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2010/12/15

谷賢一演出「国道五十八号戦線異状ナシ」

やりたいこと、やらねばならぬことが山積し、またしても精神的恐慌状態になりつつある。

観たい芝居、映画も多数見逃している。

非礼にあたるだろうし行かねばならぬことも多々あるものの状況的に許されぬことも多く大変申し訳ないと思う。

そんななか、観にいけないと感じていた国道五十八号戦線の解散公演を観ることができた。

朝、絶望とともに眠れずにいると、演出家の谷賢一氏から電話。

今日は千秋楽ぜひ観て欲しいと。

演出家自らの電話、これは並々ならぬ覚悟が無くては出来ない。僕は谷くんが好きだから、友情、うん、これは行かねばならぬと、奮起電話を切るとすぐさま電車に乗り劇場に滑り込み、解散公演2本立ての一方「国道五十八号戦線異状ナシ(再演)」を観ることができた。

実にすばらしかった。

谷賢一の「演出」スタイルの1つの集大成を観た。

おそらく、4.48サイコシス、人間失格を経ての行きつく先である。

簡単に作品について解説をすれば、谷賢一はお呼ばれ演出で、脚本は沖縄出身、劇団主宰の友寄総市浪氏、作品自体は2008年に初演され、今回は再演である。

なんというかお話しは縮めて言うと、沖縄問題、である。

沖縄問題の果てに本土から独立しようとする沖縄の若者たちの話である。

しかし、本当にこの物語が沖縄問題を扱っているかと言うと、はなはだ疑問である。

米軍基地だの、非核三原則だの、核兵器だの、言うているが、それらは結局どうでもいい展開なのだ。

僕が知っている以上の沖縄問題は出て来ず、また、その解決に焦点が絞られているわけでもない。

沖縄問題「的」な言葉をちりばめた設定のもとに、ある共同体というか友情の問題を描いた作品と言うべきで、実は沖縄問題を注目してこの公演を観に来た人間がいたとすれば(いないと思うが)、肩すかしも甚だしい内容である。

否定しているのではない。

当日パンフに演出の谷賢一が既に言っている。

つーかこれは、僕にとっては沖縄の話ですらなくて、

もう1つ大きな枠組みでとらえたい物語です。

初演は、美術的に沖縄を非常に意識したものであったらしい。が、それは、この脚本が実のところ少しも沖縄を扱っていないことを糊塗する方策で、今回、再演に当たり、谷賢一が美術を極力沖縄的でなくしたために、脚本内で扱われている沖縄問題が、ただの具材に過ぎないことが露呈するかたちになった。

そしてそれは、物語の本質…共同体構成員各人の、日常によって覆い隠されているエゴが、外部者の到来によって顕現していく、その風景を浮き彫りした。谷賢一の、役者のキャラ立ちとリアリティを両立させる丁寧な演出によって、そのことがテンポよく描かれる。

ただそこでも、それは「風景」にすぎなくて、物語を産むわけではない。脚本は、政治的駆け引きや、種明かし的なトリックを含むが、もはやそんなのは、言葉上の、学生的な、机上の空論、青臭い上っ面の屁理屈で、どうでもいい。残るのは、谷賢一の演出である。とくに、ラスト近くの、王国の旗をあげたところの拡声器を使ったシーンは印象に深い。心がワクワクするほど派手である。出し物としての下品さを備えながら、でもキチンとしている。台本や沖縄と正直にぶつかってはヤバいところをうまい具合に回避している。同じようなやり方は蜷川さんの演出に見られる物である。脚本を変更しないと決めたときに、そのような道が開けるのかもしれない。

演出家は、エンターテイメント性とアート性を微妙な塩梅で両立させねばならないが、本作の演出は絶妙な具合でエンターテイメントとアートを両立させている。イケメン芝居に走るのでもなく、幼稚なヒロイズムに走るのでもなく、アートを売れるものとして成立させる。その谷賢一の手腕にまたまた磨きがかかったと唸らされた一本であった。

作品の内容については、「休むに似たり。」が丁寧ですので参照してください。


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