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2011/01/31

青☆組「雨と猫といくつかの嘘」

ProjectBUNGAKUの同志である吉田小夏さん率いる青☆組の公演が始まった。

青☆組vol.14「雨と猫といくつかの嘘.」

同じくプロジェクト文学の同志である谷賢一氏が芸術監督を務めるアトリエ春風舎での公演である。

初日を観劇させていただいた。

内容についてはネタバレもあるので、あまり言わない。

が、小夏さんはほんとうに非の打ちどころのない芝居を作る人だ。

谷くんも広田くんも好きだけれど、どこか破けている感じがある。

まあそれが彼らの作品の魅力でもあり好きな所なのだが、小夏さんの作品には破れがない。

それから、超オンナ(笑)

女って怖い。

そのことに自覚的だから、なお怖い。

たしか女は怖い的なことも実際セリフにあった。

女と猫と雨は似ている。

女と猫と雨…それだけでもう怪談のにおいがする。

アフタートークでラストシーンの風太郎がどうなったかとの話があったが、僕は、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のラストシーンを思い出した。

阿片窟でデ・ニーロが恍惚として幸福だった少年時代の夢を見る。

あのシーンをぼんやり思い出した。

だから「僕の解釈」では、風太郎のまわりで起こるすべてはぜんぶ夢なのだ。

老いて孤独な風太郎が見た美しいアルツハイマーの夢なのだ。

その美しく切ない虚実の堺のあいまいな世界を、演劇的手法を駆使して観客の目の前に匂いたつ現実として立ち上らせる。その吉田小夏の手腕と、役者たちの熟練を観に行くべきだと思う。

アトリエ春風舎は遠い。都心よりも気温が確実に3度低い(笑)

しかしその遠い道行きも、忘れ去った過去にさかのぼる時間と思えばこんなに楽しく愛おしい時間は無い。

僕はなんとなく独りで観に行って欲しいと思う。

もちろん誰かと連れだって観に行ってもいいが、独りで、自分の記憶をたどるようにしてあの世界にたどり着き、終演後はその世界をひっそりとカバンに詰めて持って帰る。

そういう個人的で大切ななにかを思い出させる全てが、小夏さんの芝居にはそろっている。

ぜひとも騙されたと思って…いや猫も女も化かすものだから、化かされたと思って、小竹向原まで足を運んでみてください。2月8日までやっています。

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2011/01/27

善意の特攻…タイガーマスク運動の本質

「タイガーマスク」現象について、ふーん、そうなんだ、良いことではあるのだろうな…と思いつつ、ずうっと釈然としない気持ちを抱えていた。素直に素敵なことだねと言い切れない気分。その原因を考えてみたい。(と、書きだした時点では原因は分かっていない)

ちなみに、そのタイガーマスク伊達直人を名乗る人物からの寄付行為、またそこから派生した一連の運動を誰かまとめていないかなあとググったら、偉いことにもうWikipediaに「タイガーマスク運動」なる項目が立っていた。

wikipedia:タイガーマスク運動

非常にまとまっている。

最後の「主な寄付行為の一覧」なんてすごい。

なによりこれボランティアで作られているのだから、そこがすごい。

と考えて、ふと思う。

wikipediaを作成するボランティア精神には疑義をさしはさまずに、一方、タイガーマスク運動には釈然としない、この僕の気分の原因はなんだろう?

もちろん、単に僕が性格が悪いと言うこともあるかもしれないが、そこは置いておいて。

今思いついたのは「wikipediaの作成」はボランティアに頼ってもいいが、タイガーマスク運動は本来的にはボランティアであってはいけないものなんじゃないのかということ。

つまり、児童養護施設などにいる子供たちが、そうでない普通の子たちと同様の生活をおくれるようにするのは、国や自治体という「制度」によってなされるべきであり、タイガーマスク伊達直人なるものの頻出およびその歓迎は、喜ばしいことでは何一つなく、「制度」が機能していないことの表れじゃないかと思うのだ。

だから、菅直人は「本当に心温まる活動だ。共助の精神を大切にしたいと改めて思った」などと言わずに、強く反省をするべきだったのだ。本来ぼくらはタイガーマスクやスーパーマンなどがいなくても満足のいく世界をつくることにこそ目的があるはずだ。政治が足りていないことを反省し、じゃあどうすべきかを菅直人は話すべきだった。

と、ここまで書いて、僕がタイガーマスク運動に釈然としない気持ちが明らかになってきた。

タイガーマスク運動をほめそやすことは、本来、「制度」がせねばならぬことを「制度」が怠っていることを、隠してしまう。そこが、この運動をほめそやす言動に僕が釈然としない理由なのだ。

改めて言おう。

「タイガーマスクを必要とする世界は不幸な世界だ」

本来、評論家や哲学者は、世間の「タイガーマスク運動」をほめそやす動きにサオさし、現在の「制度」が機能不全を起こしているからこそ、タイガーマスクが頻出することを、ずばりと指摘すべきなのだ。そして、現在の「制度」の機能不全を無意識に察知した人々が、政府や自治体に頼ることをあきらめて、我慢ならずに、この寄付行為に走っていることを喝破すべきなのだ。

なのに、こうきた。

「新しい公共」考える契機に タイガーマスク現象:西田亮介

もう馬鹿かと。

タイガーマスク運動を新しい政治的な動きの胎動と言うこの学者は、80年代後半の好況を新しい経済と言ってほめそやしバブルの傷を深くした経済学者たち・経済アナリストたちと同じ間違いを犯している。

タイガーマスク運動が示すことは次のこと、それだけである。

(1)必要以上にお金を余らせている人が沢山いる。

(2)その人たちは、良きことのためならば、その金を見返りなく使ってもよいと考えている。

(3)本来的には、その金は税金によって徴収され良きことのために使って欲しいと思っている。

(4)しかし、今の税金の使われ方には不満がある。

  (4-不満その1)自分のお金が何に使われているか見えない。

  (4-不満その2)悪い奴らが私腹を肥やすことに使っている。

  (4-不満その3)税金という形での徴収だと、自分のお金が、自分の望ましいと思う政策にも使われるが、自分がやってほしくないと思っている政策にも使われてしまう。

(5)だから、税金と言う形で、政府にお金を流すよりも、もっと具体的に自分が使うべきと思うことにお金を使おうと一念発起をした。

(6)しかし、何に使えば良いのかわからない。どうせ使うなら一番有効なことにつかいたい。

(7)何に使えばよいかは本来、評論家や哲学者などが教えてくれるはずである。しかし、それを示唆してくれる学者も政治家もおらず、小説や映画もドラマもアニメもない。

(8)仕方が無いので、古い物語に従う。わかりやすい、親のいない子供を救うというようなことに金を使う。

(9)誰かが伊達直人を名乗り寄付をする行為をTVなどで知る。

(10)そういう手段があったかと同じような状況にあった人が気付き、連鎖が起こる。

以上が、タイガーマスク運動のすべてである。

「資金の再分配システムとしての政治の機能不全」が根幹にあり、それを「制度内で修正しようと言うことへの諦め」が民衆にあり、「その問題を正しく指摘し政治を糺す専門家が不在」であり、また児童養護施設にランドセルを送るようなことはB29と竹やりで戦うようなものだと分かっていても、「それ以外の方法を示唆する新しい物語の作成をあらゆる創作家が怠って」おり、もはや古臭くても、それをするしかないという哀しい状況。それがタイガーマスク運動のすべてである。

さきのwikipediaの記事から、呉智英さんが「善意の愉快犯」と言っているが、「主な寄付行為の一覧」を具体的に観たらわかるが、決して愉快犯がやっていることではない。億万長者の行動ではなく、そこそこだが多くは無い資産を持っている人が、無い知恵を振り絞ってやったことばかりだろう。それぞれの額は、国家予算に比べればあまりに小さい。小さいが、個人個人にとっては小さくない額であろう。送るなどに関わるめんどくささも想像に難くない。つまり愉快犯であるわけがない。伊達直人たちそれぞれは、金持ちではないが自分のお金を誰かのために役立てたいと純粋に思っている。だが、本当はこういうことじゃないんだと言う思いもある。でも、どうしていいかわからない。坐して死ぬよりはとりあえず隔靴掻痒であるとしても、何も変わらないとしても思いついたことをしよう。考えて何もしないよりは、何かをしよう。そう思ってこの一連の寄付行動を行っている。

これはもはや特攻行為である。

あの神風特攻と同じことが起こっている。

善意たちは国を立て直し戦争を止めさせると言う方向には向かわず、がむしゃらに、意味ないこととは分かっていても、ただ無意味であることを証明するだけのために戦場に飛び立つ。

僕個人としては特攻した人々には敬意を持っている。調べれば分かるが、大学を出た多くの優秀な、生きてその後の日本を担うべきだった人々が死んでいる。

同じことだ。

よりよく使うべき資金、よりよく使うべき善意が、評論家に「愉快犯」と言われてしまうようなお粗末な方法でしか発露しない。それがタイガーマスク運動の本質である。タイガーマスク運動は善意の特攻なのだ。

なのにである。

これを「新しい公共」の萌芽であるなどという評論家や政治家は馬鹿だ。

そして、今のところ、このことを指摘しているのが世界中で僕一人なことに愕然とする。

だいたい「新しい」などと言う言葉は、それが形容するものが実はなんなのか見抜けていないからこそ使われる言葉だ。新しさの内容を分析しきれていないから「新しい」などと言うのだ。

過去のことを眺めればわかる。

新しいことなど何もない。

古いことが形を変えて現れるだけなのだ。

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と、ここまでを27日の早朝に書きました。

その後ツイッターで、西田亮介氏に次のようなツイートをしました。

はじめまして、西田亮介様@Ryosuke_Nishida、先日の朝日の御論考はタイガーマスク運動の分析として間違えており、かつ本質的議論を妨げるものであると危惧しています。私見をブログに記しましたので御一読いただけると幸いです。

で、就寝したのですが、朝起きると、西田さんから丁寧な返信が返って来ていたのです。

僕も制度には多いに問題があると思っております。ただ、制度の変革にはとても時間がかかります。また、政局によっては実現しないことも少なくない。そのとき、「豊かな社会」があるのは重要かと。そのためには政治と社会が一体化せず、別の原理で動いている必要があります。

また、ニーズのミスマッチもあるでしょう。ただ、重要なことはそのような「善意の源泉」が今もこの社会に根強く残っているということで、そこから出発して、いかにしてよりよい議論に接続するか、が課題かと思う次第です。けなしてもしょうがないのではないか、と。

一応、「新しい公共」の政策的課題についてごく簡単ですが、まとめてたりもするので、よければどうぞ。西田亮介「「新しい公共」の歴史と課題」『政策空間』http://www.policyspace.com/2010/06/post_723.php

ごく簡単にまとめると、タイガーマスク運動 → 善意の源泉が存在を示唆 → 他方ニーズのミスマッチなどの課題も → ニーズのマッチング等、日本的な寄付の源泉を活かす方法論の修正が必要という認識でいます。

実に丁寧で真摯的な対応をしていただきました。でも僕の中には不満が残り、次のようなツイートをさせてもらいました。

西田亮介さま@Ryosuke_Nishida、突然の不躾なツイートにも関わらず丁寧なご返答をありがとうございます。西田様の影響力を考えると、今後とも示唆的なご発言を続けて行かれること、大変期待し応援もしていきたいと思います。ただ、やはり、疑問が残ります。朝日の記事には…続

朝日の記事には「日本的」善意と書いてあったのですが、安易に「日本的」と言うべきじゃないと思います。特にこの場合なぜこの寄付行動が日本的かが分からない。僕のブログにも書きましたように、タイガーマスク運動は民族の固有性から出てきている運動ではなく…続

合理的個人が、現在の日本の政治的な状況において反応した場合に生じる普遍的な行為として見出すことができると思います。これを安易に「日本的」と呼び、現在の微温的な愛国精神に媚びる表現は非常に危険だと思います。その辺の子供たちならば許されますが…続

西田さんの影響力、朝日新聞の影響力を考えると、看過することができません。タイガーマスク運動は絶対的に「日本的」善意の発露ではありません。これを「日本的」善意と称揚することで、多くは民族的自尊心をくすぐられ喜ぶのでしょうが…続

まさに、その民族的自尊心をくすぐることにおいて、「タイガーマスク運動=日本的善意」論が、大衆の支持率を高めることは、合理的な批判をしづらい状況を産み、合理的批判に耳を貸す人々を減らし、間違えた戦争に人々を向かわせることになります。…続

それはいつか来た道です。そうならないためにも、西田様には安易に「日本的」という言葉を使っていただきたくない。もし本当に心の底から「日本的」善意であると思うならばそれを明示的合理的に説明してください。空気だけで議論しては日本は再び過った道に進みます。

現段階はここまでです。

今後西田さんから返事があるかどうかはわかりません。それは「日本的」善意にかかっています(笑)

2011.01.27.10:25am

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その後、西田さんから真摯なリプライをいただきました。

ご憂慮いただいている点分からなくはありません。ただ、記事をよく読んでいただければすぐわかると思いますが、保守的な「日本的」と言う言葉の使い方をしているわけではありません。欧米的寄付=顕示的寄付/日本的寄付=匿名的寄付という対比で使っているだけです

また、僕は心情的問題には、研究や言説においてほとんど関心がありません。ベタに保守と組むことも、他方、左派的なものと組むこともないと思いますので、ご安心のほどを

で、僕的には僕が心配しているのは西田さんの意見ではなくて、西田さんの意見を誤読する人たちのこと(その可能性)を心配しているのだなあと思い始め

西田様、丁寧なご返答本当にありがとうございます。僕も卒論が「日本的人事システムのゲーム分析」というタイトルでして「日本的」という言葉に物凄い郷愁がありますが、警戒の必要な言葉と考えています。

とお返ししました。

これに対して、西田さん、また真摯にリプライしてくれました。

わかります。なので、繰り返しですが、日本的寄付≒匿名的/欧米的寄付(ドネーション)≒顕示的寄付というあえての図式をかなり明示したつもりです

僕はもうこれ以上議論しても仕方が無く、今後さらなる研究を西田さんが深化していただくことを待つというのがいいのかなと思い、次のように返しました。

政策空間の論考を読んだのですが絶妙なバランス感覚でそこは信頼しています。あえての図式が西田氏の意図と違う捉えられ方をするのを危惧します

それに対する西田氏のリプライ。

そういっていただけるとありがたいです。ただ、新聞は分量もタイトです。近々、補足というか大きな原稿書きたい&関連連載は始まるはずですので、あわせてよろしくお願いします

と言うような感じで、最後はエールの交換的な感じでおわりました。

世間のほとんどの人にとっては、「タイガーマスク運動」なんていうのは一過性の、もう忘れ去られた事件でしょう。

しかし、僕は、あれは忘れ去って良いことではなく、というかそこに表出せざるを得なかった問題を、皆が真摯に考えてくれることを望みます。

タイガーマスク運動を新しい公共の萌芽と賞賛する動きは、先般のアリゾナ銃撃事件とも根っこでつながっていると僕は思っています。銃撃と言うよりもTea Party運動のほうですね。ボトムアップによる政治、新しい公共という言葉は聞こえは麗しいですが、これは慎重に扱わないといけません。完全に否定すべきものではないですが、ともすると民間発の政治という美名のもとに感情的なことが平気でまかり通りかねない。これは右とか左とかの政治信条に関係なく警戒すべきことと考えます。

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2011/01/25

東映映画「莫逆家族」(熊切和嘉監督作品)美術スタッフ募集

この度、映画「莫逆家族(バクギャクファミーリア)」(原作:田中宏、監督:熊切和嘉)の撮影に際し、美術スタッフとしてご協力いただける方を募集しております。

「映画あらすじ」
かつて関東一の暴走族の総会長をしていた男・火野鉄(チュートリアル・徳井義実)は家族を養うために荒らぶる魂を封印して生きていたが、ふとしたことがきっかけでかつての仲間たちと共に「家族」を作り、自分たちのルールで生きていく。


■美術スタッフ募集
美術:安宅紀史(『ノルウェイの森』、『南極料理人』、『デトロイト・メタル・シティ』、『人のセックスを笑うな』他)
装飾:山本直輝(『海炭市叙景』、『ソドムの市』他)

・期間
1/31(月)、2/1(火)、2/2(水)、2/3(木)、2/4(金)、2/6(日)、2/9(水)、2/10(木)、2/11(金)
2/16(水)、2/17(木)、2/18(金)、2/19(土)、2/20(日)、2/21(月)、2/22(火)、2/28(月)、それ以降
お手伝い頂ける日にちを全てお教え下さい。

・業務内容
飾り付け手伝い、撤収など力仕事

・条件
経験など必要ないが、力仕事があるため、男性の方が好ましい

・応募の際必要な事項
①氏名(ふりがな)
②年齢
③住所
④携帯番号
⑤携帯メールアドレス
⑥お手伝い頂ける日にち全て
※メールのタイトルは「莫逆 美術スタッフ」として下さい。

・申込先
株式会社ステアウェイ
stair46☆yahoo.co.jp(☆を@マークに換えてメールしてください)

・注意事項
交通費、ギャラの支給はありませんが、食事を御提供し、エンドクレジットに御名前を記載致します。

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2011/01/09

twitterの速報性をもてはやすな。~米国議員射撃事件~

アメリカの議員が撃たれた。

アリゾナ州の下院議員ガブリエル・ギフォーズさんが、22歳の白人男性の銃弾によって殺された(その後死んでないとの報道)。

巻き添えになった人たちも10人近くおり、9歳の少女も亡くなったらしい。

この情報、twitterを介して周知の物となった。

だから、今流れるツイートも、このtwitterの速報性を賞賛するツイートが実に多い。

僕も、この事件を知っての最初のツイートが、このtwitterの速報性が凄いと言うことだった。

しかし、調べると、twitterの速報性ばかりを、ほめそやしていていいのか疑問に思ったので、急遽、このエントリーを書く。

僕は、この事件、むしろ、twitterの速報性こそが生み出した事件じゃないかと思うのだ。

ちょっと挑発的な言い方をしてみた。

だが、本当にそう思うのだ。

以下に、僕のツイートをならべる。

●アメリカで議員が撃たれた。他にも数人が撃たれたようだ。ツイッターやUSTのせいで、すぐ近くの事件のように感じる。

●ググったら射殺された議員は去年の3月にも狙われていたようだ。「アリゾナ州民主党下院議員ガブリエル・ギフォーズは地元選挙事務所の玄関ドアガラスが空気銃で撃たれ破壊。怒った同議員(女性)はインタビューで「私は9ミリグロックを愛用してて… http://bit.ly/fijLwu

●みんな報道におけるtwitterの速報性を言っているが、良く調べると、今回の事件は、twitterやfacebookなどのダイレクトメディアが、市民の対立感情を増幅させた結果として生まれた事件であると考えられる。

●つまり、twitterの速報性が高いと言うことは間違った情報が流通する可能性も高く、偏見が増幅する可能性が高いと言うことだ。そして、間違えた情報に基づいたものだとしても、一旦、心に芽生えた偏見や悪感情は、完全に消し去ることはできない。

●去年の中間選挙の時にTea Partyがどうのこうのと報道されていて、まあそれはtwitterやfacebookなどの草の根メディアを利用した市民運動なのだけど、二大政党制を突き崩す新しい民主主義の在り方と言うようなもてはやされ方をしていた。

●そのTea Partyは、サラ・ペイリンという政治的アイドルを生み出した。保守的で敬虔なクリスチャンの家庭で育った彼女は、反オバマの人々に熱狂的に支持された。そして彼女はついに恐るべき広告を出した。倒すべき20の議員という広告である。

●この恐るべき狙撃広告の左上から4番目に、ガブリエル・ギフォーズがいます。今回殺害された下院議員です。

●もちろん、殺せなんて言ってはいない。いないが、TeaPartyで熱狂的になっていた市民たちのなかの何人かが、「これって殺せばいいんじゃん」と思ったのだと思われます。

●で、クルーグマンは既にこの動きを予見しており2009年の8月にこの傾向について触れている。http://nyti.ms/eHebWr

ツイッターの速報性については、賞賛ばかりするのではなく、偏見や悪意を増幅する可能性があることに、つねに注意を払っておくべきだろう。

実際、そのことが、今回のような事件を起こしてしまったという面もある。

だから、既存メディアは、どんくさいことを恥じることなく、冷静な報道、理論的で公平な分析を、じっくりとするべきだ。

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2011/01/08

谷賢一「演劇/空間の立ち上がる瞬間」

盟友、谷賢一@playnote氏の演劇ワークショップの公開試演会「演劇/空間の立ち上がる瞬間」を観る。

これは、谷くんが講師となり、年末年始、7日×7時間=49時間を費やして集中的に行った演技・演劇ワークショップの総まとめとして企画された試演会。演劇の発表会。

しかし、演劇の発表にとどまらず、稽古でやるウォーキングやシアターゲームみたいなのを見せつつ、演劇を発表すると言うもので、しかも、その芝居は稽古途中の未完成品であり、「良い意味」で、突っ込みどころ満載の企画であった。

ananヌードにしろ、ブログ「playnote」にしろ、何にしろ、谷くんの一番偉いところは、突っ込みどころ満載のまま、見せると言う、強さと言うか「勇気」にある。

いや、単に「突っ込みどころ満載で偉い」なんて言うだけだと、「馬鹿にしとんのかテメェ」と谷くんファンに思われかねないから、さらに言うと、その「勇気」は「利己的」勇気であって、つまり、やりますよと言ったものの、準備不足でやべぇという心地もありながら、でも公開するということは、彼に彼の頭脳だけでは到達不可能な「気付き」を与え、確実に、谷賢一自身を強くするし成長させる。だから、突っ込みどころ満載のままの公開という「勇気」は、「他人のため」の勇気ではなく、「自分のため」の勇気、「利己的」勇気なのである。

あれ?まだくさしている感じある?というか、逆にくさしてる感、倍増?まあ、いいや、馬鹿にはわからない(本当に馬鹿は嫌いだ。縁無き衆生という言葉があるが、その言葉の意味をいましみじみと実感している)。

ちなみに日本がダメなところは完璧主義なところだ。

「突っ込みどころが無いぐらいに作り上げて、事故率0.000…%にしないと商品化しない」的なことが多すぎて、それは結局、「じゃあ新製品は事故の可能性があるから作らないほうが安全」と言う本末転倒な考えになる。責任感満載の無責任社会が出来上がる。

いいじゃん。おもしれぇと思ったら出して。突っ込まれたら、突っ込まれたときに考えればいい。むしろ、突っ込まれることによって、気付きが生まれ、どんどん強くなることができる。精神的包茎になるんじゃなくて、とりあえずチンポロンと出しとく。その勇気。自分が成長するための勇気、いま日本に必要なのはその利己的勇気だ。それを持っているのが谷くんだと思う。

だから彼の時間は誰よりも濃くなる。馬鹿なやつが3年かかるところを、彼は3日で生きる。そうするためにも、がんがん「露出して」がんがん「突っ込まれよう」と言う姿勢が彼にはある。

そんだけ、谷くんがヌードで戦っている試演会だから、とても知的に刺激的であった。演劇を観るのとは違う刺激、それは、もっとも知的な書物と出会った興奮と同じような物を僕にもたらした。

具体的なことは僕の中で熟成させ谷くんと飲んだ時に彼に伝えるのでここでは書かない。

しかし、いままで僕の気付いていないことを気付いたし、僕自身なにがやりたいのかが鮮明になった。

それは谷くんのやりたいことと同じなのかどうかは分からないけど、まさに谷くんの試演会を、演劇へのアプローチの1つのサンプルとして観ることによって、「なるほどこうやるんだ」とか「僕ならこうする」とか、そうやって並行的に考えることが、なぜ「僕はそうしたいのだろうか?」という疑問、自分の快楽の客観視につながり、なるほど「俺のやりたいことはこういうことなんだ」という「気付き」に至った。僕が見せたいのは、いや、演じたいのは、再試行可能な演劇ではなく、一回性の、二度と繰り返しの効かない、奇蹟的な「生」なのだと思う。

そして、このような興奮を僕に与えるのは、何度も言うように、谷くんがケツ然としてヌードを晒しているその潔さにあるのだ。

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2011/01/05

五反田団「新年工場見学会2011」

宣言したのだから「美しきものの伝説」の感想ブログ(2)(3)を書かなきゃいけないんだけどとは思いつつ。

昨日は、五反田団「新年工場見学会2011」に行ってきました。最終日でした。

CoRich舞台芸術「新年工場見学会2011」五反田団

この「新年工場見学会」という五反田団の催し、毎年恒例で、8年ぐらいやってるイベントです。

名前の特異さから最初の年から気になっていて、でも面倒くさがりの僕は行っていませんでしたが、ようやく、その「新年工場見学会」を観ることができました。8年目にして。

公演の詳細は、「休むに似たり」さんが詳しいので、そちらを参照していただくとして

「休むに似たり」

ここでは僕個人のババーンとした感想をば。

素敵な芝居を2本、テルミン生演奏のバンドライブっぽいコントっぽいライブ、似非伝統芸能、変な歌

この5つの演目の間を、主宰の前田司郎氏など数人の雑談コントっぽいものでつないだ、途中休憩入れて3時間の実に楽しい催しでした。途中、ホットワインが無料で配られたり。

笑いあり、感動あり(?)、ワインなりの楽しい催しがたったの2000円で見られるのだから、もう毎年絶対行く行事にカウントです。みなさんも行ってください。と言っても行かないだろうけど。

というか前田司郎氏は小説も面白いし、やはりこの人はタダものじゃないな。

ちなみに、工場見学会の「工場」というのは、芝居の開催される場所が、五反田にある前田さんの実家の工場「株式会社東邦製作所」の一室だからです。

映画と違って、演劇は取り決めが少ないです。

場所を選ばないし、形式も自由です。

劇場公演を主体とする劇団演劇はしだいに、よくある形に収まるのが多いですが、五反田団は子供遊びの自由さと言うか、ああ、演劇ってこうあっていいんだな、人間の想像力ってこうあっていいんだなと言うのを再確認させてもらえます。

楽しいだけでなく、ちゃんと深い。

演劇の力を信じて全力を尽くすみなさんに、新年にふさわしく清々しい気持ちにさせてもらいました。

新年最初に観るにふさわしいすがすがしい試みでした。

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2011/01/04

トラン・アン・ユン監督「ノルウェイの森」

年明け早々、映画「ノルウェイの森」を観てきました。

昨年末にも観たので、2度目です。

もちろん、一度観て面白かったから二度目なわけですが、僕の周囲では評判があまり良くないので、さて、本当に面白かったのかと、自分の目確かめるために観に行きました。

で、やはり素晴らしい映画であることを再確認してきました。

ちなみに、村上隆さんが、ツイッターで、映画「ノルウェイの森」を絶賛するよりも先に僕的絶賛が始まっていたことを一応つまらぬ矜持ですが、付け加えておきます。

村上隆さんの映画「ノルウェイの森」に関連したツイートは、Togetterでまとめられているので、以下のリンクを参照してください。

映画「ノルウェイの森」に関する村上隆さんの絶賛ツイート

僕自身は、村上隆さんの言うような「深い」「客観的な」あるいは「構造的な」読みができているとは思いません。

純粋に個人的体験として面白かったのです。

以下に、映画「ノルウェイの森」に関する僕の「個人的」感想を、できるだけ、まとまりのある形で記述しようと思います。

ネタバレについてはありまくりです。

しかし、ネタバレうんぬんがあまり関係のない映画だと思うので、見る前に読まれても大して影響はないでしょう。

あと、もう1つ重大な告白をせねばならないのですが、僕は原作を読んだことがありません。

厳密には、読んだことがあるが、当時は何が面白いのか分からなくて忘れ去っていた一冊が、この原作「ノルウェイの森」でした。

なので、映画を観て、「わー、あのシーンがこうなるんだ」というような感想はゼロです。原作を覚えていない。

そういう人間の感想であるということも付け加えておきます。
 

●「純愛の不可能性を証明する映画」

まず、goo映画に投稿された、とてもおもしろい評価を紹介したいと思います。

「無知で行ってひどいことになった」というkanon303さんの学生らしい可愛い評価です。

「無知で行ってひどいことになった」
ただ単にポスターを見て純愛映画でおもしろそうだと思い、彼女と一緒に見に行き上映後お互いの空気がかなり気まずくなりました。ストーリーも学生の自分には良くわからなく、性描写がかなりパンチが効いていたので失敗と感じました。もし本などを読んで内容をしっている方でしたら楽しめるかもしれません。何も知らない状態で彼女や親と行くのはやめておいたほうがいいでしょう。

これを読んで、「だからこの映画は成功なのだ」と僕はホクソ笑みました。

というのも、この映画は、純愛映画などではなく、純愛の不可能性を証明する映画だからです。

だから恋愛に幻想を抱いているカップルが行ったら、とんでもないことになること請け合いです。

「とんでもないことになること」を防ぐためには、男は、映画が終わり次第、客席のライトがつくなり、彼女に向かって、彼女が何かを言いだす前に、次の言葉を発する必要があるでしょう。

「酷い映画だったね。僕はこういう男たちのことが理解できないね。そういう奴らもいるようだけど、僕は違うな」

そういった、男が身を守らなければならないと言う事情もあって、この映画は「酷い映画」と言われるバイアスを持っているんじゃないかと勘繰りたくなります。

実際、この映画を肯定することは、男としては、結構リスキーです。

主人公のワタナベは、先輩の永沢を内心俗物と軽蔑しているのですが、それは永沢が女性をセックスの対象としか見ていないからで、その俗物の永沢に振り回されているハツミに同情をし、永沢と別れるようにアドバイスまでし、さらには運命の恋人と言えるような直子という存在を得ながらも、実は直子に隠しながら緑と言う魅力的な女の子と密会を続けており、直子にも緑にも「君だけを愛している」というような態度をとり続けるわけです。しかも、自分が俗物でないことをワタナベは信じている。

女をあからさまに裏切っている永沢とは異なり、主人公のワタナベは、女に同情をし、純愛がそこにあるかのようにふるまいながら、結果として、永沢などよりも卑怯な形で女を裏切ることになります。その見せかけの優しさは直子を傷つけ死に追いやってしまうのです。

そんな「酷い男」の話が、ビートルズの「ノルウェイの森」の美しいメロディでカバーされることで、美しい過去の思い出のようになっていく…そんな話がこの映画「ノルウェイの森」です。直子が死んでくれて、自分は人生を始められると潜在的に思っているのはワタナベです。そのことを分かっているから直子は死を選ぶ。本当にワタナベは「酷い男」なんです。

いま思わず「酷い男」と書いてしまいましたが、これ、間違いで、彼が特に「酷い」というわけではなく、男一般がそうなのであって、ワタナベは実に「普遍的な男」なのだと思います。


●男は誰もがワタナベである。

そして、この「普遍的な男」感を出すために、映画では、松山ケンイチがキャスティングされています。いかにもプレイボーイの玉山鉄二に対抗して、みかけ凡庸でちょっと言葉がなまっていて鈍臭そうな松山ケンイチ。そこがいいのです。彼のキャスティングを得て、さらには玉山鉄二との対比でワタナベは普遍的な男性になるのです。

ワタナベが普遍的な男性と描かれているおかげで、観客たちは、この映画の罠にかかります。

映画の初めに、男たちはみな「俺はワタナベだ」とまんまと思います。同時に、女たちはみな「私の彼氏はワタナベだ」と思います。

しかし、この「俺はワタナベだ」という初期設定は、映画が進むほどやばい展開を呼び込みます。

つまり、ワタナベが本性を現していくうちに、「男って可愛い女なら誰でもいいんじゃない?」という誰もが薄っすらと思っていた純愛否定のパンドラの箱が開いてしまうのです。

ついに、男は映画の始まりに「俺はワタナベだ」などと思った自分を後悔します。そして、映画が終わり次第、隣に座る彼女に向き直り焦って映画を否定することになります。

一方、女のほうは、映画の終わりに向けて確信に変わりつつあった疑惑。自分の横に座ってる男こそワタナベではないかという疑惑とともに映画を見終えます。しかし、映画終了間髪いれずに彼氏がこう言います。「こういう男ってサイテーだよね、俺は違うけど」。

けれども、そんな、「僕は違うよ」なんて言ってこの映画を否定する男をこそ女たちは疑うべきです。そして、「僕は違うな」なんて見え透いた否定を信じる馬鹿女をこそ男は遊びつくして飽きたところで捨て去るべきです。

だから、goo映画に感想を書いたkanon303さんの「彼女と行くのはやめておいたほうがいいでしょう」というアドバイスに反して、僕はカップルこそ、この映画に行くべきだと思います。

なぜならば、あなたが「本物」の男なら、この映画に描かれる男を隣の彼女の前でも敢然と肯定できるはずだし、あなたが「本物」の女ならば、自分の彼氏が、如何にこの映画を肯定しつつ、つまり純愛の不可能性を肯定しつつ、そのうえで今の自分たちの愛を如何にして肯定するのかという男の出方を楽しむことができるからです。

逆に言うと、自分が本物の男や本物の女でないという自覚があったり、女を騙して付き合っているような男は、この映画をカップルで一緒に観てはいけないという事が言えます。間違って観てしまうと、kanon303さんのように酷い目に会うことになります。

さらに、このことを利用した遊びも考えることができます。

たとえば、自分の彼氏が遊びで自分と付き合ってるんじゃないかと疑っている彼女は、彼氏には何も事前情報を教えずに、この映画を2人で見て、その後に彼氏の感想を聞けば思わぬ本音が聞けると思います。その時の彼氏の言い訳が薄っぺらなら、あなたが遊ばれていることが確定です。(もちろん、その薄っぺらさを見抜ける能力が女性になければいけませんが)

「純愛の不可能性を証明する」ためのこの映画を肯定した先にこそ、本当の愛がある。

そこに辿りつけるかどうか、それが観る者に試されている映画だということができると思います。

そういう意味において、映画「ノルウェイの森」は非常にユニークな映画であると思います。

自分たちが「本物」であると自信がある男女は、ぜひともカップルで観に行くべきです。お互いがどのような感想を抱くかその衝突を楽しんでください。

ちなみにkanon303さんは「親とも行ってはいけない」とアドバイスしていますが、それも逆で、僕は親とも行くべきだと思います。本当の愛がどんなものかを、より知っているはずの「大人」と観に行くことは、息子や娘たちに新しい気付きを与えることになるはずです。もちろん、薄っぺらい親ならば、その薄っぺらさを子供たちの前で露呈することになってしまうので、間違っても、子供たちとこの映画に行ってはいけないのですが。。。

ちなみに、原作は、緑とワタナベの純愛の可能性を示唆する条件がいくつか描かれているようです。しかし、僕はそれは映画で描かなくてよかったと思っています。というのは、それを描くことは、「純愛は可能」という皆の幻想を強化してしまうことになり、この映画で描こうとしていることに反するからです(逆に原作はそう誤読されているのではと思っています)。

純愛は不可能である。その不可能性を肯定したところからしか本当の愛は始まらない。

それが描かれているのが「ノルウェイの森」なのです。


●原作に忠実な作品

原作を読みなおしました。

実は「純愛の不可能性を証明する作品」であるのは、映画の性質と言うよりも、原作の持っている本質なんですね。

つまり、その本質を考えると、映画は忠実に原作を映像化したものと言えるんだろうと思います。

ちなみに、初版の小説「ノルウェイの森」の帯には「100%の恋愛小説」とあるらしいです。しかし、本来、村上春樹は「100%の恋愛小説」ではなく、「100%のリアリズム小説」と書きたかったようです。それが無理なので「恋愛小説」という死語をあてたらしい。

リアリズムとはつまり「純愛は不可能」という厳然たる事実のことです。「ノルウェイの森」は売るために「恋愛小説」と謳われたものの、その実は、真逆のリアリズムで書かれた「反恋愛小説」であったわけです。最初っから。

ただ販売の戦略から、「恋愛小説」と喧伝された。

そして、先入見とは恐ろしいもので、その「100%の恋愛小説」との帯を観て「ノルウェイの森」を手にして読んだ読者たちは、勝手に、この小説を「恋愛小説」として「誤読」してしまった。

時は経ち、読者たちの脳内で小説「ノルウェイの森」はキラキラと輝く遠い記憶に変わってしまった。

読者たちの観念の中で作り上げられた素敵な恋愛小説「ノルウェイの森」の誕生です。

つまり、多くの原作ファンは、原作が反純愛小説であることに気付かず、むしろ自分の「誤読」が作り上げた美しい小説イメージこそを原作と信じて、「原作を損なっている」と映画を批判しているように思うのです。

むしろ映画は原作通りであり、さらに原作よりも先鋭に、原作がオブラートに包んでいた部分をあからさまに広げている。

映画が検索をうまく拾えてないと嘆いている原作ファンに言いたいのは、原作を読みなおして欲しい、ということです。原作が、いかに「反恋愛小説」かを確認してください。映画が本質的に原作に忠実であることが判ると思います。


●小説に比べ圧倒的な情報量を持つ映像

情報量と言うことで言うと、小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない。

このことに異論を挟む人も多いと思います。

小説を映画化する場合、沢山のエピソードがそぎ落とされてしまうのは事実です。

だから、映画よりも小説の方が情報量が多いと考える人も少なくないと思います。

しかし、パソコンなどで使用する保存データのことを考えると、「小説は映像に比して圧倒的に情報量が少ない」という考え方は納得できるでしょう。

テキストデータは、映像のデータに比べて、無きに等しい情報量にすぎません。テキストが100キロバイトなら写真は100メガバイト、映像は100ギガバイト。

つまり情報量の少ない小説は、実は、読者が沢山の書かれていないデータを補足的に追加することで、イメージを作り上げているのです。

「ワタナベ」というキャラクターを考えればわかります。どれだけ小説が情報を費やしても、沢山いる読者の脳内の「ワタナベ」イメージを統一することはできません。千差万別です。

が、映像はそうではない。松山ケンイチが演じれば、もうあれが圧倒的に「ワタナベ」なのです。他の想像の余地を許さない。それほど、松山ケンイチの映像がもたらす情報たるや莫大です。なにをしなくても、その人の人間性が臭ってきます。

パンフレットで、トラン・アン・ユン監督も言っています。

つねにキャスティングで重視するのは、その役者の人間性です。…(中略)…その次に、もちろん役者としてどれだけの可能性を秘めているかを見極めます。


●人間性の水位の差が「物語」を生む

そして、映像化されたキャラクター同士の人間性の水位の違いによって「物語」が生まれます。

たとえば、菊地凛子のことを考えます。

賛否両論あるキャスティングです。巷間話題となっているように、菊地凛子の女優魂が獲得した直子役なので、監督的にもアプリオリに「直子役は菊地凛子で」というわけではなかったのだと思います。

が、結果として菊地凛子ははまり役です。

これは、緑役を演じる水原希子との人間性の水位の違いから正当化されます。

ワタナベ(松山ケンイチ)は幼馴染みのキズキ(高良健吾)からキズキの半分恋人であった直子(菊地凛子)を押し付けられます。「押しつけられる」というのは僕流の簡略化で、正しくは、キズキが直子を残して自殺したので、ワタナベは直子の面倒を観てやらねばならないと「責任」を感じるようになるわけです。一方、ワタナベの目の前に現れた魅力的な女の子緑(水原希子)。ワタナベの気持ちが緑に行くのも当然です。しかし、責任感からワタナベは直子を捨てるわけにはいかず、むしろ直子を最愛の人と「思おう」と努力するわけです。この「思おう」という努力というのは、思われる方にとっては酷いことです。それを感じ取った直子はどんどんと狂い始め、最終的には自ら死を選ぶことになります。

これをごちゃごちゃ説明せずに登場したキャラクターで「さもありなん」と観客に納得させる上において、直子の菊地凛子、緑の水原希子のキャスティングは本当に素晴らしい対比…人間性の水位の差を生みだします。その差から「物語」が生まれるのです。

菊地凛子は実年齢29歳で、水原希子が実年齢20歳。この差も大きく効いています(とくに画面に映る肌の差)。

あきらかに、世の男性は、水原希子を選ぶでしょう。なんのしがらみもなければ。

ワタナベが緑を好きになる説明臭いエピソードを作る必要が無い。

しかも、菊地凛子は、水原希子に比べて単に女性的魅力が劣っているというだけではない。そのメンドクササや狂気、そして魅力において、優柔不断なワタナベに、僕が捨てたら直子は死んでしまうと思わせて、義務感から、直子を捨てられなくなる…ということを内在的に引き起こすにふさわしい人間性を放射している。

菊地凛子、水原希子、松山ケンイチがいるだけで、なんの説明もなく「欺瞞としての二重純愛の構造」が見えてきます。


●キャスティングの妙

菊地凛子、松山ケンイチ、水原希子、そして、玉山鉄二と初音映莉子は、うまくこの映画の主題である「純愛の不可能性」を証明するに足るキャスティングと言わねばなりません。

松山ケンイチは寡黙で鈍臭く真摯である…菊地凛子との純愛、水原希子との純愛、この両立すること不可能な二つの純愛を成立させそうな感じがある。このキャスティングが少しでもおかしいと、ワタナベは単なる浮気男です。実際単なる浮気男なのですが、その浮気にも情状酌量の余地があると思わせてしまうようなタタズマイが松山ケンイチにはある。おかげで観客もワタナベも周囲の女性たちも最後の最後まで純愛の可能性を信じることになる。それは必要です。結果として純愛の不可能性を書くためには極限まで可能性を信じて突き進むしかありません。それを観客にさせる人間性が松山ケンイチにはあるのです。

また菊地凛子は、魅力と非-魅力が絶妙なバランスで同居する女優です。彼女が直子を演じることで、ワタナベが直子にこだわることの信ぴょう性を付加するとともに、直子を(内心)面倒くさく思い緑の方に心動いてしまうことを微妙に正当化させます。

水原希子は、そのコケティッシュな魅力で、ワタナベを純愛の矛盾に落とし込むにふさわしく機能します。それとともに、若すぎる物言いとふるまいは、ワタナベとの恋愛を拙劣なものとして見せるため、その純愛の薄っぺらさを際立たせます。

玉山鉄二は、如何にも鋼鉄のイケメンで、松山ケンイチの比較から、分かりやすく遊び人であることの記号として機能しますが、それだけではなく、その知性の宿る瞳からは、はたして、この人だけが「純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛」を追っているのではないかと思わせる深みがあります。

初音映莉子は、美しいがどこかしら控えめな匂いを放つタタズマイから、玉山鉄二の横暴を許してしまう押しの弱さ、そして不幸な感じが良く出ています。彼女の出番は多くはないのですが、永沢、ワタナベと三人でフランスレストランで話すところの芝居は圧巻です。僕が思うに、ハツミと永沢の関係にのみ、真の純愛…すなわち純愛の不可能性を知り尽くした上での純愛の可能性を見いだせるのですが、それは結果として、彼女の自殺という形で失敗に終わります。終わりますが、ハツミと永沢のもう一つの可能性を信じたくなるほど、玉山と初音の好演はこの映画を支えています。


●映画的リアリズムの導入~撮影方法~物語の切り出し方について

映画「ノルウェイの森」は観るべきシーンが多く、物語にさほど起伏が無いのに、スリリングに見続けることができます。

そのなかで、一番のシーンを選べと言えば、僕は先にもふれたフランスレストランでのシーンです。

外務省にうかった永沢を祝ってする食事です。

永沢とハツミそしてワタナベの三人です。

このシーンは、村上春樹自身が書いていて楽しくて仕方がなかったと言うシーンです。

これをトラン監督はハツミの思いだけに寄り添って描きます。

小説は一人称小説なので当然ワタナベからの視点からに過ぎないですが、映画はこれをハツミのみをずうっとアップで撮り続ける。永沢やワタナベは声がするのみです。

ハツミの微妙な表情が読みとれます。

彼女がどう痛みを感じていたのか、どう愛を信じていたのか、それが痛いようにわかる。

ハツミの思いが一瞬の炎のように描かれます。

純愛の不可能性を知り尽くした上で純愛を貫こうとしたハツミ。

この後のシーンで、ワタナベの独白で、彼女と永沢の試みが、失敗と、勝手に断罪されます。

が、本当は、永沢とハツミの純愛にこそ最も高貴な挑戦があった可能性がある(ワタナベはそれに気付かずより大きな罪を犯すことになる)。

それを信じさせるに足る初音映莉子の演技と、マーク・リー・ピンピンの撮影でした。

もちろん、それを意図したトラン監督がすごいのですが。

小説の平板な文字を立ち上げるとこうなるんだと映像の凄みを感じさせるシーンです。

もう1つ、セックスシーンの撮り方にも特徴があります。

普通のセックスシーンと言うのは、たとえば、ベッドの下に散乱する下着などを撮り、カメラはそのままパンして、衣擦れの音を含みながら、女と男の絡む足先を舐めながら上半身に移動、そのままキスをする2人の顔、というように撮られることが多いです。この誰が撮ってもこうなってしまう凡庸なシーン、それをどう撮るかがラブシーンの課題でもあるように思うのですが、トラン監督は、顔しか撮らない。足の指先なんて一瞬も撮らない。

まるで友人たちのセックスを一緒にベッドに寝て観ているような感覚です。実際人間生きていると視点をそんなにパンパン変えられない。だから変えない。さっきのフランスレストランのシーンでもそうですが、トラン・アン・ユン監督はそこで、映像にリアリズムの文体を導入したのではないかと思うのです。24的な多視点の映像が増える中、真逆の方法で撮影はされています。

音楽もかかりません。

だから呼吸音、キスの音、愛撫の音が繊細に空間を満たします。

こんなに息苦しく感じることはない。

まるで友人のセックスを邪魔しないように存在を消し息をひそめる観客。

というかそうあって欲しい。

間違ってもポップコーンを食いながら観ないようにしてほしい(^^;

このように、リアリズムの観点から、わざとカメラの動きに不自由を感じるほどの固定感を与えておきながら、別のシーンでは、カメラは縦横無尽に動くのです。草原のシーンしかり、緑の家で動き回りながらワタナベと緑が話すシーンしかり。

学食で緑とワタナベが会うシーンは、カメラはカットバックを多用しています。緑から見たワタナベ、ワタナベから見た緑、その繰り返し。なのに、フランスレストランのシーンでは、カメラはハツミだけを撮るのです。なぜそうなのかを読み解くだけでも、この映画だいぶ面白い。実際見て理由を考えてみてください。僕の中に僕の答えは一応ありますが、もうだいぶ眠いので今日は書きません。


以上、かなり長々と感想を書き綴ってきました。他にもたくさん言うべきことはあります。

映像の美しさとか半端ないし。学生運動との関係、セックスとフェラチオのこと。いろいろいいたい。

僕はこの映画はぜひ観るべき映画と思いますが、そうはいっても感じ方は人それぞれで、この映画をありえなく詰まらないと思う人もいると思う。

でも、ここで書いたようなことを思ってみると少し違って見えるのじゃないだろうか。

受容体がなければ、発信を受け取ることはできない。

自分偉いんだぜと自己の観点で映画を観るのではなく、完全に受け入れ開かれた形で観に行く。

そうすると、いくつもの新しい気付きがある。僕はそうやって生きて行きたい。

もしよかったら、皆の感想も聞いてみたいと思っています。否定の意見でもかまわないから。

ノルウェイの森@ぴあ映画生活

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2011/01/02

謹賀新年2011

あけましておめでとうございます。

松枝佳紀です。

2010年中に書かねばならなかったブログ記事なども沢山あるのですが、今はまず2010年総括および2011年の抱負などを書いておこうと思います。

2010年は大転換の年でした。

●演劇と劇団について

新国立劇場公演を終えた後から、劇団を中心としたやり方に苛立ちを持っていました。

その苛立ちがピークに達したのは2009年11月の番外公演においてです。「僕のやりたいこと」と「劇団のやれること」に、どんどん違いができてしまっていることに気付いたのです。

たとえば、2008年の8月の新国立劇場でやった「ルドンの黙示」を、僕は、僕の作品の最高峰と思っているのですが、あれを実現するためには、あの規模の予算、美術、スタッフ、劇場規模が必要で、それを実行するには劇団というのはなんとも心もとないものにすぎなく、実際、外部の魅力もあり集客力もある役者の参加に頼らざるをえませんでした。

なので「ルドンの黙示」以降の公演では、劇団員だけで、しかもアイドル劇団化しない方向で、「ルドンの黙示」的な大きなテーマを持った芝居をやることを目標として、がんばって活動してきました。しかし結論から言うと、これがなかなか難しかったというのが正直なところです。

劇団の主宰としては、所属する役者たちの集客力を伸ばすための努力もしてきたつもりです。

やり方が正しいかどうか分からないけど、僕としては映像に片足を突っ込んでいるので、そういう映像分野での露出を増やすことが、集客力のある役者を育てるためには急務と考えました。私費でマネージャーを雇い、劇団員の映画やテレビに対する営業を数か月しました。最初は難しくても、じきに効果は出てくるはず。そう思ったのですが、実際は金が出て行くばかりで、なかなか仕事の獲得に結び付かなかった。

結果、僕の資金が底をつき、マネージャーを雇うのは辞めました。

いわゆる役者を育てる方向としては、メソッド的なことを教えて演技力を増強する…と言うような方向もあるのでしょうが、演技力増強と、演者としての魅力を増すことは違うことだと思っています。いかに演技力がアップしたとしても、売れる役者、人を呼べる役者になれるわけじゃありません。

満島ひかりちゃんをみても分かりますが、役者の魅力とは、演技とかそういう技巧や技術の問題ではなく、その人の人間の奥底から湧き出でてくる三千年の汚水みたいなもので、それはいわゆる演技レッスン的な、明るく健全なことで鍛えられるものではないと考えています。

「4人の現役映画監督による実践的ワークショップ」を運営しているとわかるのですが、役者は自分の演技がどうかを知りたがるが、監督は一様にして役者には演技力ではなく魅力をもとめます。魅力ある役者と組むことは、芸術と経済を両立させる可能性があるからです。しかし、常に困るのは演技力を育てるやり方は多々あり指導することが可能なのですが、魅力を育てるやり方については定まった方法論が無いと言うことです。「よりよく生きよノタウチマワレ血反吐を吐け」と言うことしかできません。

そういう役者指導、劇団員管理、劇団運営に長いこと腐心し、そして限界と苛立ちを感じていました。 

脚本家・演出家としてはしたいことがあり、そして、それは満島ひかりクラスの役者と組むことですぐにも実現可能なことであり、しかし役者の成長を優先にする劇団の主宰としては、自分勝手なことをすることは許されず、自分のしたいこととは別のことをしなければならない。役者の成長を第一義においた公演を打たなければならない。その矛盾が僕をだいぶ苦しめました。

結果、僕の気持ちは、劇団公演ではなくて、プロジェクト文学を立ち上げる方向に向きました。

広田淳一、吉田小夏、谷賢一という才能と公演を打つことに非常な魅力を感じたのです。

人間、欲望がなければ報酬無き行動は続きません。僕は自分の欲望に素直になり、プロジェクト文学を自分の主に置き、2010年の劇団本公演は打たないことを決定しました。

プロジェクト文学は予想以上の好評を得、無事終了しました。主宰の4名は戦友と呼べる信頼の絆を得ました。4名それぞれに忙しいので、時間を調整するのは難しいですが、2011年、2012年とプロジェクト文学は続けていけたらなと思っています。

プロジェクト文学を実行している時の僕の欲望と快感が何であったかと言うと、それは脚本や演出の欲望や快楽とは別の、自分の仕掛けが人を驚かせ喜ばせることの喜びというか、おそらくそれはプロデューサーとしての欲望や快楽であったのだと思います。

一方で、劇団運営については答えが出たわけではありません。悩んでいました。正直にそのことを劇団員に話しました。僕は自分のしたいことだけをしたい。昨年父が死に、次は僕の番で、だから急がないといけない。僕のしたいことをしたい。しなければいけないことをしたい。そしてそのしたいことをする時に、劇団は、申し訳ないけどオモシになる可能性がある。そんな自分勝手なことを話しました。皆は話をよく聞いてくれて、その場でどうするかは答えは出さずに、皆がそれぞれどうするべきか、各自持って帰り、じっくり考えることになりました。

2010年のクリスマスを過ぎたあたりにどうするかそれぞれの答えが出ました。

劇団アロッタファジャイナは、松枝佳紀、ナカヤマミチコ、青木ナナの三人で続けて行くことになりました。峯尾晶についてはフリーになりました。安川については、すでに劇団を離れ、別の事務所で活躍をしています。

それぞれ立場は変われど、「やりたいことをやりたいようにやる」というクリエイティブの原点に戻りたいと思っています。まだ具体的に何をするかは決まっていませんが、余命がわずかであると想定したときに、回り道をしている暇はありません。やりたいことをやらないといけない。長い目でみていただき、応援していただけると嬉しいです。

●映画、シナリオライターについて

2010年の映画、僕のベスト1は「ノルウェイの森」です。そして次に来るのが「悪人」。僕は、2008年の春から夏にかけて、「悪人」の企画開発に関わり、その映画化の方向性を探り、プロットを書くと言う仕事をしていました。しかし、その年は、新国立劇場でやる「ルドンの黙示」に賭けたいと言う気持ちが強く、貴様何様という感じですが、途中で、降りさせてもらったという経緯があります。その代わり、「ルドンの黙示」には死ぬ気で関わり、僕自身の作演出作品としてベストの物にしあげることができたという気持ちがあります。とは言うモノの、大きな魚を逃したなと言う気持ちもあります。特に、「ルドンの黙示」で主役を張ってくれた満島ひかりが、映画「悪人」にも重要な役で出演しているのを見ると、ずるい、という気持ちになります(笑)。

演劇は好きですが、僕の中には、映画と言う浸透力の大きなメディアを使って作品を発表していきたいと言う気持ちが強くあり、また収入的にも映像は非常に魅力的です。

「悪人」を降りて以降、角川映画で西竹一陸軍大佐の生涯を描いた「硫黄島に死す」の映画化に関わり、これは第三稿まで書いたのですが、角川の政変で企画がぽしゃり消えました(気にいっている脚本なのでどこかで映画化できないものかと考えています)。その後、いまヒットしている「武士の家計簿」にも関わったのですが、脚本まではいかず、脚本協力というところで僕の仕事は終わりました。父の死という僕の個人的体験を元に書いたオリジナル脚本「夏休みなんかいらない」を金子監督と共に書き上げたのですが、これも映画化のめどが現状はまだついていません。他にも企画開発段階でつぶれた魅力的な多くの企画に関わってきました。

そんな中、何か自分の一人の手になる作品を早く世に問いたい。そのことを金子監督に相談したときに、金子監督に言われたのは、劇団活動を縮小し、シナリオライターとして本当にやりたいことに集中しろと言うことでした。そのアドバイスもあり、2010年は劇団活動を控えたと言うのもあります。

現在、金子監督と開発している某作品については、アドバイスをくれた金子監督の指導もあり、うまくいく公算が高いです。もちろん一筋縄ではいかないこの業界のことですからどうなるかわかりませんけれども、いま第一稿を書いておりなかなか面白いものができるのではないかと、僕次第なんですが(^^;、頑張っているところです。

そのほかにも、幸運な出会いがいくつかあり、仕掛かり品が何本かあります。

プロジェクト文学「太宰治」をきっかけに知り合いになった映画「人間失格」の監督でもある荒戸源次郎監督には大変お世話になっています。時代劇の脚本を書かせてもらいました。いわゆる剣豪物なのですが、かなり史実を調査し、そのうえで作り上げた脚本です。最近の時代劇にはないハードボイルドな毒のある内容の映画になりそうです。

また、他に知り合った監督方とたくらんでいる作品がゾロリとあります。

さらに、2010年は、シナリオライターとしても、もうすこしプロっぽくやろうと言うことで、事務所にも所属しました。DIPREXという事務所です。僕の大好きな海外TVドラマ「SUPERNATURAL」のジャパニメーション作品のなかの途中の1話を書かせてもらいました。また、DIPREXのキム社長は営業力も企画力もある人で信頼をしています。僕がなかなか近付けない仕事を持ってきてくれそうで、非常に期待をしています。

そういうことで、2011年は、2010年よりも、かなり忙し楽しい年になりそうです。

●それから…

勉強をしています。沢山の本を読み、沢山の映画や芝居を観、沢山の音楽を聞こうと思っています。インプットした分は必ずアウトプットをしようと思います。できるだけ、読書の感想、観劇の感想などはブログなどで文字にしておこうと思います。「ああ、面白かった」では、経験は血肉になりません。言葉にし、意識にし、体系化し、間違えて、指摘され、非難され、喧嘩して、そして何かを掴まなければ、経験は自分の使える道具にはなりません。

そう言う意味では2010年は沢山の悔いが残っています。読みたかった本を全部読めなかった。観たい映画、見たい芝居を全部観ることができなかった。書きたい作品を全部書くことができなかった。

2011年の目標は、より悔いのない1年に近づけるということです。欲望が大きければ悔いが大きいのも分かってます。分かってますが、それでもできるだけ、欲望をさらに大きくもちながら、やるべきことを、より効率的に、2010年よりも多く、果たしていきたいと思っています。

そんなわけで、2011年も、松枝佳紀、アロッタファジャイナをよろしくお願いしますm(_ _)m


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