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2016/10/02

「俺たちは本当に正しいのだろうか」という「不安」を描いた映画~クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」

クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」をみた。原題は「SULLY」。それはいわゆるハドソン川の奇跡を起こした機長サレンバーガーの愛称である。映画は、大変素晴らしかった。イーストウッドはいつも、すべて、素晴らしい。その素晴らしさは、その時代に一番必要なことを、適切に描いていることだ。この映画もまた適切だった。
 
※以下、内容にだいぶ触れるので、見てない人は読まないでください。
 
 僕は映画を見た後に、一緒に見た人とその映画についての感想を話すのを楽しみにしている。見ただけではわからなかったことが感想を言い合う中で言語化され、ああそういうことなんだと腑に落ちることが多いからだ。この作業。作り手の端くれである自分にとって、とても大事なものだ。その見た映画を自分のものにするために、その魂を受け継ぐために、とても重要な過程だ。と考えている。そこでもう一つ大事なのは誰と一緒に映画を見るかだ。この人選を失敗すると、せっかくの映画を味わい損ねることになる。一人で見るのもあまりよくないと思っている。なぜなら感じたことは感じただけでは消えて行ってしまうからだ。言語化することによって、その正体が何なのかが明らかになる。
 
しかし、その日は違った。突発的に「ハドソン川の奇跡」が観たくなった。だから、同伴者の選別を諦め、独り映画館に向かおうとしていた。しかし、立ち寄った事務所で出会った子に一緒に行きたいと言われ、断り切れずに彼女を連れていくことにした。ただ僕の中では、その子が映画を深める相手としてはふさわしくないと考えていたので、見終えた後、感想も聞かずに解散し帰ろうとすると、彼女のほうから映画について話したいと言われ、気は進まないが、放り出すのもかわいそうすぎるので、夕飯がてら話すことにした。
 
ひとつ彼女が面白いことを言った。
 
「機長はもっと喜んでよかったのに」
 
映画は、2009年1月15日に実際に起こった航空機事故をめぐる話がメインのストーリーだ。主人公サリーが機長となったUSエアウェイズ1549便は、離陸後すぐに、鳥の大群と衝突。十分な高度に未達のまま両翼のエンジンが停止してしまう。機長のサリーは決断を迫られる。(1)元の空港に戻る、(2)近くの空港に緊急着陸をする。しかし、機長は長年の経験から、どっちも間に合わないと「判断」し、第三の道、ハドソン川に不時着することを選ぶ。結果、乗員乗客全155名の命が助かるという、いわゆる「ハドソン川の奇跡」を起こし、マスコミなどではサリーは一躍英雄として扱われることになる。しかし、事故の状況を調査する国家運輸安全委員会NTSBでは、機長サリーの判断は、結果として全員助かったから良いものの、実は155人の命を危険にさらし、かつ高額な機体を損失させた「誤った判断」だったのではないかという疑いがかけられる。マニュアル通りに(1)か(2)の選択肢を取るべきだったと言うのだ。映画は、主として、この国家運輸安全委員会での調査期間が描かれる。機長は、家族の元にも帰ることができずに、また機長としての業務にも戻ることができずに、副機長とともにホテルに軟禁され、国家運輸安全委員会のネチネチとした調査を受けることになる。サリーは、もしかしたら自分の「判断」は間違っていたんじゃないかという「不安」の中で18か月を過ごすことになる。そして、映画の最後は、審議の結果を出す公聴会の場面である。コンピューターのシミュレーションではサリーの判断は間違いと出る。さらに実際のパイロットを使ってのシミュレーターでの飛行実験でもサリーの判断は間違いと出る。絶体絶命となるが、サリーはそれらの調査が無視していることを指摘する。それは「人的要因」である。つまりいかなベテランと言えども初めての事態に直面し動揺する。その動揺の中で様々な可能性を吟味し決断する。その「人間としての不完全性」をNTSBの調査は考慮していないというのだ。「確かにその通りだ」サリーの言葉に同意し、国家運輸安全委員会は、決断を要するのに「35秒」の逡巡があったと仮定して、再度、シミュレーターによる実験を行うことにする。すると、さっきまでの実験とは異なり、マニュアル通りの判断を行っていれば、①、②どちらの選択肢を取っていても大惨事となることが証明される。結果として、機長サリーの「判断」は正しかったということが認められ、映画は大団円を迎える。
 
「法廷劇」と誰かが書いていたが、そうだとすると、最後に「無罪」を勝ち取ったサリーは「完全勝利」とか「完全無罪」とか旗を振り回し、もっとはしゃいで良いのかもしれない。そう考えると、先の「機長はもっと喜んでよかったのに」という彼女の言葉になる。
 
しかし、僕は、サリーのあの、喜びの抑制的な表情を「適切だ」と思った。なぜなら、あの時サリーに訪れたのは「喜び」ではなく「安堵」だったからだ。
 
サリーは終始「不安」に感じていた。自分の「判断」は間違いであったかもしれないと。そして、自分の「判断」が適切であったのかを調査判定する国家運輸安全委員会で、もし万が一「機長の判断は間違い」と下された場合、老いたとはいえ、まだ「未来ある」57歳の自分がパイロットとして職を失わなければならず、また副業で始めている安全コンサルタントの仕事もできなくなることに強く不安を覚えていた。それが妻との電話でのやり取りに何度か現れる。「まだ家のローンが残っている」のだと。
 
ある人が、この映画は「人的プロフェッショナル」がコンピューターやマニュアルなどの「機械的判断」に打ち勝つことを描いた映画だと書いていた。それは誤った解釈だ。
 
むしろこの映画はプロフェッショナルでさえ不安を抱えているということを描いた映画、いやプロフェッショナルだからこそ、より巨大な不安を抱えていることを描いた「不安」の映画なのだ。あの911以来、アメリカは本当に自分たちのやってきたことに非はないのか、自分たちは正しいのか、ということに常に深い部分で不安に思っている。大統領などのビッグボスも判断を誤り、空爆をすることを知っている。だからこの映画は現代アメリカのベテランと言われる人たちが持っている「俺たちは本当に正しいのだろうか」という「不安」を描いた映画なのだ。
 
コクピットで、副操縦士に、サリーは「大ぼら吹きですね」と冗談を言われる。サリーは副業のコンサルタントを始めるうえで、そのホームページを仮構した。何人ものプロフェッショナルが集っている立派な企業のホームページかのように仮構した。(本当ニ働イテイルノハ自分ヒトリシカイナイノニ)。「機長、真面目そうに見えて、なかなか大ぼら吹きですね」副操縦士の冗談を真に受けるサリー。顔がこわばる。なぜそんな風にホームページを仮構したのだろうか。自信がないからだ。自分でいいのか「不安」だからだ。だから、信頼されるべく、たくさんのプロフェッショナルが居るかのようにホームページを仮構したのだ。
 
だから、この映画を、経験豊富なベテランが英雄的決断をした映画として観てはいけない。プロフェッショナルやベテランと呼ばれる人々が、より大きな不安と戦い、ときに押しつぶされそうになりながら戦っていることを描いた映画なのだ。そして、おそらく多くの人が不安に押しつぶされて病んで行っている。どれだけのベテランたちが自殺を選んだことだろうか。
なぜ、サリーは事故翌日朝からホテルの自室にて機長の制服を着ているのだろうか。それはプロ意識からだろうか。仕事こそ人生というプロフェッショナルだからだろうか?もちろん違う。制服を着、さっさと現実に戻ることによって、もしかしたらあばかれるかもしれない自分の失敗から逃れるためだ。自分は英雄なんかじゃない。あんな事件なんて無かったことにしたい。彼に、制服を着せるのは、「不安」である。急ぎ足に現実から遠ざかりたい無意識が彼に制服を着せたのだ。
 
不安の出どころは無数にある。子供の時に寝小便をした経験。好きな女の子に告白してふられた経験。うっかり家に忘れ物をしてきた経験。。。。自分は完璧じゃない。自分は間違える。どんなに白髪になりベテラン面をしていても、自分はミスをする。それを自分は、自分だけは知っている。
 
ハドソン川に不時着をした航空機から、乗客を外に出す。寒い1月の空の下だ。間違えば人が死ぬ。サリーはどんどん水に沈む機体に最後まで残る。機長としての責任からではない。不安からだ。誰かが機体に残っているかもしれない。可能性をつぶすべく奥へと進む。水に沈みつつある客席の間に、黒い物体が浮かんでいる。ヒヤッとする。乗客が浮かんでいるようにも見えた。荷物だ。大丈夫だ。人じゃない。そこに声がかかる。脱出しないとサリーあなたも危険だと。サリーは迷い、奥を見る。まだ確認したりない。見ていない場所がある。だが…サリーは確認をせずに脱出をする。(自分ハ誰カヲ見殺シニシテシマッタカモシレナイ)その不安は彼につきまとう。だから「155人の生存が確認されました」と生存人数を聞いたときの安堵感は半端がなかった。人の命が助かったことの安堵じゃない。自分が責任を問われない、問われる可能性が少なくなったことへの安心なのだ。
 
何度も何度も、飛行機が炎に包まれニューヨークのビルに突っ込む白日夢を見る。不安だからだ。それはまるでベトナム戦争に行き、イラク戦争に戦った兵士たちがPTSDに悩まされるように、彼らを病ませる。ベテランになんてなっていないのに、ベテランとしてふるまわなければならないことの不安。本当に俺は正しいのか?そう思いながらも、「俺についてこい」なんてことを言う役回りをさせられてしまうことの苦痛(そういう意味でサリーが白髪であるのは好都合だ)。そんな人間たちの代表としてSULLYがいる。だからこの映画は「ハドソン川の奇跡」なんて晴れがましいタイトルはふさわしくない。不安に苦しむひとりのちっぽけな人間SULLY、その名こそが、この映画のタイトルにふさわしい。あなたの判断は正しかった。そういわれるサリーの顔には喜びがなく、ヨカッタという安心、安堵、その色だけが浮かぶのは、この映画が、リーダーシップの不安を描いた映画だからなのである。

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