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2011/03/15

東日本大震災~善意のありがたみと危険性

最初はちょっと大きいぐらいの地震だろうと、はしゃいでツイッターをしていたが、次第に全貌が判るにつれて、どうしようもない鬱に襲われ沈んでしまった。

いまもそれは続いているが、昨日、災害ボランティアに登録したことと、災害義援金に今の僕では頑張った額だなと思えるほどの寄付をしたことと、現代演劇ウォッチャーのしのぶさんのブログを読んだこと、プライベートにおいてサポートしてくれる人がいたことが多少僕の気持を楽にさせた。

ちなみに、「素人がボランティアで現地に行ってもしかたがない」という話しがあるが、それを含めて素人が判断しても仕方が無いと思う。なので、僕はボランティア登録をし、あとは専門家の指示を待つことにした。

おそらくこの未曽有の大災害からの復興には金だけではなく人力も必要となるはずで、こんな運動不足の僕でも何ほどか貢献できる可能性があると思っている。

原発については最大の憂慮事項だが、事ここに至っては無闇に恐怖を感じても良くないのだろうから、枝野さんや原子力安全保安院の人々、東京電力の人々、自衛隊の人々が死ぬ気で頑張っていることは疑いなく、僕は彼らに同胞としての誇りを感じながら、朗報を待とうと思う。ちょっと韻を踏んだ感じになったのは偶然だ。

ちなみに、今回の災害が起きて、ツイッターやUSTなどのインフラとしての素晴らしさを多くが感じたに違いない。僕もそうだ。昨年のクリスマスからしばらく伊達直人を名乗る善的行為が流行ったが、今回の地震にあたってのツイートをみると、誰かのためになりたいという善意は日本人全般が持っているものであり、逆に悪意を持っている人を探すことの方が難しい。

だが時折、ツイッターでも、善意からの発露だろうが、なにか醜い発言をする人々がいる。人を傷つけることを目的としているのではないかと疑いたくなるような病的な発言をしている人がいる。善意の暴走とでも名付けようか。

記者会見などでも善意の暴走を感じる。原発事故の記者会見の質疑応答などを見るに、記者としては報道マンとしての強力な善意があるのだろうが、それが行きすぎというか、見続けることが苦しくなるような詰問を、東京電力の人々にしていたりする。これを見ていたことが、僕が息苦しくなった直接原因である。東電の人たちが手抜きをしているだろうか。鼻歌まじりで対応しているだろうか。死ぬほど頑張っているのが誰の目にも明らかだ。それを少々の対応のミスをついて得意顔に質問する報道陣には嫌悪感を感じずにはいられない。僕の心は東電の人々に共鳴して苦しくなってしまった。報道の正義と信じて得意げに質問する記者の態度には、善意にこそが凶暴であることを再度思い出させてくれるものがある。

今回の非常事態にあたって、多くの人が良かれと思って真剣に発言や活動している。その根本にある日本人の善意は疑わない。疑わないが、善意であれば、なんでも許されるというわけではない。僕が再確認をしたいのはそのことだ。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった。

それから2ヶ月後の同年3月20日、何が起こったか。

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

地下鉄サリン事件こそは「善意」が引き起こした大惨事である。

震災で危機意識を煽られた「善意」が引き起こした事件である。

復興のためには確実に善意が必要だ。

だが一方で、行きすぎた善意には気をつける。

そういう心持でありたいと思う。

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