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2011/02/19

前原という残念

首相ふさわしい前原氏1位維持
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011021800601&m=rss

前原誠司は残念だ。

この人高坂ゼミで、高坂先生の薫陶を受けているはずなのに、高坂先生の思想とは真逆の行動と発言ばかりで本当に失望させられた。

ちなみに、この前原の元秘書で、いまは京都市議の中野洋一は僕の高校時代の親友。(しかし、いま前原を批判したことで親友ではなくなるかもしれない)

また僕が京都大学に入学した時から色々指導をしてくれ、またおととしの僕のオヤジの葬儀でも大変心を尽くしてくれた元杉並区長山田宏さんの後輩(京大法学部、松下政経塾)でもある。

そういうこともあって、心情的に応援したいのだが、でも前原はだめだ。

高坂先生の教えを思い出せ。

そうすれば応援する。

僕は高坂先生がご存命の時に一度だけ講義とお話を伺う機会があった。

高坂先生は僕の師匠である吉田和男京大教授の師匠の一人でもある。

戦後日本をただすべき正しい保守思想を持った一人であった。

前原誠司は、なぜ高坂正堯先生の教えをつがないのか。

地位だけが欲しい人にしか見えない。

高坂ゼミに入ったのだって結局そのブランドだけが欲しかったのかもしれない。

まことに残念だ。

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2011/02/17

日銀法改正をめぐる日銀内部での闘争の思い出ほか

茂木健一郎さんのツイートに刺激されて日銀時代の思い出を語ったら、がすがすRTされて一挙にフォロワーが120人も増えた。

「日銀法改正をめぐる日銀内部での闘争の思い出(当事者によるw)」
http://togetter.com/li/101918

※これについてはブログでもうちょっと補足したことを近いうちに書きます。

あと、僕の渾身の論考への御意見も募集しております。
一緒に日本を変えましょう。

よろしくね!!


「それでも無縁社会は大問題な気がする」
http://alotf.cocolog-nifty.com/nikki/2011/02/post-d8a7.html


「善意の特攻…タイガーマスク運動の本質」
http://alotf.cocolog-nifty.com/nikki/2011/01/post-10fa.html


「twitterの速報性をもてはやすな。~米国議員射撃事件~」
http://alotf.cocolog-nifty.com/nikki/2011/01/twitter-75c5.html

あとなんかこういう映画があるのですが

青空の下、三元くんたちがジャンプしている宣伝写真は僕が撮りました。

「魂を握りつぶした男」
http://jgmp.co.jp/tamashii/

まもなく公開のようです。

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2011/02/16

ブラジル「怪物―カイブツ―」

駅前劇場にてブラジル「怪物-カイブツ-」観劇。

コリッチ:ブラジル「怪物-カイブツ-」

感想が言いづらい。

というのはネタバレが致命傷となる舞台だと思うから。

抽象的な感想でも内容を類推させてしまう。

が、慎重に言うと、

桑原裕子さん(KAKUTA)@baramusiや、辰巳智秋さん@eatman89ら役者の個性がかくも生かされている舞台はなかなかない。

そして思わせぶりなタイトルにある肝心の「怪物」の正体については…こうきたか!という感じ。

素敵なアイディアだ。

舞台が終わってロビーで脚本演出のブラジリィー・アン・山田@annyamadaさんと初対面。

興奮気味に「これ映画にしたいです」と言ってみた。

本当に映画になる。

映画化の場合、コメディが基本だろうけど、でもホラーにも、SFにも、時代劇にも、何にでも応用できる「普遍的な物語」のプラットフォームを提供している作品が、このアン山田さんの「怪物」だった。

とくに映画化されるときには、その「普遍的な物語」のプラットフォームを持っているという性質から、作品はシリーズ化されるだろう。

そして、ちょうど4作目あたりで、この舞台の台本がそのまま「カイブツ-BIGINING-」として映画化されるだろう。

とにもかくにもブラジル「怪物-カイブツ-」は素敵な作品です。

2月20日まで、下北沢の駅前劇場でやっています。本当に駅前にあります(笑)

観に行ってみて。

ちなみに映画化があるとしても桑原裕子さん、辰巳智秋さんらオリジナルのキャストで行きたい。

他があんまり考えられない。

そんな素敵な逸品でした。

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2011/02/14

それでも無縁社会は大問題な気がする

●NHK「無縁社会」はイライラしたが、「無縁社会」自体は現代の大問題であると思う。

NHKでやった討論会みたいなのは本当につまらなかった苛々(イライラ)した。

しかも、なんか自作自演もあったみたいで、もめている。

とは言うモノの無縁社会って現代の解決せねばならぬ問題の一つだろうと思っていたので見たのだ。
 
そもそも、無縁社会ってなんぞや…それをwikiさんに聞くと

無縁社会(むえんしゃかい 英:unconnected society)とは、単身世帯が増えて、人と人との関係が希薄となりつつある現代社会の一面

とある。

世の流れに逆らって生きる僕が何故こんなキャッチーな言葉に惹かれたかと言うと、ミドルエイジクライシスというNHKの番組を見たからだ。

「父子家庭を生きる」

15分くらいの映像なので見てみて欲しい。

父1人、子1人の家庭の話なのだが、働きながらの子育ては実に大変そうだ。

思ったのはどうして誰か彼を助けてやる人がいないんだろうということだ。

近所のおばちゃんでも何でもいい。

こんだけ人間の多い日本なんだから、誰かが彼を助けてやれることできるだろう。

児童施設にランドセルを送っている暇があるなら彼を助けてよ。

なのになぜ誰も彼を助けないんだ?

そう思ったのだ。

もちろん、本当は助けてあげる人が沢山いるけれども、NHKが無縁社会キャンペーンのために、そういう部分を報道しないでいるという可能性もなくはないが、僕はこの映像を見て、誇張はあるにしても、こういう「無縁社会」が実際に存在することの「蓋然性」を強く感じた。

(蓋然性【がいぜんせい】…ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。)


●「無縁社会」の生じる必然的メカニズム

明治の富国強兵から、太平洋戦争後の高度成長に至るまでの、爆発的な経済成長が、この問題発生の背景にあると僕は思っている。

この150年間の高度成長を支えたのは技術成長もあるが、大きい部分として、人材の移動、生産要素の生産力拠点にたいする集中化があると思う。つまり、各地方に散らばっていた人材を、生産拠点に移住させることによって生まれる「規模の経済」や「集積効果」が、150年の経済成長を支えた、そう思うのだ。

江戸末期にあった305の藩を47の都道府県に整えたこと、個別地域の最適化ではなくて、日本国全体としての最適化を行ったことが、日本の150年の高度成長を支えた。

このときに起こった感情的な軋轢が、たとえば大正の女工哀史のような話であったり、あゝ野麦峠であったりした。さらに言えば明治末期から大正の労働運動だってこの地域を越えた資本主義的な生産要素の配置の最適化によって生じた感情的な問題が発端だろうし、226事件だってそうだ。

で、戦後の高度成長期には団塊の世代と後に呼ばれる人々が「金の卵」とよばれ中学校や高校を卒業するとすぐさま田舎を離れ東京などの生産力拠点に移住することとなる。これも同じ流れだ。

つまり、議論を再整理をすると、日本の150年の経済成長は、もっとも重要な生産要素である労働力の配置を全日本的に最適化すること…「故郷」から「会社」に移住させることによって生まれた。

だが人間は「共感」を必要とする社会的な存在だ。

地元から切り離された人々は、生きるために必死に「共感」の基盤を作る。

郷土愛はもちろん、母校愛、愛社精神、同じ冷遇を受けている労働者への共感としての労働運動、新興宗教…

それらの様々な装置が、この全日本的な生産要素の最適化を側面から支えることになった。

なかでも重要なのが愛社精神と言うやつで、というのは、そもそも労働力の移動が生産活動にまつわることだから、この「故郷から会社への移住」を正当化するうえでも、「会社」自体を共感の基盤とみなす愛社精神が、一番ポピュラーな共感基盤になるのは必然であった。

とくに太平洋戦争後は、日本全体を覆う共感の基盤としての「国家」が消えてしまったのだから、なおさらこの「会社」という共同体の重要性は高まる。他に共感を生み出す基盤が無いからだ。

終身雇用と呼ばれていたのも、こういうことが裏にある。日本の「会社」とよばれるもの、あれは「会社」じゃない。「会社」と言う名の「故郷」なのだ。「故郷」なんだから、そこを抜ける意味が無い。よっぽどラディカルな人でないと「故郷」は捨てない。

だが、問題は、「会社」はやはり共同体ではなく「会社」であったということだ。

バブルがはじけ、「会社」=「共同体」の欺瞞が継続不可能となる。

リストラや実力主義なんて言葉が流行する。

自分で自分のキャリアを守るためにMBAを取得したり、転職をしたり、そう言うことが起き始める。

昔は、会社で、家庭の事情を話したり、ときには社宅で、お互いの家庭的不都合をカワリバンコに補っていたことが、「え、どうして?社宅の掃除をみんなでやんなきゃいけないの?」という声が出てくる。最初は小さかった声もそう言う声が増えれば、どうどうと言えるようになってくる。同じ社宅に住んでるからって、何でもかんでも互いに知っているようなことはなくなっていく。

日本の「会社」が横並び出世だったのは、共感の基盤を崩さないためだ。

剛腕の変人よりも、凡庸な人格者が選ばれてきたのも同じだ。

だが、それはバブルまでの話だ。

バブル以降は、抜け駆けをして頑張ったやつが報われる。

となると、お互いのマイナスは打ち明けないことになる。

「あそこは家庭に問題あって大変だから、いつ仕事を投げ出すか分からない。だから、この仕事任せるのやめときましょう」

そう言われるのが怖くて、問題があっても同僚にも上司にも打ち明けない。黙って頑張る。

会社の人に打ち明けても仕方が無い。もはや「会社」は「故郷」なんかじゃない。たんにビジネスの場にしか過ぎなく共同体ではないから、よっぽどでないと助けあわない。それぞれはそれぞれの生活がある。

会社は会社だ。

だからそういうドライな姿になったのは別に間違いではない。

間違いではないが、「会社」だけが唯一の「共感」の基盤だった人々はどうすればいいのだろう?

途方に暮れる。

「会社」は「故郷」だから安心ですよと東京に連れて来られた「金の卵」。それは嘘ではなかったが、その約束は孫の代で放棄された。残ったのは「故郷」を無くして途方に暮れる「金の卵」の孫たちである。

これが「無縁社会」が生まれた理由であると僕は思う。

僕が「無縁社会」が現代に大問題としてあることに「蓋然性」があると言ったのはこのためだ。


●「無縁社会」は必然であるが、それが問題であるのは、人間にとって共同体が重要である場合だ。

ただ、この議論には前提がある。

上の方で「人間は「共感」を必要とする社会的な存在だ」と書いた部分だ。

これが前提になっている場合にのみ「無縁社会」は大問題だ。

しかし、そもそも、この前提を是認しない人はいると思う。

人間は「個」であって「共同体」なんていらないよ、という人だ。

そう言う人は「会社」が「共同体」でなくなってなんの問題があるの?ようやく人間が近代的「個」人として自立すべき時が来たんじゃない。今さら共同体が必要って馬鹿?というわけである。

僕の尊敬する池田信夫氏もそういう論調のような気がする。

池田信夫blog「無縁社会キャンペーンの恥ずかしさ」

だが、僕は「共感」の基盤としての共同体は必要であると思う。

その証明はほぼ不要で、「人は独りで生きていけないから」という凡庸な慣用句で足りる。

誰かが困っているときになぜ人は助けてやるのだろうか?

子供に、「どうしておばあさんに席を譲ってあげなきゃいけないの?」そう聞かれたらどう答えるか。

「いつか、お前がおばあちゃんになった時に席を譲ってもらえないと嫌だろう?」そんな答え方をするか?それは利他行為を利己的行為に読みなおす言い方だが、子供はそんなことを納得しないだろう(もちろん納得する子供だっているだろうが)。自分がおばあちゃんになるというのは子供にとって論理的には分かっても、心の底から納得のいく論理ではない。

「おばあちゃんに席を譲る」理由は決まっている。それは問答無用で「席を譲りたくなる」からだ。理屈は必要が無い。たとえば、目の前のおばあちゃんが知り合いのおばあちゃんで、彼女の足がどれほど弱っていて大変か知っていれば、おばあちゃんに席を譲ることに理由はいらない。共感とはそこにある。知り合いのおばあちゃんじゃない場合はどうか。知り合いのおばあちゃんに似た人がいればそれでいい。似ているから、理屈不要で、そのおばあちゃんに同情し席を譲ることができる。知り合いにそのようなおばあちゃんのいると感じることのできる状況を作り出すのが共同体の役割だ。他人にいかに共感できるかその基盤を作り上げるのが共同体だ。

そこには介護サービス云々という市場システムを通す行為とは別種の行為が存在する。

もちろん、市場万能主義者なら言うように、「電車の中で席を譲ってもらう権利を売買するマーケットを作ればいい」という意見もあるかもしれないが、しかし、その意見が如何に笑うべき意見かは言うまでもないだろう。

マーケットで取引可能な財やサービスばかりでないことをもう一度思い出すべきだ。

先のNHKミドルエイジクライシスに描かれている父子家庭も、ご近所隣り組があれば、それでその生きることの大変さはかなり軽減することができるはずだ。


●新たな共同体と古い共同体

「ご近所隣り組」と思わず書いた。

古っと思われる人も多いと思う。

池田信夫さんも「日本は本来「有縁社会」で、その縁が失われるのは嘆かわしいという湿っぽいノスタルジア」と言っている。

「ご近所隣り組」という縁はまさにその湿っぽいノスタルジアの最たるもののようにも思えるだろう。

だが、僕には、この「ご近所隣り組」がやはり必要だと思わざる得ない合理的理由があるような気がする。

「ご近所隣り組」が必要であることを説明するために、そうではない新しい共同体のことを考えてみる。

それはfacebookによる共同体である(mixiでもいいが)。

facebookは人々をつなげるものであり、それは人間を幾つもの属性に分解し、それぞれのクラスタでの共同体を仮想空間に形成することができる。

これまで「会社」などの共同体が果たしていた心理的部分はある程度、その仮想空間での共同体でカバーできるだろう。

だが、やはり先のミドルエイジの父子家庭のことなどを考えればわかるが、ご近所の味方に勝る味方を考えられるだろうか?

facebookなどネットによるつながりは、距離に関わらず心を近づけてくれることにメリットがある。

だが、いま「無縁社会」をつなぐに必要なのは、あの父子家庭がそうであるように、実際に手を貸してくれる物理的距離の近い人だ。もちろん、馬鹿市場主義者が言うかもしれないことのように、そういうサービスを考え出すこともできるが、それがどれほど隔靴掻痒なことであるか。

今まさに弱り切って自殺しようとする人がある。必要なのは、ネットを使って彼を止めてくれるサービスを検索する人ではなく、いまそこに行って、死のうとする彼を抱き止めてやる人だ。

そう考えたときに、古いかもしれないが、僕はやはり「ご近所隣り組」に勝る新しい共同体を思いつかないのである。


●僕らのすべきこと

もちろん池田信夫さんが

ハイエクも論じたように、どんなコミュニティも自生的秩序として維持されるかぎりにおいて続くのであり、コミュニティを政府が作り出すことはできない。個人主義にもとづく市民社会は快適ではないが、日本が自由経済システムをとった以上、後戻りは不可能である。政府の役割は縁を作り出すことではなく、個人の自立を支援する最低保障だ。未練がましい無縁社会キャンペーンは有害無益である

と言うように、たしかに、その共同体の生成を、政府が行うべきというのは違うのかもしれない。

しかし、新しい共同体は自生的に現れてくるだろうか。

現れてくれればそれに越したことはない。が、自生的に現れたものが全ていいかどうかは分からない。変な草木が生えてしまい、出来た後にもう一度それを全部焼かなければいけない場合もあるかもしれない。

僕はいま新興宗教がその場所に立ち現れる可能性を感じる。ナチス的な何かかもしれない。

心の隙間に忍び込むのはいつでも怪しい存在だ。

池田信夫さんが言うように、雇用の流動化を推進する政策こそがいま必要なのは間違いが無い。

それは急がれなければならない。

茂木健一郎さんが言うように、就活などの古臭いシステムも破棄しなければいけない。

それは本当に大事なことだ。

だが、それだけでは足りない気がする。

NHKミドルエイジクライシス「父子家庭を生きる」に出てきたような、弧絶した家族に手を差し伸べる「何か」が必要なのではないか。

映画「悪人」や映画「告白」そして映画「海炭市叙景」、最近上映された映画に描かれている悲劇の根底には、すべて共同体の破壊がある。三池版の「十三人の刺客」であっても、やはり共同体の機能不全を描いている。

問題はみんなが気付いている。

その解決に必要なのは新しい共同体なのか古い共同体の復活なのか、だとすれば、誰がその共同体を作るのか。政府か自生的に発生するものなのか。それとも共同体などいらない世界に突入するのか。

その答えをまだ誰も知らない。

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2011/02/03

勝手に映画予告編

今時いろんなことができるんですねえ。

facebookの友達リストから映画予告編を自動生成するサイト。

谷くん、金子監督、樋口監督、節丸さんとか出ている・・・。

キャスティングは選べないようだ。

なのでこれは偶然ですのでアシカラズw

映画「LOST IN VAL SINESTRA」予告編

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2011/02/02

葛河思潮社「浮標」

自分最低と思わざるを得ない。

舞台や映画をできるだけ初日に観に行くのは、その舞台や映画が素晴らしかった時、ブログにすばやくレビューを載せ、たとえ、僕などがブログでなんとほざこうが、さほどの影響などないとしても、その影響のなさにくじけることなく、自分の愛したものにたいして援護射撃を続けるためである。

ああ、一文が長いとなにがなんだかわからないが、ようは、俺ダメ馬鹿というわけである。
理由は、長塚圭史さんの新しいユニット、葛河思潮社の「浮標」をなんと1月17日の初日に観に行っているのに、しかも、衝撃を受けるほどの感動を受けているのに、そのことについて今だ何もブログに書いていない。

なのに、同じ日に「浮標」を見た高野しのぶさんは即日号外を出している。

しのぶの演劇レビュー号外 葛河思潮社『浮標(ブイ)』

しのぶさんとは最近いろんなところでお会いする。そして、その行動をつぶさに見ているのだが、ノートにびっしりと芝居のメモを取っていることとか、それをコンスタントに、しかも即座にブログで発表していることとか、頭が下がる。大変な努力であり、彼女の行動が、日本の演劇界を下支えしているのは紛れもない事実と思われる。

そんなしのぶさんには及ばずとも、さらに谷くんのplaynoteに及ばずとも、コツコツと書いて行きたいものだが、なんだろうね、僕の処理能力の低さは。今年になって映画と演劇はかなり見ているのにぜんぜん書けていない。

まぁ、いい、そんな俺俺嘆きはどうでもいい。

葛河思潮社「浮標」(ぶい)である。

長塚圭之演出、三好十郎脚本。

休憩を2回挟み4時間にわたる大作である。

まず観終わっての感想は、脚本凄いということだ。

舞台の初めに長塚圭史さんご自身が現れて、今回の劇の趣旨を述べられる。

要は1939年(昭和14年)に書かれたこの戯曲を現代の物として読み込む作業をしたということ。

そういうことを話された。

だから、観終わって思ったのはどれほど戯曲に現代的な改変をくわているのだろうということ。

というのも

脚本素晴らしく、しかも非常に「現代的な」、愛と人間の生きる姿が描かれていたからだ。

結構、いじくってんのかなと。

で、

今時はとても便利で、

三好十郎の脚本など著作権の保護期間を過ぎた作品はネットで無料で読むことができる。

僕は神奈川芸術劇場からの帰りの電車、iPhoneの青空文庫で三好十郎「浮標」をダウンロードすると早速読んだ。

長塚さんがどれほど手を加えているのだろうかと確かめようと思ったのだ。

だが読んでみてわかったのは、長塚さんはほぼ…つうか全然?脚本に手を加えてないのだ。

三好十郎の脚本がすでに「現代的」なのだ。

僕らは先入観として古いものは古いと思っていたり人類は未来に向けて進歩していると思いがちである。

ところがドッコイだ、この野郎。

古いテキストはめっちゃ斬新なのだ。斬新で深い。

というわけで青空文庫は手放せない。

ここには無数の著作権切れのテキストがあり、それが全部無料で読める。最近の僕ヒットで言えば大杉栄素晴らしい。素敵テキストに気が狂わんばかりだ。これが無料って馬鹿じゃないの?というか青空文庫があれば新しい本なんていらないとさえ言える。

で、この三好十郎「浮標」も素敵過ぎて、ここに書きうつしたいぐらいだ。

青空文庫は、超昔からあって、その作成に関わらないかとその昔誘われたこともあるのだが、僕は携帯を全廃してiPhoneに換えてからこの青空文庫に俄然お世話になるようになった。携帯電話でも読めるのだが、iPhoneでの見やすさが半端ないからだ。

青空文庫:三好十郎「浮標」

と、なんだか長塚圭史さんの「浮標」の話と言うよりも、青空文庫すごいみたいな流れになってきてしまったが、要はそうやって原文テキストにスグに当たりたくなるほどの興奮を僕に与えた舞台だということだ。

当然、おっさんたちは「浮標」ぐらいもうどこかで上演されているのを見たことがある乃至はテキストにあたったことがあるだろうが、若い人は、この長塚圭史版がはじめてという人も多いだろう。だからこの舞台を見て、その後、三好十郎のテキストにあたって衝撃を受けるという経験を、僕と同じように皆もしたらいいと思う。

しかし、テキストが素晴らしいからと言って、舞台が、必然的に素晴らしくなるわけではない。

素晴らしくするための作業が必要だ。

とくに、この三好十郎「浮標」はいわゆる難病物であって、観客を泣かせようと観念すれば、逆に観客の心は離れて白けてしまうだろう。

観念は邪魔だ。必要なのは肉体だ。

あの話を嘘臭くない実際の物として、現代の物として立ち上げる肉体が必要だ。

実際、「浮標」は、三好十郎が妻を病気で亡くした、その時の経験が書かれているのだから、空想的なお涙頂戴の難病物とは立脚点が違う。

今回の、長塚圭史演出では、それを役者や演出が「誠実」に肉体化している。

キャスティングがまず絶妙だ。田中哲司、藤谷美紀、大森南朋、中村ゆり、佐藤直子、峯村リエ、江口のりこ、安藤聖、深貝大輔、山本剛史、遠山悠介、そして長塚圭史、それぞれの登場人物を演じるにふさわしい外縁をもった役者たちだ。その見えぬ外縁があるからこそ、過去に向かって放射状に広がる無数の物語(脚本の外にある物語)が実感できる。劇中で語られはしないが、それぞれの登場人物が抱える人生の重みが立ち居振る舞いや言動ににじみ出ている。もちろん外縁は役者が持ち寄ったモノばかりではない。というか役者が持ってくるのは肉体という定形に曲がる癖を持った透明な素材だ。それを丁寧な演出の言葉が曲げたり色をつけたり汚したりして行く。ぼんやりとしたイメージを具体的に掘り下げていく。素材と素材の関係性を決定していく。そういう「誠実」な作業があって、そこで話される会話、感情劇は現実のもの…肉体となる。

尖ったことをやり続けてきた感のある長塚圭史さんが、長塚さんご本人が感動し号泣したという三好十郎の脚本を、真摯に実直に祈るように「誠実」に肉体化した。

その姿は、主人公の久我五郎が死にゆく妻を「誠実」に愛しきる姿に重なるかもしれない。

人間は、残念なもので、もう手遅れとわかったときに、はじめて奇をてらわずに素直に愛せる。

いままでの「不誠実」をかなぐり捨て、真摯に愛す。

「誠実」に愛す。

だから、今回のこの作品は、英国留学を経て、アンチクロックワイズ・ワンダーランドを経てたどり着いた長塚圭史の真摯な演劇に対する愛の告白と僕は感じた。

もちろん、演劇が死にゆく妻であるかどうか、また愛がもう手遅れかどうかは分からないけれども。

2/13まで吉祥寺シアターでやっている。

意識ある人は絶対見に行って欲しい。

あとパンフレットは買った方が良い。

1952年に書かれた三好十郎の「浮標」あとがきがある。

これを芝居の前か休憩に読まれることを勧める。

葛河思潮社「浮標」脚本:三好十郎、演出:長塚圭史

チケット代6300円は高くない。

飲み会をちょいと減らせば行けるだろう。

なのに行かない人は怠慢だと思う。

あと、最後に、神奈川芸術劇場はほんとうに素敵なところであった。アクセスも悪くない。今後、神奈川芸術劇場でやる芝居は気にして観に行った方がいいと思う。僕が観に行った「浮標」の初日は、この素敵劇場のこけら落としでもあった。そんな日に立ち会えたことは大変うれしい。

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