方に心動いてしまうことを微妙に正当化させます。
水原希子は、そのコケティッシュな魅力で、ワタナベを純愛の矛盾に落とし込むにふさわしく機能します。それとともに、若すぎる物言いとふるまいは、ワタナベとの恋愛を拙劣なものとして見せるため、その純愛の薄っぺらさを際立たせます。
玉山鉄二は、如何にも鋼鉄のイケメンで、松山ケンイチの比較から、分かりやすく遊び人であることの記号として機能しますが、それだけではなく、その知性の宿る瞳からは、はたして、この人だけが「純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛」を追っているのではないかと思わせる深みがあります。
初音映莉子は、美しいがどこかしら控えめな匂いを放つタタズマイから、玉山鉄二の横暴を許してしまう押しの弱さ、そして不幸な感じが良く出ています。彼女の出番は多くはないのですが、永沢、ワタナベと三人でフランスレストランで話すところの芝居は圧巻です。僕が思うに、ハツミと永沢の関係にのみ、真の純愛…すなわち純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛の可能性を見いだせるのですが、それは結果として、彼女の自殺という形で失敗に終わります。終わりますが、ハツミと永沢のもう一つの可能性を信じたくなるほど、玉山と初音の好演はこの映画を支えています。
●映画的リアリズムの導入~撮影方法~物語の切り出し方について
映画「ノルウェイの森」は観るべきシーンが多く、物語にさほど起伏が無いのに、スリリングに見続けることができます。
そのなかで、一番のシーンを選べと言えば、僕は先にもふれたフランスレストランでのシーンです。
外務省にうかった永沢を祝ってする食事です。
永沢とハツミそしてワタナベの三人です。
このシーンは、村上春樹自身が書いていて楽しくて仕方がなかったと言うシーンです。
これをトラン監督はハツミの思いだけに寄り添って描きます。
小説は一人称小説なので当然ワタナベからの視点からに過ぎないですが、映画はこれをハツミのみをずうっとアップで撮り続ける。永沢やワタナベは声がするのみです。
ハツミの微妙な表情が読みとれます。
彼女がどう痛みを感じていたのか、どう愛を信じていたのか、それが痛いようにわかる。
ハツミの思いが一瞬の炎のように描かれます。
純愛の不可能性を知り尽くした上で純愛を貫こうとしたハツミ。
この後のシーンで、ワタナベの独白で、彼女と永沢の試みが、失敗と、勝手に断罪されます。
が、本当は、永沢とハツミの純愛にこそ最も高貴な挑戦があった可能性がある(ワタナベはそれに気付かずより大きな罪を犯すことになる)。
それを信じさせるに足る初音映莉子の演技と、マーク・リー・ピンピンの撮影でした。
もちろん、それを意図したトラン監督がすごいのですが。
小説の平板な文字を立ち上げるとこうなるんだと映像の凄みを感じさせるシーンです。
もう1つ、セックスシーンの撮り方にも特徴があります。
普通のセックスシーンと言うのは、たとえば、ベッドの下に散乱する下着などを撮り、カメラはそのままパンして、衣擦れの音を含みながら、女と男の絡む足先を舐めながら上半身に移動、そのままキスをする2人の顔、というように撮られることが多いです。この誰が撮ってもこうなってしまう凡庸なシーン、それをどう撮るかがラブシーンの課題でもあるように思うのですが、トラン監督は、顔しか撮らない。足の指先なんて一瞬も撮らない。
まるで友人たちのセックスを一緒にベッドに寝て観ているような感覚です。実際人間生きていると視点をそんなにパンパン変えられない。だから変えない。さっきのフランスレストランのシーンでもそうですが、トラン・アン・ユン監督はそこで、映像にリアリズムの文体を導入したのではないかと思うのです。24的な多視点の映像が増える中、真逆の方法で撮影はされています。
音楽もかかりません。
だから呼吸音、キスの音、愛撫の音が繊細に空間を満たします。
こんなに息苦しく感じることはない。
まるで友人のセックスを邪魔しないように存在を消し息をひそめる観客。
というかそうあって欲しい。
間違ってもポップコーンを食いながら観ないようにしてほしい(^^;
このように、リアリズムの観点から、わざとカメラの動きに不自由を感じるほどの固定感を与えておきながら、別のシーンでは、カメラは縦横無尽に動くのです。草原のシーンしかり、緑の家で動き回りながらワタナベと緑が話すシーンしかり。
学食で緑とワタナベが会うシーンは、カメラはカットバックを多用しています。緑から見たワタナベ、ワタナベから見た緑、その繰り返し。なのに、フランスレストランのシーンでは、カメラはハツミだけを撮るのです。なぜそうなのかを読み解くだけでも、この映画だいぶ面白い。実際見て理由を考えてみてください。僕の中に僕の答えは一応ありますが、もうだいぶ眠いので今日は書きません。
以上、かなり長々と感想を書き綴ってきました。他にもたくさん言うべきことはあります。
映像の美しさとか半端ないし。学生運動との関係、セックスとフェラチオのこと。いろいろいいたい。
僕はこの映画はぜひ観るべき映画と思いますが、そうはいっても感じ方は人それぞれで、この映画をありえなく詰まらないと思う人もいると思う。
でも、ここで書いたようなことを思ってみると少し違って見えるのじゃないだろうか。
受容体がなければ、発信を受け取ることはできない。
自分偉いんだぜと自己の観点で映画を観るのではなく、完全に受け入れ開かれた形で観に行く。
そうすると、いくつもの新しい気付きがある。僕はそうやって生きて行きたい。
もしよかったら、皆の感想も聞いてみたいと思っています。否定の意見でもかまわないから。
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あけましておめでとうございます。
松枝佳紀です。
2010年中に書かねばならなかったブログ記事なども沢山あるのですが、今はまず2010年総括および2011年の抱負などを書いておこうと思います。
2010年は大転換の年でした。
●演劇と劇団について
新国立劇場公演を終えた後から、劇団を中心としたやり方に苛立ちを持っていました。
その苛立ちがピークに達したのは2009年11月の番外公演においてです。「僕のやりたいこと」と「劇団のやれること」に、どんどん違いができてしまっていることに気付いたのです。
たとえば、2008年の8月の新国立劇場でやった「ルドンの黙示」を、僕は、僕の作品の最高峰と思っているのですが、あれを実現するためには、あの規模の予算、美術、スタッフ、劇場規模が必要で、それを実行するには劇団というのはなんとも心もとないものにすぎなく、実際、外部の魅力もあり集客力もある役者の参加に頼らざるをえませんでした。
なので「ルドンの黙示」以降の公演では、劇団員だけで、しかもアイドル劇団化しない方向で、「ルドンの黙示」的な大きなテーマを持った芝居をやることを目標として、がんばって活動してきました。しかし結論から言うと、これがなかなか難しかったというのが正直なところです。
劇団の主宰としては、所属する役者たちの集客力を伸ばすための努力もしてきたつもりです。
やり方が正しいかどうか分からないけど、僕としては映像に片足を突っ込んでいるので、そういう映像分野での露出を増やすことが、集客力のある役者を育てるためには急務と考えました。私費でマネージャーを雇い、劇団員の映画やテレビに対する営業を数か月しました。最初は難しくても、じきに効果は出てくるはず。そう思ったのですが、実際は金が出て行くばかりで、なかなか仕事の獲得に結び付かなかった。
結果、僕の資金が底をつき、マネージャーを雇うのは辞めました。
いわゆる役者を育てる方向としては、メソッド的なことを教えて演技力を増強する…と言うような方向もあるのでしょうが、演技力増強と、演者としての魅力を増すことは違うことだと思っています。いかに演技力がアップしたとしても、売れる役者、人を呼べる役者になれるわけじゃありません。
満島ひかりちゃんをみても分かりますが、役者の魅力とは、演技とかそういう技巧や技術の問題ではなく、その人の人間の奥底から湧き出でてくる三千年の汚水みたいなもので、それはいわゆる演技レッスン的な、明るく健全なことで鍛えられるものではないと考えています。
「4人の現役映画監督による実践的ワークショップ」を運営しているとわかるのですが、役者は自分の演技がどうかを知りたがるが、監督は一様にして役者には演技力ではなく魅力をもとめます。魅力ある役者と組むことは、芸術と経済を両立させる可能性があるからです。しかし、常に困るのは演技力を育てるやり方は多々あり指導することが可能なのですが、魅力を育てるやり方については定まった方法論が無いと言うことです。「よりよく生きよノタウチマワレ血反吐を吐け」と言うことしかできません。
そういう役者指導、劇団員管理、劇団運営に長いこと腐心し、そして限界と苛立ちを感じていました。
脚本家・演出家としてはしたいことがあり、そして、それは満島ひかりクラスの役者と組むことですぐにも実現可能なことであり、しかし役者の成長を優先にする劇団の主宰としては、自分勝手なことをすることは許されず、自分のしたいこととは別のことをしなければならない。役者の成長を第一義においた公演を打たなければならない。その矛盾が僕をだいぶ苦しめました。
結果、僕の気持ちは、劇団公演ではなくて、プロジェクト文学を立ち上げる方向に向きました。
広田淳一、吉田小夏、谷賢一という才能と公演を打つことに非常な魅力を感じたのです。
人間、欲望がなければ報酬無き行動は続きません。僕は自分の欲望に素直になり、プロジェクト文学を自分の主に置き、2010年の劇団本公演は打たないことを決定しました。
プロジェクト文学は予想以上の好評を得、無事終了しました。主宰の4名は戦友と呼べる信頼の絆を得ました。4名それぞれに忙しいので、時間を調整するのは難しいですが、2011年、2012年とプロジェクト文学は続けていけたらなと思っています。
プロジェクト文学を実行している時の僕の欲望と快感が何であったかと言うと、それは脚本や演出の欲望や快楽とは別の、自分の仕掛けが人を驚かせ喜ばせることの喜びというか、おそらくそれはプロデューサーとしての欲望や快楽であったのだと思います。
一方で、劇団運営については答えが出たわけではありません。悩んでいました。正直にそのことを劇団員に話しました。僕は自分のしたいことだけをしたい。昨年父が死に、次は僕の番で、だから急がないといけない。僕のしたいことをしたい。しなければいけないことをしたい。そしてそのしたいことをする時に、劇団は、申し訳ないけどオモシになる可能性がある。そんな自分勝手なことを話しました。皆は話をよく聞いてくれて、その場でどうするかは答えは出さずに、皆がそれぞれどうするべきか、各自持って帰り、じっくり考えることになりました。
2010年のクリスマスを過ぎたあたりにどうするかそれぞれの答えが出ました。
劇団アロッタファジャイナは、松枝佳紀、ナカヤマミチコ、青木ナナの三人で続けて行くことになりました。峯尾晶についてはフリーになりました。安川については、すでに劇団を離れ、別の事務所で活躍をしています。
それぞれ立場は変われど、「やりたいことをやりたいようにやる」というクリエイティブの原点に戻りたいと思っています。まだ具体的に何をするかは決まっていませんが、余命がわずかであると想定したときに、回り道をしている暇はありません。やりたいことをやらないといけない。長い目でみていただき、応援していただけると嬉しいです。
●映画、シナリオライターについて
2010年の映画、僕のベスト1は「ノルウェイの森」です。そして次に来るのが「悪人」。僕は、2008年の春から夏にかけて、「悪人」の企画開発に関わり、その映画化の方向性を探り、プロットを書くと言う仕事をしていました。しかし、その年は、新国立劇場でやる「ルドンの黙示」に賭けたいと言う気持ちが強く、貴様何様という感じですが、途中で、降りさせてもらったという経緯があります。その代わり、「ルドンの黙示」には死ぬ気で関わり、僕自身の作演出作品としてベストの物にしあげることができたという気持ちがあります。とは言うモノの、大きな魚を逃したなと言う気持ちもあります。特に、「ルドンの黙示」で主役を張ってくれた満島ひかりが、映画「悪人」にも重要な役で出演しているのを見ると、ずるい、という気持ちになります(笑)。
演劇は好きですが、僕の中には、映画と言う浸透力の大きなメディアを使って作品を発表していきたいと言う気持ちが強くあり、また収入的にも映像は非常に魅力的です。
「悪人」を降りて以降、角川映画で西竹一陸軍大佐の生涯を描いた「硫黄島に死す」の映画化に関わり、これは第三稿まで書いたのですが、角川の政変で企画がぽしゃり消えました(気にいっている脚本なのでどこかで映画化できないものかと考えています)。その後、いまヒットしている「武士の家計簿」にも関わったのですが、脚本まではいかず、脚本協力というところで僕の仕事は終わりました。父の死という僕の個人的体験を元に書いたオリジナル脚本「夏休みなんかいらない」を金子監督と共に書き上げたのですが、これも映画化のめどが現状はまだついていません。他にも企画開発段階でつぶれた魅力的な多くの企画に関わってきました。
そんな中、何か自分の一人の手になる作品を早く世に問いたい。そのことを金子監督に相談したときに、金子監督に言われたのは、劇団活動を縮小し、シナリオライターとして本当にやりたいことに集中しろと言うことでした。そのアドバイスもあり、2010年は劇団活動を控えたと言うのもあります。
現在、金子監督と開発している某作品については、アドバイスをくれた金子監督の指導もあり、うまくいく公算が高いです。もちろん一筋縄ではいかないこの業界のことですからどうなるかわかりませんけれども、いま第一稿を書いておりなかなか面白いものができるのではないかと、僕次第なんですが(^^;、頑張っているところです。
そのほかにも、幸運な出会いがいくつかあり、仕掛かり品が何本かあります。
プロジェクト文学「太宰治」をきっかけに知り合いになった映画「人間失格」の監督でもある荒戸源次郎監督には大変お世話になっています。時代劇の脚本を書かせてもらいました。いわゆる剣豪物なのですが、かなり史実を調査し、そのうえで作り上げた脚本です。最近の時代劇にはないハードボイルドな毒のある内容の映画になりそうです。
また、他に知り合った監督方とたくらんでいる作品がゾロリとあります。
さらに、2010年は、シナリオライターとしても、もうすこしプロっぽくやろうと言うことで、事務所にも所属しました。DIPREXという事務所です。僕の大好きな海外TVドラマ「SUPERNATURAL」のジャパニメーション作品のなかの途中の1話を書かせてもらいました。また、DIPREXのキム社長は営業力も企画力もある人で信頼をしています。僕がなかなか近付けない仕事を持ってきてくれそうで、非常に期待をしています。
そういうことで、2011年は、2010年よりも、かなり忙し楽しい年になりそうです。
●それから…
勉強をしています。沢山の本を読み、沢山の映画や芝居を観、沢山の音楽を聞こうと思っています。インプットした分は必ずアウトプットをしようと思います。できるだけ、読書の感想、観劇の感想などはブログなどで文字にしておこうと思います。「ああ、面白かった」では、経験は血肉になりません。言葉にし、意識にし、体系化し、間違えて、指摘され、非難され、喧嘩して、そして何かを掴まなければ、経験は自分の使える道具にはなりません。
そう言う意味では2010年は沢山の悔いが残っています。読みたかった本を全部読めなかった。観たい映画、見たい芝居を全部観ることができなかった。書きたい作品を全部書くことができなかった。
2011年の目標は、より悔いのない1年に近づけるということです。欲望が大きければ悔いが大きいのも分かってます。分かってますが、それでもできるだけ、欲望をさらに大きくもちながら、やるべきことを、より効率的に、2010年よりも多く、果たしていきたいと思っています。
そんなわけで、2011年も、松枝佳紀、アロッタファジャイナをよろしくお願いしますm(_ _)m
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映画でも演劇でも絵画でも音楽でも、良い作品は、普遍的であるとともに、その時代の心臓を鷲掴みにしていると公言してはばからない僕なのだけれども、今週末、その見本のような作品が公開される。
絲山秋子原作、金子修介監督最新作「ばかもの」
である。
もちろん、これをここで紹介するのは、金子監督と僕の関係性があったればこそなのだが、それ以上に、冒頭に述べたように、この作品「ばかもの」は現代の病巣の一側面をがっちり捉えている作品であると思うからである。
太宰治の「人間失格」も決して古びない普遍性を持っているが、とは言うモノの、物語の中で起こる事象は確実に時代の影響を受けており、だからこそ生命を持つ作品となっているのだが、しかし、これを現代に持ってくるにおいては「翻訳」作業が必要となる。
いわゆるその翻訳をやったのがこの絲山秋子さん原作の「ばかもの」なのではないかと思っている。
人間失格は人間失格で時代の美しさと言うモノがある。それは作品の一つの魅力で、だからこそ、荒戸源次郎監督の「人間失格」は、時代にこだわった。決して現代への翻訳を試みなかった。しかし、それは大衆の拒絶にもつながる。時代言語を操ることのできるものだけが、スクリーンの向こうに足を踏み入れることができる。もちろん、その超然たる意志。それこそが荒戸源次郎監督のカッコよさにつながるわけだけれども。
で、「ばかもの」、ここに描かれるのは今の若者である。
だからこそ、金子監督は、成宮くんにオープニング、ある歌謡曲をうたわせている。
その位置こそが、この映画のスタートである(そう言う意味では今というよりも、ちょっと昔、いまの30代が若者の頃)。
また、時代の影響を最も受けるのは女性である。
女性の描き方が非常に今である。
ああ、と思う。
深刻ぶってしまう「人間失格」的な世界を、金子修介監督のポップな腕が現代に仕上げるとこうなる。
「ばかもの」予告編
また、金子監督と歴ドル小日向えりちゃんとの直前USTムービーも観ることができる。
12月18日から有楽町スバル座、シネマート新宿ほか全国ロードショー。
金子修介監督作品「ばかもの」
観るべき作品である。
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