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2015/04/19

「セッション」・・・「地獄の黙示録」になりそこねた映画

映画「セッション」(原題Whiplash:Whiplashは映画内でもっとも練習されるジャズの曲の名であり、また映画の主たる現象「鞭打つこと」を意味する英語)を見て来た。


(以下ネタバレあり)


この映画、前半、ぼくは狂喜した。


僕の愛してやまない人がそこにいたからだ。


それは世界のニナガワ、蜷川幸雄である。


もちろん、映画「セッション」はアメリカのジャズ界を舞台にした鬼教師とジャズドラマーとして世界に名を残したいと考えているイチ生徒の話だから、蜷川幸雄が出てくるはずがない。ないけれども、しかし、蜷川さんのもとに居たことのある人や、彼が演出家として行うエキセントリックな稽古の話を聞いたことがある人は、JKシモンズ演ずる鬼教師の姿に「これは蜷川さんだ」と思わずにいられない。


この映画には何度もあるエピソードが出てくる。それは、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが名奏者になるきっかけのエピソードだ。若きチャーリー・パーカーの下手くそな演奏にぶちきれたジョー・ジョーンズがドラムのシンバルをチャーリー・パーカーに向かってぶん投げた、つまり「理不尽で暴力的なひどいこと」をされたことをきっかけにしてチャーリー・パーカーは天才となったというような、「理不尽で暴力的なひどいこと」をもって生徒を指導する鬼軍曹の指導を正当化するようなエピソードだ。そのエピソードによって正当化された映画のなかの鬼教師は、生徒にむかってパイプ椅子をぶん投げる。その瞬間また「蜷川だ!」老いてパイプ椅子を俳優に向かって投げる蜷川幸雄を見たことがある。


だから、蜷川幸雄を信奉している僕はこの映画に心を鷲掴みにされた。エキセントリックな鬼教師が、ニヤニヤ笑うムカつく白デブの少年をどこまで追い込み、どんな風に限界を突破させ、奇跡をおこすのか、映画はそれをどのように描くのか。それを思うととんでもなくワクワクした。


が、結果は、残念な物になってしまっていた。映画「セッション」はとんでもない歴史的な名作となる可能性があったのに、結果として、そうなり損ねた。


簡単に言うと映画はモラルハラスメントな指導はよくない、というような「常識」に回収されてしまった。僕自身は、映画や演劇や芸術は「常識」を補足するものであってはならない、「常識」を側面から揺さぶり、「非・常識」の正当性を示唆するものでないとならない、と考えている。だから、この映画の、蜷川の元を追い出された若者が蜷川の指導を告発するような、本当は自分は才能があったんだと言うような自己弁護の映画になってしまったことが残念でならない。あるシーンから、もう一度作り直してほしいぐらいだ。そこまではパーフェクトな出来であったから。


この映画に限らず、芸術のある高みを目指す人間の話しはたくさん映画になっている。


そういう類の映画の中で、一番最近見た中で、僕が素敵だなと思ったのは「ブラック・スワン」だ。あれは「セッション」の前半のワクワクがラストのラストまで持続するような映画で、最後の最後には、僕は思わず「この映画は完璧だ!」とつぶやいたら、映画のラストのセリフが「パーフェクト(完璧だ)」で、してやられたりと思った。完璧であることに自覚的なのだ。


ちなみに「ブラックスワン」には鬼軍曹はいない。演出家は出てくるが、鬼軍曹のような暴力的な指導でヒロインを突破させるわけではない。が、エキセントリックの種は与えている。それは「オナニーをしろ」という、セクハラで訴えられてもおかしくない指示だ。性的なことで女性が意識の幕を張り現実と折り合いをつけてしまい表現の限界を突破できなくなっていることは大いにあり、そこの突破が重要になるというのは絶対的にあるので、あのエピソードは正しいと思うし、「ブラックスワン」は親の目を気にして自己を肯定できなかった少女が自己を肯定し、肯定することが芸術的完成と生命の完成になるという非・常識的だが芸術的に実に正しい映画だ。


芸術ではなくてスポーツの世界の話になるが、アニメの「あしたのジョー」も、頂点を目指す若者の話という意味においては似た構造をもった物語である。主人公の矢吹丈を指導するトレーナー丹下段平は矢吹丈にボクシングという居場所を見つけてやる。多少の追い込みもする。しかし後半、矢吹丈は鬼軍曹の追い込みではなくて自己の欲求によって頂点を探求し始め、逆に丹下段平はおろおろするばかり。命を顧みるというのが「常識」であるが、命を顧みないという「非・常識」を追求することによって、ありえないパワーを手に入れて、頂点に立つが、それは命と引き換えによってである。アニメ「あしたのジョー」は「ブラックスワン」同様、素晴らしい作品である。


同じボクシングを題材にした映画「百円の恋」も素晴らしい。安藤サクラ演ずる主人公は、本来的には命と引き換えにしないと得られないエキセントリックな至高の世界を、少しだけ垣間見る。多くの実際のプレイヤーは、チャンピオンにはなれないし、歴史に名を残せない。だが、その何人かは、トップには手が届かないが、その向こうにあるはずの至高の世界を一瞬だけ垣間見ることができる。「非・常識」の世界の匂いを一瞬だけ嗅ぐことができる。「百円の恋」は、本来凡人の見ることの出来ない瞬間を垣間見ることの出来た凡人の姿を捕らえた傑作だと思う。


鬼軍曹が出てきて、理不尽なことを新兵に言ってしごきあげ立派な士官にするみたいなのは「愛と青春の旅立ち」に限らずある。そしてそれを彷彿させるやり方を「セッション」でもやっている。だから、そのしごきに耐えて立派な演奏者になりました…という展開だけはいやだなと考えていた。さすがにそれはやってない。そこはちょっとだけ救われる。


ちなみに「セッション」において鬼軍曹JKシモンズは、青年の家族のこと、家族関係のことを罵る。「ブラックスワン」のヒロインが母親から離れて性的に自己肯定することが一番の突破口であるのと同様、「セッション」の主人公の青年にとっては、ダメな息子の存在を許す父親との優しい関係をぶち壊すことが突破口である。それをJKシモンズ演ずる鬼軍曹は見抜いている。だから、家族との関係、父との関係を口汚くののしる。言われるまでもなくぼんやりそのことを自覚していた青年は、父からの電話に出なくなり、毎週一回映画を一緒に見ると言う父の誘いにも応じなくなる。しだいに青年の顔は変わっていく。「百円の恋」の安藤サクラの顔がボクシングに熱中することで凛々しく変わっていくように、「セッション」の主人公の青年の顔も凛々しく変わっていく。そんな時に行われる父や親戚たちとの食事会の主人公の浮きぶりが素晴らしい。父親たちは、スポーツのように明確に勝ち負けが決まらない「音楽の世界」を、お偉いさんの主観によって優劣が決められる「いい加減な世界」と馬鹿にしている。だが、JKシモンズを信じる青年は、音楽の世界は、判断者の基準によって良い音楽がころころ変わるような不定形の場所ではなく、数学的な緻密さで判定の出来る絶対的な世界であるということを主張する。JKシモンズが音楽を聴いて一瞬で判定を下せるように、分かる人には判る絶対的に良い音楽というのはある。それは数学の答えのように厳密で明らかなものなのだ。演劇とかやっていると、良いか悪いかは監督が気分で決めていると思っている俳優がよくいる。そんなふうに思っている俳優はだめだ。判断は人それぞれなんかじゃない。絶対的に良いものはあり、優劣は絶対的につくのだ。しかし、そんなことは門外漢には判らない。だが、あるのだ。父との圧倒的なズレ。青年の確信。この「セッション」の家族との食事のシーンを見た時にはこの映画が傑作であるのを震えるように確信していたのだが…。


JKシモンズ演ずる鬼軍曹は「超越者」である。主人公の若者は、くだらない常識の中に生きており、しかし本能的にその常識を受け入れていることがだめなことをも知っている。そんなとき、若者は、実現不可能と思われた「非・常識」を実行している「超越者」に出会い、その世界に足を踏み入れるためのパスポートを手にする。


「地獄の黙示録」が傑作であるのは、ウィラード大尉が、「超越者」たるカーツ大佐に感化され目を開かされる、にもかかわらず、そのカーツ大佐を殺すという「常識」を行ってしまうところにある。しかし、その行われた「常識」はもはやカーツに会う前の「常識」とはまったく違っている。カーツの門をくぐることによって「常識」は装いは同じながら、実はカーツ的な「非・常識」の実践になってしまっている。「地獄の黙示録」というフィクションが素晴らしい作品であるのは、その転倒、その奇跡を映画が発見した、ということにあるように思う。


ひるがえって「セッション」だ。セッションは「地獄の黙示録」になりそこねた。


パンフレットによれば、「セッション」のほとんどは、監督のデミアン・チャゼルの実際の体験がもとになっているらしい。ジャズ・ドラマーを目指したことも、鬼軍曹がいたことも、鬼のような特訓のことも、JVCなどで演奏したことも全部実際に監督の経験らしい。ああ、だからそうなのか。と思わざるを得なかった。つまり、この映画は、監督の、天才ジャズ・ドラマーに成れなかったことの恨み節、本当は自分は凄いんだぜという自己肯定でしかないということだ。この映画がだめなのはそこだ。


徹底した自己否定の向こうに素晴らしい演奏があるのに、それを徹底できないで離脱した人間が、「僕はほんとうは才能もあり正しいんだ」と甘えたことを言うのを許してしまったのがこの映画だ。


柔道の行き過ぎた指導が訴えられたことがある。あの時に、蜷川さんの傍に居る者たちはギクリとしたに違いない。いつか蜷川さんも訴えられるかもしれないと。非・常識の世界が常識によって裁かれる。愚かなことである。柔道でも何でもいいが、「てっぺんをとる」ためには、悪魔に魂を売る覚悟が必要で、しかし悪魔に魂を売るまでもなく優雅に暮らしていける現代において、その覚悟をするのは本当に困難だ。それを蜷川さんは恐ろしく追い込むことによって実現している。成果を出している。その恐ろしい非常識こそを芸術は肯定すべきだろう。JKシモンズ演じる鬼軍曹はもっともっと想像を超えた恐ろしい形で肯定されるべきだ。「セッション」はその近くまで行っているのに最後、若者の浅い自己肯定の話しになってしまった。監督が28歳の時に書いた脚本らしい。だからかもしれない。彼が鬼軍曹の年齢になったときに、本来書かれるべきだった「セッション」の本当の後半を描いて欲しいと願わずにいられない。


映画の中で鬼軍曹が自分はチャーリー・パーカーを育てられなかったと悔やむシーンがある。蜷川さんは俳優を育てられなかったと悔やむだろうか。蜷川さんの目的は俳優を育てることには無い。舞台上に奇跡を起こすことだけにある。そう僕は思っている。実際蜷川さんは奇跡を起こしてきている。その奇跡のからくりはこうだ。1にもみたいない欠陥のある若者0.3をみつけてきてしごき倒す。0.3しかなかったはずの彼は本番100を超えるパワーを出す。大事なのは欠損0.7があるということ。その欠損0.7を指摘し痛めつけ肯定させることこそが奇跡のパワーを取り出す源泉だ。そこに鬼軍曹の興味と快感がある。蜷川さんが素人に毛の生えたような俳優の居るニナガワ・スタジオやネクスト・シアターやゴールド・シアターを好んで続けているのはそこにある。しかし、そこは1を育ててる場所ではない。蜷川さんのしごきありきで欠損した人間0.3を100にする場なのだ。人を育てる場ではなくて、奇跡の作品を作る場なのだ。時折100を出したことにうぬぼれた者が蜷川さんの元を離れるが、蜷川さんのしごき無しでは100を出せずにこぞって消えていく。0.3は0.3に過ぎず、蜷川さんのもとを離れれば彼らは皆0.3に戻ってしまう。自らを蜷川的に追い込み100のパワーを自分から引き出すことはなかなかほとんど不可能だ(できるのは矢吹丈だけ)。そういう意味でも「人を育てることができなかった」とつぶやくJKシモンズ演ずる鬼軍曹には蜷川さんが重なって見えた。


いや本当に惜しい、もったいない作品だった。芸術的な真実の隣にまで行ったのに、最後にそれを放棄する徹底性の欠けた映画だった。


※文中、蜷川さんに関する記述はぜんぶ想像なんで、違ってたらごめんなさい。

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