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2011/02/02

葛河思潮社「浮標」

自分最低と思わざるを得ない。

舞台や映画をできるだけ初日に観に行くのは、その舞台や映画が素晴らしかった時、ブログにすばやくレビューを載せ、たとえ、僕などがブログでなんとほざこうが、さほどの影響などないとしても、その影響のなさにくじけることなく、自分の愛したものにたいして援護射撃を続けるためである。

ああ、一文が長いとなにがなんだかわからないが、ようは、俺ダメ馬鹿というわけである。
理由は、長塚圭史さんの新しいユニット、葛河思潮社の「浮標」をなんと1月17日の初日に観に行っているのに、しかも、衝撃を受けるほどの感動を受けているのに、そのことについて今だ何もブログに書いていない。

なのに、同じ日に「浮標」を見た高野しのぶさんは即日号外を出している。

しのぶの演劇レビュー号外 葛河思潮社『浮標(ブイ)』

しのぶさんとは最近いろんなところでお会いする。そして、その行動をつぶさに見ているのだが、ノートにびっしりと芝居のメモを取っていることとか、それをコンスタントに、しかも即座にブログで発表していることとか、頭が下がる。大変な努力であり、彼女の行動が、日本の演劇界を下支えしているのは紛れもない事実と思われる。

そんなしのぶさんには及ばずとも、さらに谷くんのplaynoteに及ばずとも、コツコツと書いて行きたいものだが、なんだろうね、僕の処理能力の低さは。今年になって映画と演劇はかなり見ているのにぜんぜん書けていない。

まぁ、いい、そんな俺俺嘆きはどうでもいい。

葛河思潮社「浮標」(ぶい)である。

長塚圭之演出、三好十郎脚本。

休憩を2回挟み4時間にわたる大作である。

まず観終わっての感想は、脚本凄いということだ。

舞台の初めに長塚圭史さんご自身が現れて、今回の劇の趣旨を述べられる。

要は1939年(昭和14年)に書かれたこの戯曲を現代の物として読み込む作業をしたということ。

そういうことを話された。

だから、観終わって思ったのはどれほど戯曲に現代的な改変をくわているのだろうということ。

というのも

脚本素晴らしく、しかも非常に「現代的な」、愛と人間の生きる姿が描かれていたからだ。

結構、いじくってんのかなと。

で、

今時はとても便利で、

三好十郎の脚本など著作権の保護期間を過ぎた作品はネットで無料で読むことができる。

僕は神奈川芸術劇場からの帰りの電車、iPhoneの青空文庫で三好十郎「浮標」をダウンロードすると早速読んだ。

長塚さんがどれほど手を加えているのだろうかと確かめようと思ったのだ。

だが読んでみてわかったのは、長塚さんはほぼ…つうか全然?脚本に手を加えてないのだ。

三好十郎の脚本がすでに「現代的」なのだ。

僕らは先入観として古いものは古いと思っていたり人類は未来に向けて進歩していると思いがちである。

ところがドッコイだ、この野郎。

古いテキストはめっちゃ斬新なのだ。斬新で深い。

というわけで青空文庫は手放せない。

ここには無数の著作権切れのテキストがあり、それが全部無料で読める。最近の僕ヒットで言えば大杉栄素晴らしい。素敵テキストに気が狂わんばかりだ。これが無料って馬鹿じゃないの?というか青空文庫があれば新しい本なんていらないとさえ言える。

で、この三好十郎「浮標」も素敵過ぎて、ここに書きうつしたいぐらいだ。

青空文庫は、超昔からあって、その作成に関わらないかとその昔誘われたこともあるのだが、僕は携帯を全廃してiPhoneに換えてからこの青空文庫に俄然お世話になるようになった。携帯電話でも読めるのだが、iPhoneでの見やすさが半端ないからだ。

青空文庫:三好十郎「浮標」

と、なんだか長塚圭史さんの「浮標」の話と言うよりも、青空文庫すごいみたいな流れになってきてしまったが、要はそうやって原文テキストにスグに当たりたくなるほどの興奮を僕に与えた舞台だということだ。

当然、おっさんたちは「浮標」ぐらいもうどこかで上演されているのを見たことがある乃至はテキストにあたったことがあるだろうが、若い人は、この長塚圭史版がはじめてという人も多いだろう。だからこの舞台を見て、その後、三好十郎のテキストにあたって衝撃を受けるという経験を、僕と同じように皆もしたらいいと思う。

しかし、テキストが素晴らしいからと言って、舞台が、必然的に素晴らしくなるわけではない。

素晴らしくするための作業が必要だ。

とくに、この三好十郎「浮標」はいわゆる難病物であって、観客を泣かせようと観念すれば、逆に観客の心は離れて白けてしまうだろう。

観念は邪魔だ。必要なのは肉体だ。

あの話を嘘臭くない実際の物として、現代の物として立ち上げる肉体が必要だ。

実際、「浮標」は、三好十郎が妻を病気で亡くした、その時の経験が書かれているのだから、空想的なお涙頂戴の難病物とは立脚点が違う。

今回の、長塚圭史演出では、それを役者や演出が「誠実」に肉体化している。

キャスティングがまず絶妙だ。田中哲司、藤谷美紀、大森南朋、中村ゆり、佐藤直子、峯村リエ、江口のりこ、安藤聖、深貝大輔、山本剛史、遠山悠介、そして長塚圭史、それぞれの登場人物を演じるにふさわしい外縁をもった役者たちだ。その見えぬ外縁があるからこそ、過去に向かって放射状に広がる無数の物語(脚本の外にある物語)が実感できる。劇中で語られはしないが、それぞれの登場人物が抱える人生の重みが立ち居振る舞いや言動ににじみ出ている。もちろん外縁は役者が持ち寄ったモノばかりではない。というか役者が持ってくるのは肉体という定形に曲がる癖を持った透明な素材だ。それを丁寧な演出の言葉が曲げたり色をつけたり汚したりして行く。ぼんやりとしたイメージを具体的に掘り下げていく。素材と素材の関係性を決定していく。そういう「誠実」な作業があって、そこで話される会話、感情劇は現実のもの…肉体となる。

尖ったことをやり続けてきた感のある長塚圭史さんが、長塚さんご本人が感動し号泣したという三好十郎の脚本を、真摯に実直に祈るように「誠実」に肉体化した。

その姿は、主人公の久我五郎が死にゆく妻を「誠実」に愛しきる姿に重なるかもしれない。

人間は、残念なもので、もう手遅れとわかったときに、はじめて奇をてらわずに素直に愛せる。

いままでの「不誠実」をかなぐり捨て、真摯に愛す。

「誠実」に愛す。

だから、今回のこの作品は、英国留学を経て、アンチクロックワイズ・ワンダーランドを経てたどり着いた長塚圭史の真摯な演劇に対する愛の告白と僕は感じた。

もちろん、演劇が死にゆく妻であるかどうか、また愛がもう手遅れかどうかは分からないけれども。

2/13まで吉祥寺シアターでやっている。

意識ある人は絶対見に行って欲しい。

あとパンフレットは買った方が良い。

1952年に書かれた三好十郎の「浮標」あとがきがある。

これを芝居の前か休憩に読まれることを勧める。

葛河思潮社「浮標」脚本:三好十郎、演出:長塚圭史

チケット代6300円は高くない。

飲み会をちょいと減らせば行けるだろう。

なのに行かない人は怠慢だと思う。

あと、最後に、神奈川芸術劇場はほんとうに素敵なところであった。アクセスも悪くない。今後、神奈川芸術劇場でやる芝居は気にして観に行った方がいいと思う。僕が観に行った「浮標」の初日は、この素敵劇場のこけら落としでもあった。そんな日に立ち会えたことは大変うれしい。

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