« 謹賀新年2011 | トップページ | 五反田団「新年工場見学会2011」 »

2011/01/04

トラン・アン・ユン監督「ノルウェイの森」

年明け早々、映画「ノルウェイの森」を観てきました。

昨年末にも観たので、2度目です。

もちろん、一度観て面白かったから二度目なわけですが、僕の周囲では評判があまり良くないので、さて、本当に面白かったのかと、自分の目確かめるために観に行きました。

で、やはり素晴らしい映画であることを再確認してきました。

ちなみに、村上隆さんが、ツイッターで、映画「ノルウェイの森」を絶賛するよりも先に僕的絶賛が始まっていたことを一応つまらぬ矜持ですが、付け加えておきます。

村上隆さんの映画「ノルウェイの森」に関連したツイートは、Togetterでまとめられているので、以下のリンクを参照してください。

映画「ノルウェイの森」に関する村上隆さんの絶賛ツイート

僕自身は、村上隆さんの言うような「深い」「客観的な」あるいは「構造的な」読みができているとは思いません。

純粋に個人的体験として面白かったのです。

以下に、映画「ノルウェイの森」に関する僕の「個人的」感想を、できるだけ、まとまりのある形で記述しようと思います。

ネタバレについてはありまくりです。

しかし、ネタバレうんぬんがあまり関係のない映画だと思うので、見る前に読まれても大して影響はないでしょう。

あと、もう1つ重大な告白をせねばならないのですが、僕は原作を読んだことがありません。

厳密には、読んだことがあるが、当時は何が面白いのか分からなくて忘れ去っていた一冊が、この原作「ノルウェイの森」でした。

なので、映画を観て、「わー、あのシーンがこうなるんだ」というような感想はゼロです。原作を覚えていない。

そういう人間の感想であるということも付け加えておきます。
 

●「純愛の不可能性を証明する映画」

まず、goo映画に投稿された、とてもおもしろい評価を紹介したいと思います。

「無知で行ってひどいことになった」というkanon303さんの学生らしい可愛い評価です。

「無知で行ってひどいことになった」
ただ単にポスターを見て純愛映画でおもしろそうだと思い、彼女と一緒に見に行き上映後お互いの空気がかなり気まずくなりました。ストーリーも学生の自分には良くわからなく、性描写がかなりパンチが効いていたので失敗と感じました。もし本などを読んで内容をしっている方でしたら楽しめるかもしれません。何も知らない状態で彼女や親と行くのはやめておいたほうがいいでしょう。

これを読んで、「だからこの映画は成功なのだ」と僕はホクソ笑みました。

というのも、この映画は、純愛映画などではなく、純愛の不可能性を証明する映画だからです。

だから恋愛に幻想を抱いているカップルが行ったら、とんでもないことになること請け合いです。

「とんでもないことになること」を防ぐためには、男は、映画が終わり次第、客席のライトがつくなり、彼女に向かって、彼女が何かを言いだす前に、次の言葉を発する必要があるでしょう。

「酷い映画だったね。僕はこういう男たちのことが理解できないね。そういう奴らもいるようだけど、僕は違うな」

そういった、男が身を守らなければならないと言う事情もあって、この映画は「酷い映画」と言われるバイアスを持っているんじゃないかと勘繰りたくなります。

実際、この映画を肯定することは、男としては、結構リスキーです。

主人公のワタナベは、先輩の永沢を内心俗物と軽蔑しているのですが、それは永沢が女性をセックスの対象としか見ていないからで、その俗物の永沢に振り回されているハツミに同情をし、永沢と別れるようにアドバイスまでし、さらには運命の恋人と言えるような直子という存在を得ながらも、実は直子に隠しながら緑と言う魅力的な女の子と密会を続けており、直子にも緑にも「君だけを愛している」というような態度をとり続けるわけです。しかも、自分が俗物でないことをワタナベは信じている。

女をあからさまに裏切っている永沢とは異なり、主人公のワタナベは、女に同情をし、純愛がそこにあるかのようにふるまいながら、結果として、永沢などよりも卑怯な形で女を裏切ることになります。その見せかけの優しさは直子を傷つけ死に追いやってしまうのです。

そんな「酷い男」の話が、ビートルズの「ノルウェイの森」の美しいメロディでカバーされることで、美しい過去の思い出のようになっていく…そんな話がこの映画「ノルウェイの森」です。直子が死んでくれて、自分は人生を始められると潜在的に思っているのはワタナベです。そのことを分かっているから直子は死を選ぶ。本当にワタナベは「酷い男」なんです。

いま思わず「酷い男」と書いてしまいましたが、これ、間違いで、彼が特に「酷い」というわけではなく、男一般がそうなのであって、ワタナベは実に「普遍的な男」なのだと思います。


●男は誰もがワタナベである。

そして、この「普遍的な男」感を出すために、映画では、松山ケンイチがキャスティングされています。いかにもプレイボーイの玉山鉄二に対抗して、みかけ凡庸でちょっと言葉がなまっていて鈍臭そうな松山ケンイチ。そこがいいのです。彼のキャスティングを得て、さらには玉山鉄二との対比でワタナベは普遍的な男性になるのです。

ワタナベが普遍的な男性と描かれているおかげで、観客たちは、この映画の罠にかかります。

映画の初めに、男たちはみな「俺はワタナベだ」とまんまと思います。同時に、女たちはみな「私の彼氏はワタナベだ」と思います。

しかし、この「俺はワタナベだ」という初期設定は、映画が進むほどやばい展開を呼び込みます。

つまり、ワタナベが本性を現していくうちに、「男って可愛い女なら誰でもいいんじゃない?」という誰もが薄っすらと思っていた純愛否定のパンドラの箱が開いてしまうのです。

ついに、男は映画の始まりに「俺はワタナベだ」などと思った自分を後悔します。そして、映画が終わり次第、隣に座る彼女に向き直り焦って映画を否定することになります。

一方、女のほうは、映画の終わりに向けて確信に変わりつつあった疑惑。自分の横に座ってる男こそワタナベではないかという疑惑とともに映画を見終えます。しかし、映画終了間髪いれずに彼氏がこう言います。「こういう男ってサイテーだよね、俺は違うけど」。

けれども、そんな、「僕は違うよ」なんて言ってこの映画を否定する男をこそ女たちは疑うべきです。そして、「僕は違うな」なんて見え透いた否定を信じる馬鹿女をこそ男は遊びつくして飽きたところで捨て去るべきです。

だから、goo映画に感想を書いたkanon303さんの「彼女と行くのはやめておいたほうがいいでしょう」というアドバイスに反して、僕はカップルこそ、この映画に行くべきだと思います。

なぜならば、あなたが「本物」の男なら、この映画に描かれる男を隣の彼女の前でも敢然と肯定できるはずだし、あなたが「本物」の女ならば、自分の彼氏が、如何にこの映画を肯定しつつ、つまり純愛の不可能性を肯定しつつ、そのうえで今の自分たちの愛を如何にして肯定するのかという男の出方を楽しむことができるからです。

逆に言うと、自分が本物の男や本物の女でないという自覚があったり、女を騙して付き合っているような男は、この映画をカップルで一緒に観てはいけないという事が言えます。間違って観てしまうと、kanon303さんのように酷い目に会うことになります。

さらに、このことを利用した遊びも考えることができます。

たとえば、自分の彼氏が遊びで自分と付き合ってるんじゃないかと疑っている彼女は、彼氏には何も事前情報を教えずに、この映画を2人で見て、その後に彼氏の感想を聞けば思わぬ本音が聞けると思います。その時の彼氏の言い訳が薄っぺらなら、あなたが遊ばれていることが確定です。(もちろん、その薄っぺらさを見抜ける能力が女性になければいけませんが)

「純愛の不可能性を証明する」ためのこの映画を肯定した先にこそ、本当の愛がある。

そこに辿りつけるかどうか、それが観る者に試されている映画だということができると思います。

そういう意味において、映画「ノルウェイの森」は非常にユニークな映画であると思います。

自分たちが「本物」であると自信がある男女は、ぜひともカップルで観に行くべきです。お互いがどのような感想を抱くかその衝突を楽しんでください。

ちなみにkanon303さんは「親とも行ってはいけない」とアドバイスしていますが、それも逆で、僕は親とも行くべきだと思います。本当の愛がどんなものかを、より知っているはずの「大人」と観に行くことは、息子や娘たちに新しい気付きを与えることになるはずです。もちろん、薄っぺらい親ならば、その薄っぺらさを子供たちの前で露呈することになってしまうので、間違っても、子供たちとこの映画に行ってはいけないのですが。。。

ちなみに、原作は、緑とワタナベの純愛の可能性を示唆する条件がいくつか描かれているようです。しかし、僕はそれは映画で描かなくてよかったと思っています。というのは、それを描くことは、「純愛は可能」という皆の幻想を強化してしまうことになり、この映画で描こうとしていることに反するからです(逆に原作はそう誤読されているのではと思っています)。

純愛は不可能である。その不可能性を肯定したところからしか本当の愛は始まらない。

それが描かれているのが「ノルウェイの森」なのです。


●原作に忠実な作品

原作を読みなおしました。

実は「純愛の不可能性を証明する作品」であるのは、映画の性質と言うよりも、原作の持っている本質なんですね。

つまり、その本質を考えると、映画は忠実に原作を映像化したものと言えるんだろうと思います。

ちなみに、初版の小説「ノルウェイの森」の帯には「100%の恋愛小説」とあるらしいです。しかし、本来、村上春樹は「100%の恋愛小説」ではなく、「100%のリアリズム小説」と書きたかったようです。それが無理なので「恋愛小説」という死語をあてたらしい。

リアリズムとはつまり「純愛は不可能」という厳然たる事実のことです。「ノルウェイの森」は売るために「恋愛小説」と謳われたものの、その実は、真逆のリアリズムで書かれた「反恋愛小説」であったわけです。最初っから。

ただ販売の戦略から、「恋愛小説」と喧伝された。

そして、先入見とは恐ろしいもので、その「100%の恋愛小説」との帯を観て「ノルウェイの森」を手にして読んだ読者たちは、勝手に、この小説を「恋愛小説」として「誤読」してしまった。

時は経ち、読者たちの脳内で小説「ノルウェイの森」はキラキラと輝く遠い記憶に変わってしまった。

読者たちの観念の中で作り上げられた素敵な恋愛小説「ノルウェイの森」の誕生です。

つまり、多くの原作ファンは、原作が反純愛小説であることに気付かず、むしろ自分の「誤読」が作り上げた美しい小説イメージこそを原作と信じて、「原作を損なっている」と映画を批判しているように思うのです。

むしろ映画は原作通りであり、さらに原作よりも先鋭に、原作がオブラートに包んでいた部分をあからさまに広げている。

映画が検索をうまく拾えてないと嘆いている原作ファンに言いたいのは、原作を読みなおして欲しい、ということです。原作が、いかに「反恋愛小説」かを確認してください。映画が本質的に原作に忠実であることが判ると思います。


●小説に比べ圧倒的な情報量を持つ映像

情報量と言うことで言うと、小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない。

このことに異論を挟む人も多いと思います。

小説を映画化する場合、沢山のエピソードがそぎ落とされてしまうのは事実です。

だから、映画よりも小説の方が情報量が多いと考える人も少なくないと思います。

しかし、パソコンなどで使用する保存データのことを考えると、「小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない」という考え方は納得できるでしょう。

テキストデータは、映像のデータに比べて、無きに等しい情報量にすぎません。テキストが100キロバイトなら写真は100メガバイト、映像は100ギガバイト。

つまり情報量の少ない小説は、実は、読者が沢山の書かれていないデータを補足的に追加することで、イメージを作り上げているのです。

「ワタナベ」というキャラクターを考えればわかります。どれだけ小説が情報を費やしても、沢山いる読者の脳内の「ワタナベ」イメージを統一することはできません。千差万別です。

が、映像はそうではない。松山ケンイチが演じれば、もうあれが圧倒的に「ワタナベ」なのです。他の想像の余地を許さない。それほど、松山ケンイチの映像がもたらす情報たるや莫大です。なにをしなくても、その人の人間性が臭ってきます。

パンフレットで、トラン・アン・ユン監督も言っています。

つねにキャスティングで重視するのは、その役者の人間性です。…(中略)…その次に、もちろん役者としてどれだけの可能性を秘めているかを見極めます。


●人間性の水位の差が「物語」を生む

そして、映像化されたキャラクター同士の人間性の水位の違いによって「物語」が生まれます。

たとえば、菊地凛子のことを考えます。

賛否両論あるキャスティングです。巷間話題となっているように、菊地凛子の女優魂が獲得した直子役なので、監督的にもアプリオリに「直子役は菊地凛子で」というわけではなかったのだと思います。

が、結果として菊地凛子ははまり役です。

これは、緑役を演じる水原希子との人間性の水位の違いから正当化されます。

ワタナベ(松山ケンイチ)は幼馴染みのキズキ(高良健吾)からキズキの半分恋人であった直子(菊地凛子)を押し付けられます。「押しつけられる」というのは僕流の簡略化で、正しくは、キズキが直子を残して自殺したので、ワタナベは直子の面倒を観てやらねばならないと「責任」を感じるようになるわけです。一方、ワタナベの目の前に現れた魅力的な女の子緑(水原希子)。ワタナベの気持ちが緑に行くのも当然です。しかし、責任感からワタナベは直子を捨てるわけにはいかず、むしろ直子を最愛の人と「思おう」と努力するわけです。この「思おう」という努力というのは、思われる方にとっては酷いことです。それを感じ取った直子はどんどんと狂い始め、最終的には自ら死を選ぶことになります。

これをごちゃごちゃ説明せずに登場したキャラクターで「さもありなん」と観客に納得させる上において、直子の菊地凛子、緑の水原希子のキャスティングは本当に素晴らしい対比…人間性の水位の差を生みだします。その差から「物語」が生まれるのです。

菊地凛子は実年齢29歳で、水原希子が実年齢20歳。この差も大きく効いています(とくに画面に映る肌の差)。

あきらかに、世の男性は、水原希子を選ぶでしょう。なんのしがらみもなければ。

ワタナベが緑を好きになる説明臭いエピソードを作る必要が無い。

しかも、菊地凛子は、水原希子に比べて単に女性的魅力が劣っているというだけではない。そのメンドクササや狂気、そして魅力において、優柔不断なワタナベに、僕が捨てたら直子は死んでしまうと思わせて、義務感から、直子を捨てられなくなる…ということを内在的に引き起こすにふさわしい人間性を放射している。

菊地凛子、水原希子、松山ケンイチがいるだけで、なんの説明もなく「欺瞞としての二重純愛の構造」が見えてきます。


●キャスティングの妙

菊地凛子、松山ケンイチ、水原希子、そして、玉山鉄二と初音映莉子は、うまくこの映画の主題である「純愛の不可能性」を証明するに足るキャスティングと言わねばなりません。

松山ケンイチは寡黙で鈍臭く真摯である…菊地凛子との純愛、水原希子との純愛、この両立すること不可能な二つの純愛を成立させそうな感じがある。このキャスティングが少しでもおかしいと、ワタナベは単なる浮気男です。実際単なる浮気男なのですが、その浮気にも情状酌量の余地があると思わせてしまうようなタタズマイが松山ケンイチにはある。おかげで観客もワタナベも周囲の女性たちも最後の最後まで純愛の可能性を信じることになる。それは必要です。結果として純愛の不可能性を書くためには極限まで可能性を信じて突き進むしかありません。それを観客にさせる人間性が松山ケンイチにはあるのです。

また菊地凛子は、魅力と非-魅力が絶妙なバランスで同居する女優です。彼女が直子を演じることで、ワタナベが直子にこだわることの信ぴょう性を付加するとともに、直子を(内心)面倒くさく思い緑の方に心動いてしまうことを微妙に正当化させます。

水原希子は、そのコケティッシュな魅力で、ワタナベを純愛の矛盾に落とし込むにふさわしく機能します。それとともに、若すぎる物言いとふるまいは、ワタナベとの恋愛を拙劣なものとして見せるため、その純愛の薄っぺらさを際立たせます。

玉山鉄二は、如何にも鋼鉄のイケメンで、松山ケンイチの比較から、分かりやすく遊び人であることの記号として機能しますが、それだけではなく、その知性の宿る瞳からは、はたして、この人だけが「純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛」を追っているのではないかと思わせる深みがあります。

初音映莉子は、美しいがどこかしら控えめな匂いを放つタタズマイから、玉山鉄二の横暴を許してしまう押しの弱さ、そして不幸な感じが良く出ています。彼女の出番は多くはないのですが、永沢、ワタナベと三人でフランスレストランで話すところの芝居は圧巻です。僕が思うに、ハツミと永沢の関係にのみ、真の純愛…すなわち純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛の可能性を見いだせるのですが、それは結果として、彼女の自殺という形で失敗に終わります。終わりますが、ハツミと永沢のもう一つの可能性を信じたくなるほど、玉山と初音の好演はこの映画を支えています。


●映画的リアリズムの導入~撮影方法~物語の切り出し方について

映画「ノルウェイの森」は観るべきシーンが多く、物語にさほど起伏が無いのに、スリリングに見続けることができます。

そのなかで、一番のシーンを選べと言えば、僕は先にもふれたフランスレストランでのシーンです。

外務省にうかった永沢を祝ってする食事です。

永沢とハツミそしてワタナベの三人です。

このシーンは、村上春樹自身が書いていて楽しくて仕方がなかったと言うシーンです。

これをトラン監督はハツミの思いだけに寄り添って描きます。

小説は一人称小説なので当然ワタナベからの視点からに過ぎないですが、映画はこれをハツミのみをずうっとアップで撮り続ける。永沢やワタナベは声がするのみです。

ハツミの微妙な表情が読みとれます。

彼女がどう痛みを感じていたのか、どう愛を信じていたのか、それが痛いようにわかる。

ハツミの思いが一瞬の炎のように描かれます。

純愛の不可能性を知り尽くした上で純愛を貫こうとしたハツミ。

この後のシーンで、ワタナベの独白で、彼女と永沢の試みが、失敗と、勝手に断罪されます。

が、本当は、永沢とハツミの純愛にこそ最も高貴な挑戦があった可能性がある(ワタナベはそれに気付かずより大きな罪を犯すことになる)。

それを信じさせるに足る初音映莉子の演技と、マーク・リー・ピンピンの撮影でした。

もちろん、それを意図したトラン監督がすごいのですが。

小説の平板な文字を立ち上げるとこうなるんだと映像の凄みを感じさせるシーンです。

もう1つ、セックスシーンの撮り方にも特徴があります。

普通のセックスシーンと言うのは、たとえば、ベッドの下に散乱する下着などを撮り、カメラはそのままパンして、衣擦れの音を含みながら、女と男の絡む足先を舐めながら上半身に移動、そのままキスをする2人の顔、というように撮られることが多いです。この誰が撮ってもこうなってしまう凡庸なシーン、それをどう撮るかがラブシーンの課題でもあるように思うのですが、トラン監督は、顔しか撮らない。足の指先なんて一瞬も撮らない。

まるで友人たちのセックスを一緒にベッドに寝て観ているような感覚です。実際人間生きていると視点をそんなにパンパン変えられない。だから変えない。さっきのフランスレストランのシーンでもそうですが、トラン・アン・ユン監督はそこで、映像にリアリズムの文体を導入したのではないかと思うのです。24的な多視点の映像が増える中、真逆の方法で撮影はされています。

音楽もかかりません。

だから呼吸音、キスの音、愛撫の音が繊細に空間を満たします。

こんなに息苦しく感じることはない。

まるで友人のセックスを邪魔しないように存在を消し息をひそめる観客。

というかそうあって欲しい。

間違ってもポップコーンを食いながら観ないようにしてほしい(^^;

このように、リアリズムの観点から、わざとカメラの動きに不自由を感じるほどの固定感を与えておきながら、別のシーンでは、カメラは縦横無尽に動くのです。草原のシーンしかり、緑の家で動き回りながらワタナベと緑が話すシーンしかり。

学食で緑とワタナベが会うシーンは、カメラはカットバックを多用しています。緑から見たワタナベ、ワタナベから見た緑、その繰り返し。なのに、フランスレストランのシーンでは、カメラはハツミだけを撮るのです。なぜそうなのかを読み解くだけでも、この映画だいぶ面白い。実際見て理由を考えてみてください。僕の中に僕の答えは一応ありますが、もうだいぶ眠いので今日は書きません。


以上、かなり長々と感想を書き綴ってきました。他にもたくさん言うべきことはあります。

映像の美しさとか半端ないし。学生運動との関係、セックスとフェラチオのこと。いろいろいいたい。

僕はこの映画はぜひ観るべき映画と思いますが、そうはいっても感じ方は人それぞれで、この映画をありえなく詰まらないと思う人もいると思う。

でも、ここで書いたようなことを思ってみると少し違って見えるのじゃないだろうか。

受容体がなければ、発信を受け取ることはできない。

自分偉いんだぜと自己の観点で映画を観るのではなく、完全に受け入れ開かれた形で観に行く。

そうすると、いくつもの新しい気付きがある。僕はそうやって生きて行きたい。

もしよかったら、皆の感想も聞いてみたいと思っています。否定の意見でもかまわないから。

ノルウェイの森@ぴあ映画生活

|

« 謹賀新年2011 | トップページ | 五反田団「新年工場見学会2011」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/56674/50476203

この記事へのトラックバック一覧です: トラン・アン・ユン監督「ノルウェイの森」:

« 謹賀新年2011 | トップページ | 五反田団「新年工場見学会2011」 »