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2011/03/19

良い自粛、悪い自粛

自粛ムードには釈然としない。

自粛にはおそらく2通りある。

消費電力量ピーク時の節電のように、自粛が意味のあるもの。

もう1つが卒業式中止のように意味のないか、または害悪の方が大きいもの。

例えて言えば、

意味のある自粛は「普通のダイエット」である。

それは、無駄な贅肉をそぎ落とし成人病を防ぐという人体へ良い影響がある。

害悪のある自粛は「過剰なダイエット」である。

それは、拒食症を招き、ついには生命を危機に陥れる可能性がある。

自粛全般を否定するわけではないが、意味あるか、害悪があるかの見極めが大事だろう。

 

たとえば、あるクラスに右腕を失った友人がいるとする。

担任の先生が給食のときに言う。

友人の痛みを少しでも思うために、今日だけは右腕を使わないで食事をしてみようと。

みんなで、それをやってみる。

もちろん、腕を失ったことと、腕を使わないで見ることとの差はとても大きい。

使わないぐらいでは、腕を失った本当の意味が判らない。

判らないけれども、すこしだけ、「痛み」を想像することができた。

少し涙する。

こんなことがあるとすれば、その自粛には意味がある気がする。

 

だが、これが強制になってくると違う色が混ざる。

最初は痛みをすこしでも想像しようと始めた右腕を使わない運動。

それが行きすぎて、その日だけではなくて、毎日になったとする。

たとえば、右腕を使った生徒をみつけたら、不謹慎と責めるようになったとする。

右腕使用取り締まり委員会が作られる。

右腕を使った人は、委員につかまり、断罪され、罰を与えられる。

放課後の便所掃除を右腕を一切使わないでやることを命じられる・・・

というような極端なことになったらどうだろうか。

 

前者の自粛が「ありな自粛」で後者の自粛が「無しな自粛」なのは言うまでもない。

だが、前者の自粛から後者の自粛への移行は簡単に行われるだろう。

つまり良い自粛と悪い自粛の境は実はあいまいだ。

あいまいであるがゆえに、

気を抜くと、良い自粛が悪い自粛になってるなんてこともあるだろう。

だから、いま関わっている自粛が「本当に」必要なものか、あるいは「行きすぎた」自粛ではないのか?

それを個々人が「常に」注意深く考えている必要がある。

と思う。

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