大人計画「母を逃がす」
松尾スズキは天才だ。
当たり前のことを言ってしまった。
なにが天才って、言葉の天才なわけです。松尾スズキさんは。僕が思うに。
なによりもタイトルの付け方がうまい。
「絶妙な関係」「手塚治虫の生涯」「猿ヲ放ツ」「ちょん切りたい」「生きてるし死んでるし」
野田さんの芝居は僕は好きだけど、タイトル付けにはいつも文句を言いたいと思うが、松尾さんはすごい。
なかでも、今回再演の
この素晴らしいタイトルは一体なんなんだろうか。
松尾さんの書いた脚本で、最初に買ったのが、この「母を逃がす」であった。
しかし、初演は観ていない。
1999年5月に同じ本多劇場で公演している。
手元にある脚本に書いてあるキャスト表を見ると、今回の再演、若干の変更はあるがメンツもほぼ同じ。
出演者も、ザ・大人計画という感じ。
いわゆる人寄せパンダ的な芸能人の参加はない。
なのに、連日の公演は満席状態らしい。
分析するに大人計画の役者のキャラ立ちがくっきりしていて、TVや映画などでも、大人計画味で売っていると言うことが大きいだろう。
つまり、大人計画の役者がすでに人寄せパンダ芸能人に等しい集客を持っているからと思う。
ちなみに演劇の役者が、映像に出ても、演劇の時の持ち味を生かして出演というのは本当に少ない。
毛皮族の町田マリーさんなんかもNHKのドラマで良い芝居をしているが、舞台の時の町田マリーを想像できない。
その点、大人計画はすごくて、TVや映画で大人計画の役者のファンになった人が、芝居を見に来ても裏切らない芝居をしている。
だから映像で大量のファンを獲得し、それをそのまま舞台に持ち込んで行ける。
映像と演劇のわけ隔てない役者のキャラ立ちを意図した長坂社長の天才を思った。
それはそうと、芝居「母を逃がす」である。
始終笑いの絶えない芝居である。
そこで、言葉の天才松尾スズキに戻るわけだが、独特のセリフ回し、そしてそれを忠実にというか、大人計画の役者の肉体でしか発しえない言葉の連射による爆笑の渦。つまりキャスト変更が難しかったのは、役柄やセリフがもう、大人計画の役者を前提に書かれているからではないか。
僕は、松尾さんの「業音」という芝居も好きで、この脚本は面白すぎて何度も何度も読んでしまうのだが、キャスト表を見なくても、大人計画の誰がどの役をやるかが見えるぐらいに、セリフ、役割と、役者が連動している。のではないかと思わせる。違う役者でやったら、あの面白さは出ないのではないか。
普通の戯曲に比べて、別キャストでの再現性の難しい脚本が松尾スズキ脚本の特徴な気がする。
と、ここまで言っておいて何なんだけど、それだけでもない。
二重性をすごくいつも感じる。
詩情性と表層性
表層性のところが、上に述べた役者に依存したセリフの応酬に見られる松尾スズキ脚本の特徴で、詩情性(あるいは至上性)が、芝居の全体の基調に見られる松尾スズキ脚本の特徴。そう僕は感じている。
簡単に言うと、詩情性あるいは至上性はド演歌に近いロマンの場合が多く、それを大っぴらに表現するにはこっ恥ずかしいので、表層的なギャグと笑いでオブラートしているというか。
これは先行世代の野田さんや、同世代のケラさんにも見られる特徴だけれども、本当に語りたいこと(古臭いロマンティックな話)を表現するために、笑いという手続きを導入する。もちろん、ケラさんは笑いを手続きという風に考えるのには強く反発していて、たまに笑いだけ、それだけの芝居をされたりしているが、でも、僕なんかは、野田さんや松尾さんやケラさんの捏造するロマンを拾いに劇場にでかけているようなもので、もちろん笑いはあっていいし、いやあるべきかもしれないが、時折、笑いに偏重が過ぎて、おかしなことになってはしないかと危惧することも多々ある。
笑いを導入する必要が生まれたのは、おそらく学生運動の全面的敗北が大きな影を落としていて、つまり、熱く語ることの失敗が1970年ぐらいにあって、それ以降の若者は熱く語ろうにも、そんなのこっ恥ずかしいぜ、みたいなポーズを取らざるを得なくなり、とは言うモノの、人間の本質的な物語欲求は熱くロマンを語ることなので、それをなんとか、こっ恥ずかしいぜに落とし込もうとしたのが、笑いをメインに据えたような形の芝居を生み出した。と僕は思っている。表層こそが本質だぜというような。
一度、松尾さんのある作品を映画化したくて、交渉を重ねていたことがある。松尾さんと渋谷でお会いすることができたが、その時、松尾さんが言われた言葉が印象的だった。「血みどろの抗争のあとに、ぽっと浮かぶ詩情を大切にしてくれれば、僕は何も言いません」
結局、その映画はもろもろあって実現不可能となってしまったのだが、僕は松尾さんの舞台に、「血みどろの抗争のあとに、ぽっと浮かぶ詩情」をいつも求めに行っていたのであったから、我が意を得たりと思ったものであった。
このタイトルに詩情があふれている。
だから僕はこれを求めに今回も「母を逃がす」を観に行った。
実際、それは胸をきゅうと締め付ける話であった。
が、あまりにもオブラートが多すぎはしないか。多すぎて、はぐらかし過ぎて、「母を逃がす」が見えにくくなってはいやしないか。そんな印象を受けた。笑ったし、それは足を運ばないと得られない類のものなので、行ってよかったし、さすがに素晴らしいとは思う。思うが、松尾さんしか描けない詩情が「母を逃がす」という行為にあるのだから、1999年ならいざ知らず、もう2010年なのであるから、僕らは学生運動の失敗など忘れてしまったのだから、そろそろオブラートを減らしても良かったのではないか。そうしないから、若い無知な人々が安っぽいロマンに食いついたりするそういう時代になってしまったのではないか。そう思いながら見た。「母を逃がす」以外の情報量が多すぎる印象だった。もっと「母を逃がす」ことに胸締め付けられたかった。
僕の個人的趣味だから、あれだけども、「エロスの果て」「ドライブイン・カルフォルニア」「悪霊」なんかは笑いとロマンの塩梅が素敵だと思う。
いつか機会があれば、「母を逃がす」を映画化したい。その時には、より詩情性を重視した本を作ってみたい。と思っている。
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