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2011/03/27

津波からの逃走実況映像

この動画皆見ました?必見です。 いろいろ貴重です。
映像投降した人生きていて良かった。ほんとうに。
あとBGM素敵です。
「今」的です。

 ↓

宮城県のニコ生主の、津波からの逃走実況映像(BGMまどかマギカw)
http://bit.ly/fiBQ6l


避難成功直後の映像
http://bit.ly/fU8JWC


水が引いた後の自宅映像
http://bit.ly/eZ85Sc

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2011/03/22

セ・リーグ開幕擁護論~芸能・エンタメ全般の覚悟~

開幕時期や節電などへの対応の仕方で、セ・リーグがメッチャ叩かれている。

セ・リーグを擁護するやつは100%いない状態だ。

そんななかで、あえて僕は反対の意見を言う。

あいまいな言い方だが「かならずしも」セ・リーグの判断が間違ってるとは言えないぜ。

みんな冷静になって欲しい。

自粛があくまで是とされるのは

自粛によって失われる「機会費用」が、自粛によって得られる「便益」を越えない場合だ。

では、自粛によって失われる「機会費用」とはなんだろうか。

野球の場合で言えば、「セ・リーグの開幕が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」がそれだろう。

で、得られる「便益」とは、「節電等の手段によって確保された資源やエネルギー」であり、これをもう少しわかりやすく印象的に言うと「セ・リーグを開幕させたら停電などによって被害を受けるはずだった人が、受けないで済んだ被害額」ということになるだろうか。

で、自粛が「是」とされるのは

「セ・リーグの開幕が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」<「セ・リーグの開幕によって受ける被害額」

となるような場合だけだ。

と、考えると、

これ、必ずしも、自粛が是であるのが自明ではないだろう。

なにより、セ・リーグを開幕させたらどれほどの停電被害が起きるのかさっぱりわからない。

ちゃんとしたデータに基づいて「セ・リーグ開幕を不謹慎、パ・リーグ素敵」と批判している人は少ないだろう。

皆のしている批判のほとんどが「こんな時期に不謹慎」という程度の感情論にすぎない。

皆を停電させても強行に意味があるほど「セ・リーグ開幕のメリット」が多ければ、それはむしろ世間の流れに逆行してでも開催すべきことなのだ。

とは言うモノの、被害だけでなく「セ・リーグ開幕のメリット」についても、どれほどのものか定量化している人はいない。

というかスポーツのメリットを定量化すること自体が難しい。

問題をややこしくしているのはここである。

つまり、全ての芸術・芸能・エンターテイメントに言える話だが、「セ・リーグの開幕(のみならず芸術・エンターテイメント全般)が人々にあたえる楽しみや勇気や希望」というやつを定量化するのは難しい。

難しいから、結果として、セ・リーグ開幕による停電被害(そんなのがあるのか知らないが)の方にばかり目が行ってしまい、結局、「セ・リーグけしからん」みたいなところに何の検証もなく行ってしまい「自粛」を「是」とする流れとなってしまう。

僕は当然、芸能に携わるものだから、芸術・芸能・エンターテイメントの力を信じている。

「衣食足りてエンターテイメント」とは思っていない。

むしろ衣食と並び…いや「衣食よりも「前」にエンターテイメント」とすら思っている。

被災地の、日本の、世界の子供たちに希望や生きる意味を与えられるのは僕らの携わる芸能やエンターテイメントの力だと思っている。

また死に際の人々に心の安らぎを与え痛みを忘れさせるのもエンターテイメントの力だと思っている。

この国難に際し、多くの人々が我を失っている。

多くの映画や芝居が延期されたり上映上演中止となっている。

それぞれの事情があり、それぞれがベストな判断を下しているのだと思いたい。

だが、作り手として、エンターテイメント側の人間として思うのは、みんなの電気を奪っても上映上演興行すべきものだと信じられるのなら、堂々と人非人とのそしりを受けても、自らの作品を世に出すべきである。

そういう覚悟のない物は上演する必要ない。自粛すればいいと思う。

「この時期ちょっと…」なんて作り手が思うようなものなら、やらない方が良いに決まっている。

だから、セ・リーグに望んだのは、世間を説得することである。

自分たちのスポーツをいま批判を乗り越えてもやることがどれだけ必要なのかを説得することである。

全員が納得するとは思えない。

思えないが、もしかしたら、そうかも、と思う人がでてきただろう。

一番最悪なのは、説得も何もせず、世間の風潮に流されて開幕を延期したりすることだ。

これは感情的な神様=大衆を助長することにしかならない。

「それみたことか」と、大衆は、国難ある時は、言論や行動を規制するのが当たり前と思い始めるだろう。

それを大衆に許せば戦前の道への逆戻りである。(戦争は軍部が起こしたのではない大衆が好んだのだ)

そう言う意味でも、僕ら不謹慎の徒は衆愚化の流れを止める防波堤にならないといけない。

「みなさんの電気を止めてでも僕らの演劇をさせてください。かならずや電気を止めてもやらせてみて良かったという作品を上演します」と言う。

すると、みんなは「しかたねえなあ、もし酷いモノ見せやがったらただじゃおかねえぜ(笑)」と言う。

僕らは頑張る。

皆は喜んだり、やらせてよかったと言ってくれたり、よくこんなの見せられるな電気返せと笑いながら僕らを小突いたりする。

そういう社会が僕は好きだなあ。

みんなはそういうのよりももっとギスギスしているほうがよいのかい?

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2011/03/20

好機到来

石原都知事が、震災を天罰だと思う的な発言をして叩かれ陳謝したが、この震災を、僕らの今までの無意識の生活への戒め(=天罰)と思うことに心情的に同意する人は少なくないはずだ。

もちろん、直接的な被害を受けていない、無傷の僕らが震災を天罰と言うことが非常にのんきな話だというのはわかる。

ましてや、直接的な被害を受けている被災者にとって、現状が天罰だなんて言うのはおかしい話で、「こんな罰を受けるのが正当化されるほどの酷い生き方を僕らはしてない」とか「「たとえ、この震災が放漫な現代人の生き方への天罰だとしても、どうして、都民や他府県の日本人への罪をまとめて僕らが引き受けなきゃいけないんだ」と被災者たちが言うのは実に正論だ。

だから、石原都知事の「震災天罰説」はその言いたい心情は判るが、しかし、言い方として乱暴すぎたというのが正しいところだろう。

しかし、震災を、ぼくらのいままでの生活への戒め、あるいはいままでの生活への改めの機会とするというのは決して間違ってはいないと思う。

被災地の不幸を尻目に言うが、今回の震災は非常に「好機」であると思う。

なんの「好機」かというと、今までの生活を悔い改める好機である。

たとえば、就活というものがあるが、このダメさ加減は衆目の一致するところだろう。

まず、何がダメかと言うと、就活する学生がだめだ。

あらゆる業種、あらゆる会社をとりあえず受けてみる的な発想がダメだ。

行きたい会社がある、やりたい仕事がある、それならいいけれども、たいがいが、就職できないことを恐れるから、そこかしこに「無節操」にエントリーをする。

その若者らしくない、ヤル気のない、滑り止め発想がダメだ。

そんなダメな発想を受容する若者がろくでもない社会を作るのは目に見えている。

が、この震災を契機に、本当の生き方を選択する人が増えているのではないかと察する。

就活なんか馬鹿らしい。

明日死ぬかもしれないのだから、いまやりたいことやるべきことを悔いなくやろう。

そう考える学生が増えていることを望むし、僕の仲良くしている女子大学生はそういう生き方をこの震災を契機に選択した。

「本当にすべきことは何か」を考えるに今回の震災は大変な好機であったと思う。

就活以外にも改めるべきものは沢山ある。

たとえば、東京一極集中なんてのもそうだ。

計画停電などしているが、原発があんな状況では、夏場の東京を乗り切ることはほぼ不可能なのではないか?

だとすれば、東京一極集中を改善する好機だと思うのだ。

放射能の影響とその恐怖から逃れるために東京を離れ西に移動する人々もいるが、それも良いことだと思う。

行ってみたら行ってみたで、意外に東京で仕事をしないでもいいんだと判ったら、東京一極集中を改善するきっかけになる。

また、同じく電力需要の平準化から出てくる発想なのだけれども、生活パターンの複数化を図る好機でもあると思う。

9時出勤5時退社みたいなのを崩せていければ、それこそ電力消費も分散され、朝のラッシュも緩和される。

いままでだってその改善はした方がいいと思われていたのだろうが、なかなか踏み切れていなかった。

所詮、くすぐり程度のフレックスタイムの導入が関の山だった。

それを考えると、震災および原発の機能停止からの電力供給量の低下は、生活パターンの複数化を本格的に実行する好機到来と考えられる。

また、今回の震災では、多くの人が日本人でよかったなどと民族としての自尊心を取り戻している。また、被災地への支援などを積極的にしようという人々が増えている。

昨今、新しい公共などと言われ、またタイガーマスク運動に見られるような善意の発露などが、本格的に何かの形をなす好機も到来しているのではないかと思われる。

まだまだあるだろう。

だから、思うのだ。

今回の震災は天罰であるとともに天恵でもある。

震災がこなければぐずぐずとして進まなかった日本。

それを今こそ進める好機到来なのだと思うのだ。

これから日常が取り戻されていくだろうが、間違えてもクソみたいな日常を取り戻してはいけない。

被災と言う現実を受け止め、これを新しい日常を作り出すための好機としなければいけない。

そう僕は思う。

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2011/03/19

良い自粛、悪い自粛

自粛ムードには釈然としない。

自粛にはおそらく2通りある。

消費電力量ピーク時の節電のように、自粛が意味のあるもの。

もう1つが卒業式中止のように意味のないか、または害悪の方が大きいもの。

例えて言えば、

意味のある自粛は「普通のダイエット」である。

それは、無駄な贅肉をそぎ落とし成人病を防ぐという人体へ良い影響がある。

害悪のある自粛は「過剰なダイエット」である。

それは、拒食症を招き、ついには生命を危機に陥れる可能性がある。

自粛全般を否定するわけではないが、意味あるか、害悪があるかの見極めが大事だろう。

 

たとえば、あるクラスに右腕を失った友人がいるとする。

担任の先生が給食のときに言う。

友人の痛みを少しでも思うために、今日だけは右腕を使わないで食事をしてみようと。

みんなで、それをやってみる。

もちろん、腕を失ったことと、腕を使わないで見ることとの差はとても大きい。

使わないぐらいでは、腕を失った本当の意味が判らない。

判らないけれども、すこしだけ、「痛み」を想像することができた。

少し涙する。

こんなことがあるとすれば、その自粛には意味がある気がする。

 

だが、これが強制になってくると違う色が混ざる。

最初は痛みをすこしでも想像しようと始めた右腕を使わない運動。

それが行きすぎて、その日だけではなくて、毎日になったとする。

たとえば、右腕を使った生徒をみつけたら、不謹慎と責めるようになったとする。

右腕使用取り締まり委員会が作られる。

右腕を使った人は、委員につかまり、断罪され、罰を与えられる。

放課後の便所掃除を右腕を一切使わないでやることを命じられる・・・

というような極端なことになったらどうだろうか。

 

前者の自粛が「ありな自粛」で後者の自粛が「無しな自粛」なのは言うまでもない。

だが、前者の自粛から後者の自粛への移行は簡単に行われるだろう。

つまり良い自粛と悪い自粛の境は実はあいまいだ。

あいまいであるがゆえに、

気を抜くと、良い自粛が悪い自粛になってるなんてこともあるだろう。

だから、いま関わっている自粛が「本当に」必要なものか、あるいは「行きすぎた」自粛ではないのか?

それを個々人が「常に」注意深く考えている必要がある。

と思う。

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2011/03/17

希望という名の光

問題はいろいろありますが、昨日より今日、今日より明日、そんな感じで日に日に希望の持てる状況になっている気がします。

もちろん、不幸は続いており、現地にはまだ救うべき人々が沢山おり、原発は予断を許さない状況ではありますが、僕らが生きて、笑い、歌い、踊り、飲み、食い、騒ぎ、愛し、祈り、絶望しかかっている人々に希望をあたえないでどうしようというのでしょうか。

てな具合で、前向きです。

いろんな意味で、本来考えておくべきことを忘れていたことに気付かされた事件でしたし、本来考えるべきことを、今になってかもしれませんが、みんなで頭を抱えて考える良い機会である気もします。

苦しみの声に耳を澄まし、やるべきことをやりましょう。

ボランティアも大事だし、でも日々の生活を守ることも重要です。

なんにせよ、みんながんばろうぜ( ´ ▽ ` )ノ

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2011/03/16

「芸術と経済」2回目

本日、3月16日18時30分から、写真家の所さんが主宰するニコ生に出演します。

3月2日に緊急特番として同じ番組をやったのですが、それが好評だったようなので、その第二弾です。

対談のテーマは3月2日に引き続き「芸術と経済」とします。

http://live.nicovideo.jp/gate/lv43221750

もちろん未曽有の大災害の最中ですから、番組の公開の中止やら延期やら、あるいはやるとしても地震特番みたいなのにするとかの変更もありなのだろうけど、所さんと相談したうえで、当初通り「芸術と経済」ということで行くことにしました。

このことが最近流行ってる「不謹慎」ということにあたるのかどうかはわからないですけども、「あるべき日常を守ろう」というような精神で、実に、ふつうに、とくに地震特番ということではなく、予定通りの対談を開催することにしました。

前回放送はもう見ることはできないのですが、前回とはまったく違う切り口で話そうと思っています。

ちなみに前回は、写真家所幸則さんの個人史をひも解き、「どのようにすれば芸術家が食えるようになるか(笑)」というミクロな観点から「芸術と経済」というテーマに切りこみました。

結論としては、写真家としての技術もさりながら、写真を購入する消費者にとってその作品がどのような意味を持つのか、あるいは人類史にとってその作品がどのような意味を持つのか、という文脈を明らかにすること、作品の存在意義を文脈づけること、文脈創造が、作品を購入してもらうにあたり重要という話しになりました。芸術で食べて行くには、上手に作品を作るということプラス、その作品の意義を購入者にとって明らかにする文脈作りが大事ということですね。村上隆さんの論理とかなり重なるところがありますが、僕的には、村上隆さんがその文脈創造をかなり「意識的」にされているのに比べ、所さんは無意識に自然にやっているという印象でした。

本日第二回目はどのような切り口で「芸術と経済」に切り込みましょうか。

とにもかくにも、お時間のある方は18時30分、以下のURLにアクセスしてみてください。

http://live.nicovideo.jp/gate/lv43221750

僕はこの国難にあたって、芸術の出来る役割は沢山あると思っています。

少なくとも僕は山下達郎さんの「希望という名の光」という歌に心打たれ助けられました。


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2011/03/15

東日本大震災~善意のありがたみと危険性

最初はちょっと大きいぐらいの地震だろうと、はしゃいでツイッターをしていたが、次第に全貌が判るにつれて、どうしようもない鬱に襲われ沈んでしまった。

いまもそれは続いているが、昨日、災害ボランティアに登録したことと、災害義援金に今の僕では頑張った額だなと思えるほどの寄付をしたことと、現代演劇ウォッチャーのしのぶさんのブログを読んだこと、プライベートにおいてサポートしてくれる人がいたことが多少僕の気持を楽にさせた。

ちなみに、「素人がボランティアで現地に行ってもしかたがない」という話しがあるが、それを含めて素人が判断しても仕方が無いと思う。なので、僕はボランティア登録をし、あとは専門家の指示を待つことにした。

おそらくこの未曽有の大災害からの復興には金だけではなく人力も必要となるはずで、こんな運動不足の僕でも何ほどか貢献できる可能性があると思っている。

原発については最大の憂慮事項だが、事ここに至っては無闇に恐怖を感じても良くないのだろうから、枝野さんや原子力安全保安院の人々、東京電力の人々、自衛隊の人々が死ぬ気で頑張っていることは疑いなく、僕は彼らに同胞としての誇りを感じながら、朗報を待とうと思う。ちょっと韻を踏んだ感じになったのは偶然だ。

ちなみに、今回の災害が起きて、ツイッターやUSTなどのインフラとしての素晴らしさを多くが感じたに違いない。僕もそうだ。昨年のクリスマスからしばらく伊達直人を名乗る善的行為が流行ったが、今回の地震にあたってのツイートをみると、誰かのためになりたいという善意は日本人全般が持っているものであり、逆に悪意を持っている人を探すことの方が難しい。

だが時折、ツイッターでも、善意からの発露だろうが、なにか醜い発言をする人々がいる。人を傷つけることを目的としているのではないかと疑いたくなるような病的な発言をしている人がいる。善意の暴走とでも名付けようか。

記者会見などでも善意の暴走を感じる。原発事故の記者会見の質疑応答などを見るに、記者としては報道マンとしての強力な善意があるのだろうが、それが行きすぎというか、見続けることが苦しくなるような詰問を、東京電力の人々にしていたりする。これを見ていたことが、僕が息苦しくなった直接原因である。東電の人たちが手抜きをしているだろうか。鼻歌まじりで対応しているだろうか。死ぬほど頑張っているのが誰の目にも明らかだ。それを少々の対応のミスをついて得意顔に質問する報道陣には嫌悪感を感じずにはいられない。僕の心は東電の人々に共鳴して苦しくなってしまった。報道の正義と信じて得意げに質問する記者の態度には、善意にこそが凶暴であることを再度思い出させてくれるものがある。

今回の非常事態にあたって、多くの人が良かれと思って真剣に発言や活動している。その根本にある日本人の善意は疑わない。疑わないが、善意であれば、なんでも許されるというわけではない。僕が再確認をしたいのはそのことだ。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった。

それから2ヶ月後の同年3月20日、何が起こったか。

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

地下鉄サリン事件こそは「善意」が引き起こした大惨事である。

震災で危機意識を煽られた「善意」が引き起こした事件である。

復興のためには確実に善意が必要だ。

だが一方で、行きすぎた善意には気をつける。

そういう心持でありたいと思う。

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2011/03/09

官僚批判は正しいのか?

前原外相辞任とか政治のダメなところ見ると、

それでも日本経済に対する世界の信頼がなくならないのは

やっぱり官僚が頑張ってると認識されてるからなんだよなと思う。


以下のリンクは、いつも素敵な記事を提供してくれる極東ブログさんの記事。

必読です。

極東ブログ「フィナンシャルタイムズの日本政局評価もトホホ」

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2011/03/07

ラース・フォン・トリアー監督「アンチクライスト」

英国王のスピーチを観ようと思ったら夜の回まで激混みで、次に観たかったラース・フォン・トリアー監督の「アンチクライスト」を観た。

で、寝た。

どんぐらい寝たかというと、同行者に「何%みた?」と聞かれるぐらい爆睡した。

爆睡したが見ていなかったわけじゃない。(というような言い訳をよく聞く気がするが…)

むしろ、僕は映画の中に入ってしまっていた。

この映画は、とても恐ろしい映画だ。

例えて言えば、ロールシャッハテストだ。

紙の上に落とした墨。二つ折りにし、開くと、奇妙な絵。その絵を患者に見させて、それが何に見えたかを聞き出すところから、患者の中に眠る強迫観念に迫る手掛かりとするという、あの精神医学の手法だ。

ロールシャッハテスト

ロールシャッハテストはその実効性が疑われているようだが、しかし、こんだけ一般に認識されるほどに広まったのは、そのテストのアイディアに、「さもありなん」という、なにほどかの納得性があったからだろう。

で、この映画「アンチクライスト」はまさにそのロールシャッハテストに使われる奇妙な絵のような作品だ。

見る人がどのように解釈してもかまわない。

だが、その解釈には確実に、その見るモノの心の奥に眠る強迫観念が反映する・・・。

僕がこの映画を恐ろしいと表現するのはそのためだ。(寝ていたくせに・・・)

次にどういうシーンが来るのだろうという予想がまったく意味をなさないほど、この作品は奔放に作られている。

監督自身はこれをLetting Go、「解き放つ」と表現している。

そもそもこの「アンチクライスト」の脚本は、ラース・フォン・トリアー監督がうつ病になり、そのうつ病を治療するために書いたものだという。

そして、その過程で、監督は、自分をLetting Go、「解き放つ」することに留意した。

映画はこうでなくてはならないとか、物語はこうでなくてはならないということから自由になろうとした。

結果、監督の無意識があふれ出した画が作られている。

そして、だからこそ、その画にどう反応するかが、こちら側のトラウマを浮き彫りにしてしまうという、意図せざるロールシャッハテストのようなことになっているのだろうと思う。

キリスト教に深い理解が必要とされる映画のような気もするが、逆にそのような理解が無いからこそ、この映画は僕らの前に純粋にロールシャッハテストとして現れる。

この映画を居眠りしながら見て、家に帰り、書くべきシナリオを描きながら深く居眠りをして目を覚ましたとたんに思い至った恐ろしい記憶。それは思いだすことを避けていた記憶であった。「アンチクライスト」と深く共鳴して僕の心の中の闇が表に出てきてしまった。

「アンチクライスト」がどんな映画かというと、そんな映画だと言える。

向き合いたくない人は見てはいけない。

僕自身は向き合いたくなかったのに見てしまったが故に向き合わなくてはならなくなった。

これは、まさに監督が自身のうつ病を治療するために格闘して作った作品ならではの効果だろう。

映画を観に行くというよりも、治療を受けに行く…逆治療の可能性もあるが…と考えて観に行くべき映画だ。

(そもそも映画を見るという行為はすべて治療行為なのかもしれないけれども)

さて、以下はこの映画を見て思ったことなど(僕が80%寝ていたことは忘れてください。いや寝ていたからこそ、僕は最も正しくこの映画を批評できる気もするw)

・性行為などにおけるボカシは不必要だと思った。むしろ、生々しく描くことに意味があったはずだ。それは食事や睡眠などと同じように汚く気持ち悪い行為であることを告発する行為のはずだ。だからこそ、ペニスがヴァギナに挿入されているシーンを直接的に撮ったと思うのだ。だとするとあれをボカスことで、本来監督が見せたかった秘密の真相がまたしてヴェールに包まれることになる。

・この作品を作るにあたり、ラース・フォン・トリアー監督がもっともインスパイアされたのはジャパニーズ・ホラーで中でも「リング」に影響を受けたらしい。僕はそれが具体的にどこかは判らないが、ジャパニーズ・ホラーに共通する心理性みたいなものは反映していたのだろう。むしろ心理性しかない。

・心理性は「家族」というモノの間で最も物理化し暴力となる。

・遠慮が無くなるということだ。

・動物や昆虫の営みを撮影するのによくつかわれるハイスピードカメラが使われている。このことで、生きることの美しさと気持ち悪さが丹念に描かれる。それはまさに動物や昆虫たちのそれと同等なのだ。

・ラース・フォン・トリアー監督、本名はラース・トリアーというらしい。フォンはフォン当の名前ではなかったのか。

・フォンなんて言う名前をつけたしたところに、トリアー監督の病がすこし見え隠れする。

 ドイツ語の名前の「フォン」てどういう意味なんでしょうか?

・ウィリアム・デフォーだと思ってたらウィレム・デフォーとなっていた。もとからそうなのか?

・そのデフォーがキリストを演じた「最後の誘惑」との連関はまったくない…こともないが

・この役をオファーされたウィレム・デフォーはオファーを受けるかどうか悩んだらしいが、悩んだ原因は、監督の奥さんが、ウィレム・デフォーに「この役を受けちゃダメよ」と忠告したかららしい。まぁ、普通、受けちゃダメだよというよなと思う。が受けるべきとも思う。スパイダーマンなどの映画への出演では得られない本当の格闘・表現を考えることができただろう。役者として生まれたなら、こういう映画への出演は1度は必ずしたいと思うに違いない。小手先で演じることのできる芝居なんてクソくらえだ。

・シャルロット・ゲンズブールはこの役を演じることに「奇妙な喜び」があったと言っている。監督も彼女を同志と認め、彼女も監督を同志と認め、次回作でも組むことになっている。

アンチクライスト@ぴあ映画生活

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辞めさせてはいけなかった。

前原外相が辞任する。

僕は前の前のエントリーに書いたように、前原さんに政治家として不純なものを感じていて、前原さんは良くないなあと思っている。

思っているが、今回の件については、辞任をさせてはいけなかったと思っている。

理由は、これが前原さんの延命につながるからだ。

まず、「たかが5万円の献金」で彼を下すことが彼の復活を容易にすることは誰でもが読める。

僕は、菅政権は、政治の膿を出し切る好機だと思っている。

徹底的に、偽物の政治家はニセモノであることを顕すように追い詰めなければいけないと思っている。

今回、「たかが5万円の献金」で前原外相をゲーム外に追い出すことで、本来彼が外相というポジションに居ながら行うはずであった失政を彼は行わないで済む。

今回の件は前原さんにとっては願ったり叶ったりの結果だったと思う。

泥船から一抜けることができたからだ。

これで前原首相が将来誕生する可能性は格段に高まった。

そして「たかが5万円の献金」は、学生時代から付き合いのある焼肉屋のおばちゃん(=在日韓国人)からの、前原君、がんばりいやと渡された5万円を、ほんとうはありがとねと言ってポケットマネーにしてしまえばよかったのに、それを正当に政治献金として処理をしたら、逆にそれがあだとなったという本質から、この話は「美談」に変わる。

このことで責められるべき本当の罪は、「うかつであったこと」だけで、しかし「うかつであること」は、むしろ前原の純粋性を補強する。

京大カンニング犯が擁護されるのは、彼の悪事が「うかつ」であったことにある。

全く同じことだ。

正直、この情報のリークは前原さん側からされたんじゃないかと思うほど、前原さんにとってなんら悪い話はない。泥船から逃げられるどころか、のちのちこの罪は「美談」として語りえる要素を持っている。

このことで外相を辞任させて、鬼の首をとったような顔をしている保守陣営は馬鹿だ。

つかまえるべき一番大きな獲物を取り逃がしてしまったのだ。

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2011/03/02

芸術と経済

素敵な写真を撮られる写真家の所幸則さんがニコ生でやっている番組に急遽出演することになりました。

本日18時半から19時半くらいまで。

「芸術と経済」

と題して、所さんと対談をします。

ちゃんとお話しをできるのか不安ですけども、ぶっつけ本番で頑張ります。

よかったら見てやってください。

ここ→「写真家の異常な愛情」

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