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2015/06/17

写真家・所幸則さんと私

僕はふだん演劇を生業にしている。映画もちょっとやってる。そんな僕が写真家・所幸則さんを知るようになったのは、2010年11月22日である。twitterで所さんに話しかけていただいた。
 
そのころの僕はtwitterにハマりまくっていた。1日50回ぐらい、ときに100回近く熱心にtweetをしていた。情報を発信すること、旗を挙げることに意味があると思っていた。twitterという新しいコミュニケーションツールに期待をしていた。これまで開けなかった何かを開く可能性があると期待をしていた。なので依存症のようにtwitterにハマることを自分に許していた。
 
所さんが僕にとばした最初のtweetは所さんの勘違いに近いtweetだった。たぶん事故だ。それでも所さんが声をかけてくれたことで、僕は所さんの存在を知った。twitterカウントのプロフィールをたどり、所さんのHPにたどりついた。そして、所さんの作品群を目にすることになった。
 
所幸則さんのHP http://tokoroyukinori.com/
 
所さんが初めて僕にtweetしてくれたのが深夜の1時30分。その30分後の2時ちょうど。僕は次のようなtweetを所さんに向けて飛ばした。「遅ればせながら、先ほどHPで見させていただいたのですが、所さんの撮られる写真やばいスね。素敵です。」魅了された瞬間だった。以来、一貫して、僕は所さんの作品に魅了されている。
 
所さんの作品の魅力。とくにone-secondというコンセプトによる写真群の魅力。それは端的に言うと、「ロゴス的」であるということだ。
 
人間はリンゴを見てリンゴをみるわけじゃない。リンゴを見て、その酸っぱさだったり、シャリシャリ感だったり、あるいはその硬さ、重さ、痛さ、凶器性を感じるかもしれない。あるいは大きさ、あるいは木々、森、産地、農地、アダムとイブ、ニュートン、ウィリアム・テル、リンゴのある食卓で目にした夫婦喧嘩の記憶、映画の中のワンシーン、車にはねられた主婦のカゴから転がるリンゴ、しゃりっと噛んだ断面にうねうねと顔を出す幼虫、血のしたたる取りだされた心臓、魂、21グラム・・・。人間は物を見て概念を取り出す。神の言葉「ロゴス」を探る。
 
アイドルのグラビア写真は典型的だが、あれは写真家の存在がほとんど無色透明だ。無色透明であることを求められている。グラビア写真を観たい人たちは被写体であるアイドルを観たいだけ。間違っても、写真家のアーティスティックな主張なんて見たくない。だから主張のあるグラビア写真なんてたまにあるが、amazonなんかでは不評の嵐だ。
 
グラビア写真の対極にあるのが所さんの写真のような気がしている。それは世界解釈の意志に満ちた写真だ。映る少女は、少女自身を離れて、社会の冷酷な風にさらされ、不安を抱いてそこに立つ。写真は少女ではなくて、社会そのものを描く。あるいは社会を動かしている冷たい風を、熱い欲望を描く。所さんの写真に出会った時に僕は閃きの雷光に打たれた。
 
2010年の暮れ、僕はtwitterにハマっていることもあって、社会の矛盾や問題に直面し、またそれを変革する欲望にも直面した。twitterが世界を変えるかもしれない。少なからぬ人たちがそう思っており、僕もその可能性を感じていた。グラビア写真のような演劇には飽きていた。社会変革たる演劇が必要だと感じていた。そう考えていて、演劇をする先輩や仲間をまきこんで、「日本の問題」という舞台を企画した。既に名のある8劇団、学生劇団6劇団計14劇団を集めて、それぞれが「日本の問題」と思うことを短編の演劇で描き、それを様々な識者に見ていただき、一緒に考え世間に対して問題を提起していこうというような公演を企画していた。
 
 
だから、社会や国家を描きうる所さんの写真に出会った時、「日本の問題」のメインビジュアルはこの人に撮ってもらうしかないと思ったのだ。
 
年明けて、2011年2月15日、僕はその依頼を所さんにメールした。予算があまりないこと、しかし、今この演劇「日本の問題」をやることには意味があること。そしてそのメインビジュアルは所さんの新作写真を除いては考えられないこと、などを伝えた。所さんは快諾してくれた。
 
2011年3月11日、東北を大地震が襲った。福島の原子力発電所がメルトダウンした。その波を「日本の問題」もかぶらざるを得なかった。メインビジュアルも、たとえば、実際の被災地に行って撮影をしようかというような案も出た。原発の写真こそが「日本の問題」を象徴する絵なんじゃないかというような意見もあった。しかし、結果として、所さんが撮り、僕が選んだのが「東急東横線の少女」という写真だ。
 
Photo
 
写真には一人の少女が映っている。出発を待つ車両の中、不安に携帯を持つ少女。彼女の不安に目を止めることなく行きかうサラリーマンや主婦などの大人たち。彼らは皆ゴーストのように映っている。そして向こうには不吉な渋谷の空。
 
意図したものではない。グラビア写真のように、そこにあるものを撮っただけだ。だが、それが所幸則という写真家の撮る写真のロゴス的である所以なのだろうが、ここに映っているのは、まぎれもない「日本の問題」なのだ。満員電車が問題とか、少女の孤独が問題とか、そういう個別のことではない。ここに写ってるのは、もっともっと抽象的でまさにロゴスとしか言いようのないもの。社会の問題であり、国家の問題であり、いままさに我々が直面している全てが包摂されている。事故った原発の写真にしなくてよかったと思う。もしそうしていたら、その写真の意味するものは「日本の問題」ではなくて「原発の問題」にすぎなくなる。
 
僕は所さんの写真が好きだ。2014年3月、チェーホフの「かもめ」を舞台にかけたときにも、写真を新しく撮りおろしてもらった。舞台でヒロインのニーナを演じるダブル・キャスト、当時15歳の宇野愛海と当時25歳の縄田智子の2人をモデルに撮影をした。
 
Kamome_2
 
写真には2人の少女が映っている。深い森の中で戯れる2人の少女。天からは祝福の白い羽根が無数に舞い落ちてきている。そして、その表象は所さんの手にかかるとロゴスとなる。少女の無垢性、悪魔性、生命の美しさと儚さ、そして無邪気な少女の欲望。舞台「かもめ」で僕が最もクローズアップしたかった「概念」がそこにあった。この写真も、まさに所さんの写真のロゴス性が発揮された作品であると思う。
 
そして同年8月、新国立劇場で佐野史郎さんを主演に向かえて披露された「安部公房の冒険」という舞台。このときにも所さんの写真を使わせていただいた。しかし、これまでの2作品とは異なり撮りおろしではない。以前、所さんの個展を観に行って僕がどうしても欲しくなり購入したプリントを使った。
 
Abekobo
 
「安部公房の冒険」の脚本を書き終わって、宣伝美術をどうしようかなと考えていた時に、部屋に飾られたその写真が目に入り「これこそ」と閃いた。安部公房という稀代の作家の作風。その無機質性、コンクリートな空間。その硬質な世界の中、ただひとり、孤独に耐えてそこに居る美しい生身の女性。僕の買ったその写真は舞台「安部公房の冒険」で僕が描こうとしている「概念」そのものだった。
 
なんども言うけれども、僕は所さんの写真に魅了されている。所さんの写真は、他の写真や絵や物語では得られない快楽を僕に与えてくれる。それは知的な快楽だ。世界を解釈することの許された神の言葉ロゴス。その聞こえない音を耳にする禁断の快楽とも言って良いだろう。そして、今日も、僕はその美しい言葉を聞くために、所さんの写真を眺める。僕はこれからも、所さんの写真に飢え続ける宿命なのだ。
 
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その所幸則さんが、新作の写真集を出すためにクラウドファンディングをしている。

https://greenfunding.jp/lab/projects/1083
もうすでに145万円あつまっている。
けれども、ぜひ、所さんの写真に興味を持った方は、参加し新しい写真集を手に入れられてはどうかと思う。お勧めします。

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