2010/10/25

写真、その二

ProjectBUNGAKU写真の続きいきます。

アフタートークゲストと4人の演出家写真の紹介途中でしたね。

こないだは五日目夜ゲスト奥秀太郎さんまででした。

では公演六日目。

六日目のお昼のゲストは高野しのぶさんでした。

Photo

高野しのぶさんの肩書は「現代演劇ウォッチャー」

そして、「しのぶの演劇レビュー」という観劇ブログ&メルマガを発行されています。

この「しのぶの演劇レビュー」はおそらく現在日本一手軽にアクセスできるそして日本一網羅的な、日本を代表する演劇紹介サイトではないでしょうか。

その高野しのぶさんが選んだのは、広田淳一演出「HUMAN LOST」でした。

これとても面白いことですね。

昨日のブログ記事にあるように、今回観客投票最下位は「HUMAN LOST」だったんですが、太宰治のお弟子さま小野才八郎先生、演劇界の重鎮永井愛さん、そして演劇に目の肥えた高野しのぶさんが「HUMAN LOST」を推している現実。

広田さんは、専門家からは評価されるが一般大衆から人気が無いという、演劇界の小沢一郎みたいなことになっていますが、ぼくはこれね、大変面白いことだと思っています。また、予想されたことでした。さらに言えば、観客投票と専門家投票をやってその違いを明示すること、これは僕の最初から念頭に置いていたことでした。しかし、そのことが指す意味については今は簡単には記述できないので、また別の機会に試みたいと思います。

ちなみに写真が滲みまくっているのは、岡田瑞葉ちゃんの編み出した新撮影の手法アナログフィルターの成果です。アナログフィルターは別名「たんなる手ぶれ」とも言うようですが、読んで字のごとく、撮り返しのつかない事態になっています。二度とあのときはもどってきません。ちなみに、今回も広田さんが一番高速で移動しているように見えるのは、ご本人を知っている人なら納得の、彼特有の落着き無さが原因と思われます。

冗談はさておき・・・

六日目の夜のゲストは、超絶美女、原紗央莉さんでした。

Photo_2

モザイクをかけたいです。僕の顔に。もうしわけないですが、一生分ニヤケテしまいました。原紗央莉さんが選んだのは、僕でした。作品ではない。僕を選んだ。…と思いたい。思わせて。というか僕は原紗央莉さんに選ばれるんじゃないかという予感はありました。事前に原紗央莉さんの自伝「本名、加藤まい」を読んだときに、そう思ったのです。

原 紗央莉: 本名、加藤まい ~私がAV女優になった理由~
原 紗央莉: 本名、加藤まい ~私がAV女優になった理由~

そして、その予感は的中し、原紗央莉さんに僕の「ヴィヨンの妻」を選んでいただいたのです。選んでいただいた理由のキーワードは「実体験」です。当日来ていただいたお客さまなら分かると思いますが。

にしても、僕は、猪瀬直樹さん、奥秀太郎監督、原紗央莉さんと選ばれるべき人に選んでもらっていて・・・本当に4演出家は4様の色があり、観客投票はともかくとして面白いなあ。

原紗央莉さん、当日の模様をブログに書いてくださっています。

原紗央莉さんのブログ

僕の妹はさおりんの大ファンで、当日も観に来て、いろいろプレゼントを渡していました(^^;

そして次の日。

七日目は夜公演だけで、その時のゲストは辛酸なめ子さんでした。

Photo_3

吉田小夏さんの「燈籠」が選ばれました。辛酸さんも本当に面白くて、そのトボケタトークで会場は沸きました。

辛酸さんは独自の視点で普段からコラムを書いたりなどしていますが、漫画家でもあって、可愛らしい絵を、小夏さんへ送る色紙に書いてくれました。

で小夏さんは、女優の三田佳子さんにつづいての受賞だったのですが、イメージとして可愛らしい女性から評価されるような気がしますね。作品も、いつもそうだと思うのですが、否が応にも「女性」を突きつけられる作品で、今回の「燈籠」も見事にそういう作品になっていて、だから、そういう作品にシンパシーを抱きやすい少女な心を持ったゲストが吉田小夏さん「燈籠」を推す…というような傾向があるような気が、僕は勝手にしています。

で、まさに、辛酸なめ子さんは少女であったなあと。思うわけで。

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2010/10/24

罰ゲーム

「ProjectBUNGAKU太宰治」をガチの勝負の場にしたい。

というのが最初の会議での広田さんの発言でした。

複数劇団の短編コラボ企画は、仲良しになることを目的とした馴れ合いの企画となりやすい…という危惧が広田さんの発言の根源にはあったように思います。

短編といえども長編を作るぐらいの気合いとコストをかけて作り、ガチで勝負をしたい。

決して、それぞれの作品を、それぞれの劇団の特徴を詰め込んだCMにしない。ちゃんと作品として提出する。

そのために、この企画の場を、たゆまぬ努力を最後までせざるをえなくなるようなガチの勝負の場とする…競争を導入したい。

そんな発言を広田さんがされた時、谷くんは「喧嘩上等」と口角泡を飛ばし、しかし小夏さんは、演劇は競争するためのモノではないと反対を表明。

しかし広田くんは、ガチ勝負という条件を飲まないなら参加はしないと強硬発言。

もし競争を受け入れるなら…と考えた小夏さん。

「負けた演出家は、それぞれの情人を連れて、太宰みたいに玉川上水に飛び込むって言うのはどうかな」

やるとしても、そんぐらいのウィットが無ければやりたくない、ということでしょう。

そして、その小夏提案に爆笑大受けした4人の演出家はガチ勝負、負けたら入水自殺ということを企画の肝にしようと決めたのでした。

しかし…

今回の企画を進行するにあたって、製作総指揮である僕は沢山の人と話すことになるのですが、とくに、太宰治の御親族のかたがたや、アフタートークにも来て下さったお弟子さまの小野才八郎先生とお話ししたりするうちに、「負けた演出家は太宰を真似て玉川上水に飛び込むことになるんですよ、おもしろいでしょ、あはは」とはなかなか言えない状況になってきました。

だって、考えても見てください。

ぼくらあなたのお父様(お師匠さま)を尊敬していますから、今回勝負で負けた演出家はあなたのお父様(お師匠様)の自殺を真似た罰ゲームをするんですよ、あはは面白いでしょ?なんて残された息子さんや娘さん(お弟子さん)に言えますか?

企画を進めて行くうちに、僕が直面したのは、太宰治の死は歴史なんかにはなっておらず、ある人たちにとっては癒えることなく昨日の傷のようにヒリヒリと痛み続ける事件だってことでした。

で、「玉川上水に飛び込むって罰ゲームはやめましょうよ」僕が恐る恐る言い出したのでした。

最初は、「最下位になることを恐れてヒヨッタか松枝」的な感じでしたが(笑)、広田くんなんかも、太宰関係の書籍を読み進むうちに、とくに松本侑子さんの著書「恋の蛍~山崎富栄と太宰治」を読んだ後に、僕の言ったことを納得してくれました。

松本侑子さんの御本は、死んだ山崎富栄の真実が書いてある優れたご著書なのですが、これを読んだら、やはり軽々に彼らの死をもてあそぶような罰ゲームはすることができないのです。そう気付きはじめた4人の演出家。

ただし、本気競争が必要というのはやはり前提でした。

が、どんどん忙しくなり罰ゲームについては、代案を考え出せないまま、本番の幕が開けてしまいました。

とは言うモノの、罰ゲームは無くとも、広田くんの最初の提案通り競争は僕らを最後までたゆまぬ努力に追い込みました。千秋楽公演の寸前まで改善の努力は続けられたのです。

幕が閉じました。

勝ち負けの付け方についてはいろいろ議論もあったのですが、お客様第一ってことで、観客投票の結果によってこれを決めることに決めました。

だけど、罰ゲームについてはまだなにをどうするか決まっていませんでした。

そんなある日、深夜に広田くんからの電話がありました。

「面白い罰ゲームを思いつきました。これを越える罰ゲームはなかなかないんじゃないでしょうか?」

そして、ProjectBUNGAKU太宰治の罰ゲームは敢行されたのでした。

以下、その模様を映像にてご覧ください。

良い子の皆さんは真似しないように。


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2010/10/22

近況と写真、その一

最近、松枝佳紀はどうしているかと言うと、映画の仕事に復帰しています。

現在、大作映画の脚本を2本手掛けていて、両方ともうまくいけばいいなと思っています。

もしも成立すれば両方とも僕の代表作になるようなデカイ作品です。

また、漫画原作の話や小説執筆の話、舞台化の話などもあって時間を効率的に使わないと、いろいろ残念なことになってしまいます。

いまが僕の人生の踏ん張りどころでしょう。

頑張ります。

さて、プロジェクト文学、もうほんとびっくりするくらいの好評で、しかも次回企画のご要望が沢山寄せられています。

で、さっそく始動しています、第二弾。

ただ、第二弾をやると言っても、皆の想像を凌駕する企画とならないと面白くありません。

それが僕の性格で、単に、太宰治を三島由紀夫に変えるだけというのでは、誰のなんの期待も裏切らないのでつまらない。

やるなら良い意味でみんなの想像を絶望的に裏切る企画としたいです。

目標は、来年の演劇界の台風の目玉となるような企画を打ち立てること…なんて無駄にハードルあげてしまっていますが、そういう気概で望みたいという所信表明ということで、大目に見てやってください。

で、そのProjectBUNGAKU太宰治ですが、幕が下りて12日が経過しました。

もはや過去になりつつありますが、今さらながら公表そびれた写真たちを公表していこうかなと。

まずは全体集合写真。

_mg_2319

演出家、出演者、一応全員集合のはずです。

岩見さんを探せみたいな形になっていますが、どこかに居ます。あのキノコヘッド。

仲良さげな感じでしょ。

感じだけじゃなく、本当に仲が良かった。

声を荒げる喧嘩なんかもあったけど、座組みを越えて友情がめばえ、結局はみんながみんな戦友という感じになりました。

で、お次は、アフタートークのゲストの方々と4人の演出家写真。

最初にお断りしておきますが、残念なことに全員のゲストとのお写真が残っていません。

そもそも写真を撮ろうと思いついたのが途中だと言うこともあり、あと写真を撮った岡田瑞葉ちゃんの腕もあり(うそです)、こんなことになりました。

で、まずは初日、香山リカさん…残念ながらお写真がありません。

そして、二日目昼、三田佳子さん…残念ながらお写真がありません…というか撮影した気がするのですが、どなたか別の人のカメラだった気が…もしも出演者などで写真ある人は、松枝まで写真データをメールしてくれるとありがたいです。

二日目夜、猪瀬直樹さん…も残念ながらお写真が…しかし、おそらく毎月25日発売の雑誌「BIG tomorrow」のカメラマンが撮影をされていたので、雑誌記事に載るのではないかと思います。あと、写真をお譲りいただければいただこうかなと思ってます。

三日目昼、小野才八郎先生…残念ながらお写真がありません・・・というかこれもどなたかのカメラに残っている気が…もしもあれば、松枝まで写真データをメールしてくれるとありがたいです。

三日目夜が永井愛さん。ようやく写真があります。

Photo

演劇の重鎮、永井愛さんからの色紙、広田さんは格別にうれしかったんじゃないでしょうか。

あとこの日は昼の小野さんも広田さんでした。太宰を芯まで知り尽くしている方からの色紙も広田さんがもらうにふさわしいモノでした。この日は広田フィーバーな日でした。

で、四日目昼、木村綾子さん。色紙は、谷賢一さんの手に。

Photo_3

木村さんは美しいだけでなく、知的でマニアックな分析で客席をうならせました。太宰を心底から知りつくし、しかも現代の視点を忘れない木村綾子さんが谷くんの「人間失格」を選ぶのは納得の結果でした。それにしても谷くん、悪そうな顔してるなあ(笑)でも谷くんのこの表情、これでも木村綾子さんから色紙をもらってテンションマックスの表情です。

で、四日目夜、荒戸源次郎監督。監督とのお写真もない。監督とは写真撮影をしたのかどうかは定かじゃありません。終わってすぐに監督は打ち上げ会場に移動しちゃったので。色紙は広田さんがもらったのですが、打ち上げ会場では広田さんと荒戸監督のバトルが観られて非常に楽しかった。というか荒戸監督があんなに元気に若者をいじめているのを見たのは初めてでした(笑)その日の悔しさを広田さんは次の日のブログに書いています。

http://hizablack.hyottoko.sub.jp/?eid=1032508

本当に荒戸監督は素敵な人なんですよ。だからあんなにも真剣に広田くんを罵倒した。愛ある罵倒でした。

で、休演日を挟んでの五日目の夜のゲストは奥秀太郎さんでした。

Photo_2

奥秀太郎さんは、NODAMAPや宝塚の劇中映像で有名ですが、また、映倫を決して通過しない狂った映画を撮る監督としても有名です。この日も狂ったアフタートークで(笑)というと大変失礼なんですが、面白かったです。で、これは地下情報なんですが、どうやら奥秀太郎監督の次回作の映画に出演してくれとProjectBUNGAKUの出演者に監督自らオファーがあった模様。そんな出会いもあるんですね。

ちなみに写真ですが、異常に谷賢一がカッコいい。そしてこの日の僕は、お父さんとかパパとか呼ばれました(泣)あと広田さんが高速移動している感じなのは岡田瑞葉ちゃんの高度な撮影技術のせいです。

(続きは次回更新で)

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2010/10/13

結果発表

「Project BUNGAKU 太宰治」では毎回4演目を上演しました。

広田淳一翻案演出「HUMAN LOST」

吉田小夏翻案演出「燈籠」

松枝佳紀翻案演出「ヴィヨンの妻」

谷賢一翻案演出「人間失格」

がそれです。

たった2時間で4本の芝居が見られる。

というのだけでもよかったのですが、

せっかくならどれが一番おもしろかったかを競い合おうということになりました。

俄然勝負に燃える子供な人達であったわけですが、これもあって今回の企画が盛り上がったというのも確実にあったわけです。

で、その投票の結果を発表したいと思います。

まず、投票とその結果に対しては次のような計算処理を行いました。

投票にあたっては無記名投票で、面白いと思った演目について1位から4位までを書いてもらいました。
得票は1位の劇団には4点、2位の劇団には3点、3位の劇団には2点、4位の劇団には1点として、全公演の投票を合算しました。ちなみに投票用紙に1位の劇団しか書いていない場合などもあったのですが、これは1位の劇団にのみ4点を加えるとしました。

ちなみに、投票に参加していただいた方は、9月30日の初日から10月10日の千秋楽までで、総勢995人に上ります。

そして、その結果です。

さっそく発表させてもらいます。


1位 谷賢一演出「人間失格」(3058点取得)
(1位426票、2位331票、3位159票、4位43票)

2位 吉田小夏演出「燈籠」(2735点取得)
(1位302票、2位304票、3位265票、4位85票)

3位 松枝佳紀演出「ヴィヨンの妻」(2234点取得)
(1位191票、2位203票、3位310票、4位241票)

4位 広田淳一演出「HUMAN LOST」(1598点取得)
(1位76票、2位116票、3位192票、4位562票)

もちろん、これは芸術としての優劣を決めるモノではありません。
むしろ、エンターテイメントとしてどれほど受け入れられるかということを示す指標であるような気がします。
また演目順や上演時間の差異、そもそもの題材の面白さなども影響しているでしょう。
しかし、そんなことを言いだしてはきりがありません。
ともあれ、ゲームはゲームとして割り切ります。
以上の順位が、今回の勝負の結果となります。

一方、ゲスト賞ですが、次のような結果となりました。

香山リカ賞 :谷賢一

三田佳子賞 :吉田小夏

猪瀬直樹賞 :松枝佳紀

小野才八郎賞:広田淳一

永井愛賞  :広田淳一

木村綾子賞 :谷賢一

荒戸源次郎賞:広田淳一

奥秀太郎賞 :松枝佳紀

高野しのぶ賞:広田淳一

原紗央莉賞 :松枝佳紀

辛酸なめ子賞:吉田小夏

蒼井そら賞 :吉田小夏

杉作J太郎賞:吉田小夏

松本侑子賞 :プロジェクト文学全体に

原きよ賞  :谷賢一

徳永京子賞 :吉田小夏

単純に数を出すと

1位 吉田小夏(5票)
2位 広田淳一(4票)
3位 谷賢一(3票)
3位 松枝佳紀(3票)

ですが、こちらは、ある意味「記名」投票です。集計になじまないものがあります。つまり香山リカさんは香山リカさんの基準で選ばれたのであって、その順位を蒼井そらさんの基準で下された結果と足すことには意味が無いからです。多様な価値基準があるということを示すための賞がゲスト賞です。これはアフタートークを目にした人しかその基準を知ることはできないわけです。今後、承諾を得られればアフタートークを公表することもあると思います。実に多種多様、面白い視点ばかりでした。

企画総指揮の僕としては

・ゲームとしての無記名投票の合算である観客賞

・個別基準のありようを示すゲスト賞

この2つを提示することができたことが満足です。

最後に罰ゲームについてですが
これについてはもう少しお待ちください。
待っていただくことの理由と経緯については後ほど発表します。

また日々の結果についてはコリッチの方で発表させてもらっています。
そちらも参照してください。

PC
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=16380
携帯
http://www.corich.jp/m/s/stage_detail.php?stage_id=21919

---
Project BUNGAKU 製作総指揮
松枝佳紀

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結果発表

「Project BUNGAKU 太宰治」では毎回4演目を上演しました。

広田淳一翻案演出「HUMAN LOST」

吉田小夏翻案演出「燈籠」

松枝佳紀翻案演出「ヴィヨンの妻」

谷賢一翻案演出「人間失格」

がそれです。

たった2時間で4本の芝居が見られる。

というのだけでもよかったのですが、

せっかくならどれが一番おもしろかったかを競い合おうということになりました。

俄然勝負に燃える子供な人達であったわけですが、これもあって今回の企画が盛り上がったというのも確実にあったわけです。

で、その投票の結果を発表したいと思います。

まず、投票とその結果に対しては次のような計算処理を行いました。

投票にあたっては無記名投票で、面白いと思った演目について1位から4位までを書いてもらいました。
得票は1位の劇団には4点、2位の劇団には3点、3位の劇団には2点、4位の劇団には1点として、全公演の投票を合算しました。ちなみに投票用紙に1位の劇団しか書いていない場合などもあったのですが、これは1位の劇団にのみ4点を加えるとしました。

ちなみに、投票に参加していただいた方は、9月30日の初日から10月10日の千秋楽までで、総勢995人に上ります。

そして、その結果です。

さっそく発表させてもらいます。


1位 谷賢一演出「人間失格」(3058点取得)
(1位426票、2位331票、3位159票、4位43票)

2位 吉田小夏演出「燈籠」(2735点取得)
(1位302票、2位304票、3位265票、4位85票)

3位 松枝佳紀演出「ヴィヨンの妻」(2234点取得)
(1位191票、2位203票、3位310票、4位241票)

4位 広田淳一演出「HUMAN LOST」(1598点取得)
(1位76票、2位116票、3位192票、4位562票)

もちろん、これは芸術としての優劣を決めるモノではありません。
むしろ、エンターテイメントとしてどれほど受け入れられるかということを示す指標であるような気がします。
また演目順や上演時間の差異、そもそもの題材の面白さなども影響しているでしょう。
しかし、そんなことを言いだしてはきりがありません。
ともあれ、ゲームはゲームとして割り切ります。
以上の順位が、今回の勝負の結果となります。

一方、ゲスト賞ですが、次のような結果となりました。

香山リカ賞 :谷賢一

三田佳子賞 :吉田小夏

猪瀬直樹賞 :松枝佳紀

小野才八郎賞:広田淳一

永井愛賞  :広田淳一

木村綾子賞 :谷賢一

荒戸源次郎賞:広田淳一

奥秀太郎賞 :松枝佳紀

高野しのぶ賞:広田淳一

原紗央莉賞 :松枝佳紀

辛酸なめ子賞:吉田小夏

蒼井そら賞 :吉田小夏

杉作J太郎賞:吉田小夏

松本侑子賞 :プロジェクト文学全体に

原きよ賞  :谷賢一

徳永京子賞 :吉田小夏

単純に数を出すと

1位 吉田小夏(5票)
2位 広田淳一(4票)
3位 谷賢一(3票)
3位 松枝佳紀(3票)

ですが、こちらは、ある意味「記名」投票です。集計になじまないものがあります。つまり香山リカさんは香山リカさんの基準で選ばれたのであって、その順位を蒼井そらさんの基準で下された結果と足すことには意味が無いからです。多様な価値基準があるということを示すための賞がゲスト賞です。これはアフタートークを目にした人しかその基準を知ることはできないわけです。今後、承諾を得られればアフタートークを公表することもあると思います。実に多種多様、面白い視点ばかりでした。

企画総指揮の僕としては

・ゲームとしての無記名投票の合算である観客賞

・個別基準のありようを示すゲスト賞

この2つを提示することができたことが満足です。

最後に罰ゲームについてですが
これについてはもう少しお待ちください。
待っていただくことの理由と経緯については後ほど発表します。

また日々の結果についてはコリッチの方で発表させてもらっています。
そちらも参照してください。

PC
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=16380
携帯
http://www.corich.jp/m/s/stage_detail.php?stage_id=21919

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Project BUNGAKU 製作総指揮
松枝佳紀

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特権的であるべき知識の存在

プロジェクト文学の公演プログラム(500円)は大変評判が良かった。

これを読んで興味を持って観に来てくれた人もいたぐらいだ。

プログラムには、4人の演出家が、演出する太宰作品の解説それから翻案演出意図、そして演者たちの解説が載っており、公演をより楽しんでもらえるような内容となっている。

僕は今回企画の製作総指揮として、プログラムのトップに公演の企画意図というようなものを載せた。

記録として、以下に再掲しておく。

「特権的であるべき知識の存在」 

 本日は企画公演「Project BUNGAKU 太宰治」にご来場いただきまことにありがとうございます。企画立案、製作総指揮の松枝佳紀です。アロッタファジャイナと言う劇団の主宰で、普段は、自劇団で脚本と演出、そのほか映画などでシナリオライターをやっています。

 文学を演劇する。演劇を文学する。
 そもそもなんでそんなこと必要があるんだろう?、という疑問はあると思います。なので、以下に文学を演劇しようと思った最初の僕的な動機なんかを話してみます。

 もともとこの企画発足当初は演劇化するターゲットを文学に限ろうとは思っていませんでした。文学と言うよりも、古典と言うほうがいいでしょうか、なにか昔「教養」というものが重視された時代に皆が参照したモノ=「古典」をあらためて重視してみませんか?というのが僕の最初の発想でした。
 「古典」を重視しようと思ったからには、現在、「古典」が重視されていないという思いがあるということです。現在「古典」が重視されていないと言うことは「教養」が必要とされていない時代になったと言うことです。2010年の今日、そういう時代になったと言う認識が僕にはあります。

 なぜ「教養」が必要とされていない時代になったのか。理由はいろいろあると思います。
 たとえば技術進歩があり、新知識の習得の重要性が高まったと言うこと。IT革命(IT革命という言葉さえ古い感じですが)。古き知識の重要性が(相対的に)薄れたということ。「古い」ということが基本的に否定的な印象を持つ時代になったということ。それはあるでしょう。「あいつ古いんだよ」そのセリフはだいたい悪い意味です。カラオケに行ったって「古い」歌をうたうのは躊躇すべきことです。平気で若者ぶる老人が増えたり。古い知識を持っていることが収入につながりにくくなった。それもあるかもしれません。が、マニアックな江戸知識とかはやはり金になるだろうと思います。ということを考えると、単に「古い」知識が必要とされなくなったということではない。マニアックはいまむしろ必要とされているからです。と言うことを考えると、「教養」の崩壊は単に古い知識の価値が減ったから、と言うことでもないように思います。

 「教養」と「マニアックな知識」は方向性が真逆です。つまり、「マニアックな知識」は皆に共有されては意味がなくなりますが、「教養」は皆が共有して持っていることによって意味が発生します。

 「情報」には「単独価値」と、それがみんなで共有されていることを前提に発生する「共有価値」があるようです。昨日のお笑い番組を見るには、そのお笑いを見ることによる楽しみ(単独価値)と、次の日にあれ面白かったねと話す楽しみ(共有価値)があるということです。その番組が番組として面白くとも、皆がその番組を見ていないなら、その番組を見る価値が減る。同じようなことで「情報」の保有価値は決まります。情報には、皆が保有することによって高まる価値があるのです。この価値については難しい。たとえば独りがその「情報」の保有を破棄する。それによってもその「情報」の「共有価値」は目減りをするはずなんだけども見えずらい。だから誰かが放棄する。意外にいける。2人目が放棄する。意外に行ける。3人目が放棄する。意外に行ける…という具合にその情報を保有する努力をしなくなる人が増えたとします・・・ある時、気付かれる。「あれ?この情報いらなくね?だって結構みんな知んないよ?」途端にその情報を保有する価値は暴落する。暴落することにより、さらに、その情報を保有する意味が無くなる。さらに情報を放棄する人が増える。さらにその情報を保有する価値が大暴落する。その過程は経済恐慌やデフレ・スパイラルと同じです。紙幣が紙くずになるごとく、教養とされてた知識は一瞬で無駄知識に変わります。

 ぼくらの先輩たちが持っていた「教養」はそういうことで崩壊した。というのが僕の認識です。
 そして厄介なことに崩壊した「教養」は復活が難しい。失うのは個々人の行動の積み重なりですが、復活には、全員でヨイショっと持ち上げる力が必要となります。国家と言う暴力機関、強制機関が必要になる。が、民主主義の世の中では、この暴力機関を動かすにはコンセンサスが必要で、そもそもコンセンサスが取りづらいから国家を使おうと言うのにコンセンサスが必要になるというジレンマ。憲法の改正が難しいのと同様、崩壊した教養は復活が難しい。とは言うものの、難しい難しいと言って、放っておかれるうちにどんどん「教養」は崩壊する。もはや、こんなところで、僕が「教養」の崩壊は大変だと騒いでも、失われるモノは失われるからいいんじゃね?なんて言われる始末顛末。

 だが、長い歴史が培ってきたモノ、様々な摩擦を経て生き残った情報…「古典」には生き残るだけの意味があるだろうと思っています。いまこの瞬間に「古典」に含まれる情報に意味があるのかどうかには関わりません。それは短期的な意味ではなく、もっと根深く外縁的なモノの構成に関わるかもしれないし、民族的な無意識を構成する情報かもしれない。「そんなの必要ない」と短期的で浅薄な若者の考えで判断し捨てて失われるモノの大きさを考えると怖くなります。だから僕はもう一度、「教養」とされた「古典」に関する知識の、知識としての特権的地位を復活させたいと思っているわけです。無理なのは承知なうえで。

 今回の企画で言うところの「文学」というモノも同じで、まぁ「太宰」は「古典」ではないでしょう。「古典」ではないでしょうけれども「古典」であろうとも思っています。つまり「教養」であってもいい「情報」として「太宰」の「文学」はあるんじゃないかということです。プロジェクト文学とは、失われつつある、あるいは失われてしまった「文学」(=「教養」としての小説群、可能性としての「古典」)を復興しようと言う意図があります。これはこの企画に参加する他の演出家とのコンセンサスではないです。ないんですが、無意識的なコンセンサスはあろうと思っています。というのは、全員が、教養主義的な作品を作っているからです。僕らは先輩たちが作ってきた日本的な何かをかろうじて受け継いでモノづくりをしている。「教養」というものをどこかしら信じている。というか「教養」の必要性だったり面白さだったりを、たぶん判っている。観に来てくれた方々には、今回の公演を、この文章に書いた屁理屈とは関係なく素直に楽しんでもらいたいと思います。ですが、願わくば、最近の小説家よりも太宰治の小説の方が面白そうだとか、深いんじゃね?とか感じてもらって、その先にある教養的な何か、特権的であるべき知識の存在について思いをはせるきっかけをつかんでくれればなと思っています。

製作総指揮 松枝佳紀(アロッタファジャイナ主宰)

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2010/10/12

Project BUNGAKU 太宰治

企画公演「Project BUNGAKU 太宰治」全17公演、無事終了いたしました。

本当に予想を超えるたくさんのお客様に観に来ていただけて、ほんとうにありがたいやらうれしいやらで、感動しています。

僕の主宰する劇団アロッタファジャイナとしては2010年はこれが唯一の公演です。

毎年、3本から4本の公演をうってきた僕らとしてはそれぐらいの大イベントで、正直、全身全霊をささげて作り上げたと言う感じがしています。

そもそも、本企画を思いついたのは昨年の12月で、ひょっとこ乱舞「モンキー・チョップ・ブルックナー」を見た後に、広田くんに直接連絡を取らさせていただいて、そんな企画を考えていると話したのが最初でした。

そして年明けた1月の20日に、広田くんと谷くんに、企画書をメールしています。

■ライトノベル、携帯小説、ツイッターなどなど、時代の進展速度は速く、参照すべき過去は無くなった。 現代という時代は自由な時代で、文学を知らなくても小説を書いてもよく、また三島由紀夫を知らなくても演劇をやってもかまわない。だが、そんな現代だからこそ、あえて古典的な文学作品に立ち返る。今回はそういう企画である。もちろん、古典を古典としてありがたがるのではなく、いまある携帯小説と並ぶ物語の1つとして古典文学を取り上げたい。(ここでいう古典は、いわゆる「古典」ではなく、KOTENとでも言うべきものである。過去において評価の定まったものという意味である。現代に生き残っているにもかかわらず、その制作年代が半世紀以上前の作品というイメージである)

■文学作品を取りあげる理由はいくつかある。
(1)物語の再発掘 半世紀以上の歴史を生き延びて読み継がれる作品にはそれなりのわけがあると考える。「あらゆる強度テストを潜り抜けた良質のダイヤモンド」として古典文学を再発掘したい。これは現代の作家である我々にとっても刺激的な出会いになると考える。だれが埋めたか分からないタイムカプセルをあける緊張とともに、僕らは謙虚に、過去の亡霊たちと対話する。現代という何でもありの時代に、なんでもよくなかった時代の本物と出会うことは、僕ら創作家にとっても刺激的であるとともに、観客にっても刺激的な出会いをもたらすだろう。
(2)演劇を生み出す 「戯曲」の古典ではなく、あえて「文学」の古典に立ち返るのは、2つの理由からである。1つは、それが「演じられるように書かれていない」からである。時代が進むと初めは冒険の地であったものが安心できる箱庭となり、心ざわめかせた風景は色あせる。我々は演劇に馴れてしまったのではないか。そういう思いから、あえて「文学」と相撲を取る。あえて演じられるように書かれていない文学と対決することで僕らはもう一度演劇を生み出すことができるのではないか。
(3)演劇をひらく あえて「文学」に立ち返るもう1つの理由は、それが「演劇」ではないからである。演劇の現状に対しては、縮小均衡が起こっているという印象を持っている。つまり、演じる者も演ぜられる物語も作る者も見る者も、すべて演劇村の中での出来事だという印象を強く持つ。ここであえて非「演劇」をもってきたのは、「演劇」に興味をあまり持っていない人にも、「演劇」の面白さを届けたいからである。「文学」の古典を、今回1回だけでなく継続的に、「演劇化」することによって、演劇を外に「開く」こと、そして演劇のことを知らない人々の意識を「啓く」こと、演劇と文学の異種格闘技戦により新しい演劇の場所を「拓く」こと、これらが今回「文学」を取り上げることの大きな理由になるだろう。また「啓く」ということで言うと、海外人の日本文化に対する意識を「啓く」という意味でも、日本文化のエッセンスとして、今回の企画を海外に持っていくこと、海外に日本の意志を発信していくことも併せて考えていきたい。

ここに書いたことは、基本最後まで一貫して僕の中にはありました。

今回企画の目玉の一つである豪華ゲストをお招きしてのアフタートークというのも、この流れの中で思いついたものです。

永井愛さん、徳永京子さん、高野しのぶさんのお3方は演劇の人ですが、それ以外のゲスト13名は「演劇外」の人です。「演劇外」からの「冷たい」視点を持ち込むことによって、僕らの武器を鍛え上げること、そして、演劇に興味のなかった人に多く劇場まで足を運んでもらうことが目的でした。

そういったなか、千秋楽公演は、4人の演出家だけでアフタートークを行いました。当初は、ゲストがいない回なので集客を危ぶんだのですが、ふたを開けると、全公演中、一番の混雑となった回になりました。そして、見に来てくれたあふれんばかりのお客様の3分の1が、4劇団のうちどの劇団の芝居も観たことのない人たち(しかもゲスト目当てでもない人たち)であったと言うのは、かなりの驚きです。つまり、本来、僕らが個々でやっていれば会うことのなかった人たちとこんなにも多数お会いできたということ。このことが、なによりも今回企画の成功を物語っていると思います。

複数の劇団によるコラボ企画は、僕らの企画以外にも、多数あります。

が、確実に言えるのはどの企画も、「演劇外」へのリーチが甘いということです。その点僕らの企画は、破壊的に「演劇外」にリーチを伸ばしています。

本当の「芸術」は、その芸術を必要とするマーケットを拡大する意志と戦略を持つべきと考えています。それは「芸術」の世界的使命を自覚することであり、実際に世界を変えることにつながるはずです。政治以上に世界を変えられないならば、「芸術」をする意味なんてないと考えます。そして、僕らの企画は「4劇団集まれば集客が1劇団集客の4倍になるね」というような小さい発想以上の集客を生み出し、演劇のマーケットを確実に広げたという認識があります。

さらにアンケートを読むと、「太宰嫌いであったが、こんなにも太宰が面白い作品を書いているとは思わなかった。あらためて太宰を読みなおしたいと思った」というような意見が毎公演多数ありました。このことも、大変うれしい反応です。僕らは僕らの演劇をお見せするとともに、観に来ていただいたお客様がたに、太宰治の書いた作品、あるいは日本文学、への興味を持ってもらうことを大きなテーマとしていました。これは、公演プログラムに書いたことですが、「特権的であるべき知識の存在」を認識してもらうことにもつながります。僕らの企画は、マーケットを拡大しただけでなく、観客の意識も変容させたのです。

長いこと芝居をやってますが、今回の企画で、はじめて僕は世界を動かすヒントを得ました。これについて得られた経験や情報は、今後、多くの協力者・同志と共有し、より効率的で、よりクレバーで、よりスキャンダラスな企画を立ち上げることにつなげていきたいと思っています。とくに、尊敬すべき先行企画を立ち上げているMrs.fictionsとはもっと協力し合っていければなと思っています。

以上、良いことばかり書いていますが、もちろんのこと反省点も沢山あります。しかし、それは全て財産です。やってみなければ手に入れられなかった経験です。なので第二弾のProjectBUNGAKUがあるかないかに関わらず、僕らは、捨てる部位無く魚を調理する名コックとなり、臓物のように苦々しい反省点も、きちんと作品づくりに活かして次に進みます。期待して次回の企画をお待ち下さい。

最後になりますが、本公演がこんなにも好評の中で終わることができたのは、ひとえに、八幡山まで足をお運びいただいた観客の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

 
ProjectBUNGAKU製作総指揮
松枝佳紀

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2010/02/21

梶井基次郎「檸檬」…日本文学シネマ第3夜

日本文学シネマ第3夜は、梶井基次郎「檸檬」を、映画「純喫茶磯辺」などの監督吉田恵輔さんがドラマ化したものだった。(本、記事にはネタばれあります。まだ見ていない人は要注意)

僕は梶井基次郎の他の作品も読んだこともないし、彼がどういう人であるかの認識もない。

また、この「檸檬」の背景も知らない。

だが、僕のような「知らない人」が視聴者のほとんどであるから、そういう目線でドラマが面白いかどうかが重要だとも思う。

結果として、驚いた。そして面白かった。

なにが驚いたかと言うと、「え、檸檬ってそんな話だっけ?」ということだ。

僕の読んだおぼろげな記憶から言うと「檸檬」はエッセイに近く、物語などほとんどないと思っていたからだ。

しかし20年以上前に読んだのだから、本当は物語があったのかもしれない。

ということで原作をもう一度読んでみた。

梶井基次郎「檸檬」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

やはり、エッセイのようなものである。

これをああ映像化するかという驚き、感心。

原作冒頭にはこうある。

「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」

本ドラマにおけるその映像化表現がうまい。

言葉から映像へ…日本文学シネマの第二夜、芥川龍之介「魔術」のときも思ったが、映像化の意味がある。

小説では「えたいの知れない不吉な魂が私の心を押さえつけた」と書いてしまえばいいが、映像でこれをどう表現するのかは、やはりアイディアだ。

作家、吉田恵輔監督、そして脚本家のいながききよたか氏は、その表現を、この「檸檬」が書かれた大正の時代の雰囲気に求めた。

大正14年、それは「檸檬」が同人に発表された年であり、また治安維持法が公布された年でもある。治安維持法・・・ロシア革命以降世界的に高まっていた共産主義活動を弾圧するための法律…特高警察がこれを利用した。

こうして「えたいの知れない不吉な魂」は映像化される。

夜に降りしきる雨。

特高に殴られて雨の中を引きずられていく男。

流される血血血・・・

挙動不審で、金がなく、親切のように見えて、利己的で、気持ちの悪い、共産主義活動、爆弾を作っている男…劇団THE SHAMPOO HATの主宰、赤堀雅秋さん演じるこの破壊活動をする男の気持ち悪さ。気持ち悪い人を演じさせたらこの人の右に出る人はいないんじゃないか。

彼を捕える怖い特高刑事、奇妙に顔と体のバランスがおかしい…僕の目が間違っていなければあれは西海健一郎監督が演じている(笑)

隣の部屋で喘ぐブスな女

そして、結核による吐血吐血吐血吐血・・・葡萄酒のビンになみなみと詰められた。

それはあの特高に殴られ流されたあいつらの血だ。

同じ血が主人公の中にも流れている。

嫌がおうにもさせられるそのことの確認。

「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」

そんな主人公が眼にする檸檬。

「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」、

そして「あの丈のつまったような紡錘形の格好」

「結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった」

そして、それは、一つの残酷で爽快な夢につながれる・・・。

非常に素晴らしい映像化であった。

その素晴らしさを再放送などでぜひ見てほしい。

主人公を演じる佐藤隆太の演技も素晴らしい。

いつもの軽い印象を捨てて、影を背負えるのは非常にすごいことだと思う。

日本文学シネマは残すところあと3話

詳細は↓

http://ameblo.jp/alotf/entry-10459313708.html

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2010/02/18

なぜドラマ「黄金風景」がダメだったか

さて昨晩の日本文学シネマ、梶井基次郎「檸檬」も大変面白かった。

が、本日のブログ記事はこの「檸檬」のことではなく、昨日の記事のコメントに対するお答えを書こうと思う。

コメント欄に返信を書いていたら、長くなり、そして図らずも、あるべき原作のドラマ化に対する考察をすることになったので、せっかくなら披露しようと本文に移すことにした。

詳細は昨日記事とコメントを見てもらうことにして、それを前提に以下は書いています。

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匿名様、丁寧なご指摘、コメントありがとうございます。ちょっと先走ってしまったようですね。プーシキン詩抄ですか。初版は上田さんと言う人が訳しているのですね。ドラマの違和感ばかり先に立ち早合点してしまいました。それからあれ斜陽館なんですね。はじめてみました。素敵ですね。お教えいただきありがとうございました。

しかしながら、その僕のおっちょこちょいにも関わらず、あのドラマが納得いきかねる作品であるのは変わりません。

逆に、プーシキン詩抄や斜陽館というギミックに監督が凝られているというご指摘から、あの作品の独善性(視聴者不在)が納得できてしまいました。

プーシキン詩抄の訳者が上田なんちゃらであることや、撮影場所が斜陽館であるのはドラマの中心からはどうでもいいことで、もちろんそのこだわりが映画屋的に素敵で重要なのはわかりますが、結局は、そのこだわりは服の裏地にたいするこだわりにすぎません。しかしながら、服の裏地のこだわりが素敵であるのは、服自体の着心地が良い場合です。服そのものの着心地が悪くてはどうしようもありません。これを「演出上の違和感はさまざまあって然るべき」ということで済ませては批評は成立しませんし、「いろいろあっていいんじゃない?」では物作りは反省もない焼畑農業になり堕落することになります。

今回のドラマ「黄金風景」の作劇の中心にあるべきなのは、原作の最後の「負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」にドラマを収れんさせることです。

そのためには、前半の主人公の津島修治がお慶に勝利している少年時代の描写が納得的でなければいけません。しかし、ドラマでは「形だけの主従関係」を書くにすぎません。あんなガキにぶつくさ言われれば、たとえ女中といえども、少年をたしなめるというのが自然です。もちろん、時代が「そういう時代でない」と言うのは勝手ですが、「そういう時代」を知らない人のほうが多いのだから、そこをちゃんと描かないといけない。

さらに優香は知られすぎている女優です。とくにバラエティなどに出ることが多い。彼女が、ああいうクソ生意気な少年の言葉に反論しない人間であるようには見えない。なのにそういう人間としてキャスティングしている。まずそこで、視聴者には「これは優香ではなく女中お慶として観ろ、まぁどうやっても優香に見えるけどな」という忍耐を強いることになる。これは視聴者に対してドラマを感情移入ではなく理論的な構築物として表層的に観ろと制作者が言っているに近い。優香が魅力的な女性であるのは言を待たないが、しかし原作にある「私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ」←ここが納得できなければ始まらない。優香ではそれが納得しづらい。演技力の問題ではなくて、彼女は素が世間に露出しすぎだから。

しかし、お慶役が優香でなかったにせよ、あの少年と女中の関係を納得的に見せるのはやはり難しい。とは言うものの「そういう時代だったから」と済ますのでは意味がない。「そういう時代」に対する知識や理解がない人にも納得的にやらなければ、現代にあれを見せる意味はない。「その時代」に知識のない現代人が身につまされる話にこれをしなければならない(次の日の熊切作品、その次の日の吉田作品はそれができている)。

方法はいくつかあろう。

たとえば、少年は大人の模倣をするものである。これは「その時代」に限ったことではない。とすると、大人たちが、たとえば女中仲間やあるいは少年の兄や父親が登場し、愚鈍な女中お慶にひどい仕打ちをしたとしよう。これはかなり納得的である。で、それをじいっとみている少年がいる。少年は心優しい。初めは少年はお慶にやさしいかもしれない。大人たちの無体な振る舞いに同調しない。お慶にとっても少年だけが心の安らぎである。心の交流がある。が、ある日、少年はお慶にイラっとして、いままで見ていた大人たちと同じような振る舞いをお慶にしてしまう。そして一旦、そういうことをしてしまうと止まらない。エスカレートする。最後にはお慶を蹴り飛ばす。そこでお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の言葉。少年の心に刺さる。もともと少年とお慶には心の交流があっただけに刺さる。…少年にとってそれは一つのトラウマになる。

その少年の顔がオーバーラップして青年の太宰になる。あるいは、夢で、うなされた太宰は汗だくで跳ね起きる(ありがち)。あるいは、その少年時代は太宰が書いてい原稿である・・・。などして、青年作家が、あの少年時代のトラウマを引きずっていることをみせる。

もうひとつ指摘できるドラマの問題点として「太宰」がかなり前提になっていることだ。「太宰」が「太宰」であるためには「太宰」でなくても「太宰」でなければならない。斜陽館で撮影すれば太宰だなんていうことはないのである。

少年の顔に青年の顔がオーバーラップなんてよくあるけど、よくある手法にはよく利用されるだけの意味がある。それは視聴者の心に無理を強いることなく、「成長した」ということを理解させる方法だということだ。

最初に青年作家を出してもいい。でそこから回想で少年時代。そして戻ってくる。視聴者はムリなく、ああ、あの少年が成長したんだなとわかる。などなど、方法は沢山編み出されている。

よくある手法、手あかのついた手法を使いたくないという映像作家の気分もわかる。だが、その気分は、視聴者の負担なしに達成されなければならない。

で、何らかの手法で、少年のトラウマが青年作家にうまくバトンタッチされたとしよう。しかし、あの豪邸のお坊ちゃんが、なんでこんな貧乏作家になったのか・・・これ納得しづらい。「太宰がそうだから」。それで済ませるのは「時代がそうだから」と同じ論法で、不遜であるし、創作の放棄である。

あの豪邸のムカつくガキが、同じ豪邸の、クソ生意気な青年になっていたら、そこには説明はいらない。人は納得する。

が、今回は違う。貧乏な青年作家である。あの裕福なクソガキが貧乏作家になったことに納得性がなければ、そのあとの感動もないし、事実そうなんだもんに依拠して木に竹を接ぎ木しているだけのことになる。家が没落して貧乏になったのか、あるいは別の理由があるのか・・・

事実なんてどうでもいい。太宰なんてどうでもいい。ドラマ単体としての論理性がなくては駄目だ。

つまり、「なるほど」である。

クソムカつくガキがなんで作家に!?こうこうこうだから。「ああ、なるほど!」が必要なのである。そしてその「なるほど」には、確実に、お慶を蹴っ飛ばしたことが関係しなくてはならないし実際関係している。

つまり、「お慶を蹴っ飛ばす」は「自我の肥大化」の表現だからである。

「お慶を蹴っ飛ばす」ようなガキは、自分を内実以上に偉いと勘違いした馬鹿者なのである。自分は天才で小説を書けば売れると勘違いした馬鹿ものなのである。だが、世間は甘くない。どんどん貧乏になる。コンビニで働いている人を馬鹿にしているが、コンビニで働いたほうが実入りがあって誠実なのである。そういう話だ。

だが、自分がダメであることを認められない青年作家は、友人たちから金を無心するばかりである。自我が肥大していることを心のどこかで認めながら認められない。ずるずると生きる。

詩的に表現したが、これを、ドラマに落とす場合は何かエピソードを加えてもいい。ドラマでは無心しているシーンや盗みをしようというシーンがあるが、それはトラウマとは完全に切り離されていて、「だって太宰はそうだもん」でしかない。ドラマにするならば、あれはトラウマとリンクしていなければならない(視聴者はそう思ってついてきているのだから)。

たとえば、無心するところで、「大丈夫だ俺は天才だから必ず返す」みたいな風に描いておいて、フラッシュバックで、あのお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の時の眼がはいるとか、あるいはその無心しているところをじいっと見ている近所の少女の眼に気付いた青年、ふとその少女の目があの日のお慶の眼に見える…。その眼はもはや青年作家の中に住んでいる冷やかな他人で、「あなた自我が肥大しているだけじゃないの?」という眼である。その眼をふりきるために、酒や薬にはまる・・・。と、ある日、巡査がやってくる。

実際作られたドラマとも大きな違いはない。が、作られたドラマにはドラマを描くよりも原作の描写とか太宰はこうだったとかギミックにとらわれている。だがあたりまえだが大事なのは斜陽館やプーシキンではなく、ドラマに内在している論理…原作の精神をはっきり意識しそのウネリを表現することなのだ。それがなくては、この2010年にあれを映像化する意味がない。

太宰がどうだかは関係なく、あのドラマをドラマ単体の論理性で追求することで、太宰をよりよく表現することができるし、現代の視聴者に耐えうるドラマになる。そう考えたときに、あのドラマ「黄金風景」は作り手としてすごく参考になる…反面教師として…作品であったということができるだろう。

以上、匿名氏の指摘にこたえる形で自分のおっちょこちょいを謝するところから、しかしながら、自分の感じたあのドラマに関する違和感は違和感としてあるので、そこについてあらためて言葉にしてみたら以上のようなことになった。匿名氏とアベユーイチ監督のおかげで、ドラマ作りについて深く考える契機になった。感謝しなければならない。

太宰治についても、プーシキンについてもまだまだ勉強することがたくさんある。とりあえずプーシキンの詩集を買ってしまった。

あ、なんどもいいますが向井理太宰はかなり素敵でしたよ。

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2010/02/17

天国の芥川もニヤリ…

日本文学シネマを2夜連続で見た。

(日本文学シネマについては→

第一夜目の太宰治「黄金風景」は非常に残念な感じだった。
若き日の太宰の家は「どこだ?ここ?」というぐらいの素敵なロケーションをもってきたなとはおもったけどそれだけで、優香の演技、少年の演技ともに、うむむとなる。ついでに、原作にはない足したセリフがどうもおかしい。たとえば巡査が太宰に会って、妻のお慶を連れてくるというくだり、原作では太宰はコメントせずに巡査は去る。が映像ではここで太宰に「来るな!来なくていい!」と絶叫させる。太宰がそんなこと言うわけもないし、たとえ言ったとしても、そんな太宰のせりふを聞いた巡査がなんのリアクションもせず、「今度妻を連れてきますんで」と去るのは不自然極まりない。非常に気になった。なぜ、そんなセリフを足したのかよくわからない。またその巡査に会う前に貧苦に喘ぐ太宰が本を盗むのだが(このエピソードも原作にはない)、その盗む本の著者名が上田某であるのがわかるのだが、これも非常に気になる。というのもマニアックな話となるが、上田とはおそらく上田重彦のことで、太宰の弘前高校時代の小説のライバルの名前だからだ。そのような重大な名前の書いてある本を太宰が盗むにあたってノーリアクションのわけがない。上田某など、視聴者は知らないだろうからと馬鹿にしてその名前を出したのだろうか。だとすればその名を出す意味がわからない。あるいはその名前を出すことが太宰の背景を知っている人に対してのサービスだと思ったのだろうか。もしそうならば無神経すぎるとしか言いようがない。あまりにも頓珍漢である。上田某の名前を出したのは明らかに監督に問題がある。映像もストーリーも演出もテレビの軽さも相まって、あああ、やっちゃったな感が強かった。しかし向井理の太宰治は良かった。

太宰治「黄金風景」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2257_15061.html

一方、昨夜の芥川龍之介「魔術」はかなり良かった。一夜目のあれれな感じが残っているから、熊切監督といえども、ちょっと残念なことになりはしないかと緊張しながら見た。最初のインド人とかは笑えるもののあれれな感じになりかねない危ない橋であったが、しかし、原作にはないオリジナル部分の、中村ゆり絡みの恋愛部分がとても素敵で、CMごとに、え、この先どうなるの?と思わせる素晴らしい運びで、最後エンドロールの映像でちょっと泣きそうなぐらい切ない気持ちにさせる。塚本高史がよくこの詩情を体現していた。また中村ゆりがびっくりするほどに可愛い。20分程度の映像なのに熊切さんさすがと感動。不勉強で原作を読んだことがなかったが先ほど、青空文庫で読むと、この映像作品が、よく芥川の原作の詩情を汲み取り美しく結晶させた作品であることがわかった。芥川の原作を超えているのである。それでこそ映像化の意味があろうというものだ。天国の芥川もニヤリとしているに違いない。

芥川龍之介「魔術」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/95_15247.html

さて、本日第三夜は、梶井基次郎「檸檬」である。監督は、「なま夏」「机のなかみ」「純喫茶磯辺」の吉田恵輔監督。吉田監督は大変態の大天才だから、あの国語教科書でおなじみの「檸檬」がどのように映像化されるか実に楽しみである。

この「日本文学シネマ」の企画。原作があっという間に読める。どう原作の詩情を汲み取り映像化したかがすぐに「採点」できる。そういう面白さもある。ぜひ、みてほしい。

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