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2010/12/19

さいたまネクストシアター「美しきものの伝説」(1)芸術について

(文章がめっちゃ長くなったので、(1)芸術について、(2)政治について、(3)演出について、と3回に分けます)

さいたまネクストシアター第2回公演「美しきものの伝説」の初日に行ってきた。戦後の新劇を代表する劇作家、宮本研の戯曲を、世界の蜷川幸雄が演出する。そして、我らが川口覚が出演である。見ないわけにはいかない。

前回の「真田風雲録」を見逃しており大変悔しい思いをした。見逃すと演劇はまた出会うことができないのが、映画などと違うところ。多少、都合が悪くても、なんとか駆けつける意味がある。(もちろん映画も映画館で観るのはいつでもできることではないので、なるべく映画館には駆けつけようと思っているけれども)

僕が、なるべく舞台を初日に観に行こうとするのは、昔どこかで蜷川さんが舞台は初日が最高で、後は落ちて行くだけ、と言っていたのを聞いたのと、公演の早いうちに見ておけば、それがもしも素晴らしい公演であった場合、他人にすすめるのも容易だと思うからだ。如何に良い芝居であっても、千秋楽に観たならば他人に勧めようもない。

「美しきものの伝説」は学生運動最盛期の1968年の初演以来、いろいろなところがこれを上演しているが、僕は全く見たことが無く、話についても、ぼんやりと、大杉栄と伊藤野枝が出てくるというようなことしかしらず、大正の無政府主義運動の話だろうかというようなぐらいの感覚で足を運んだ。

観て驚いたのは、政治の話と言うよりも芸術の話であったことだ。

そして、それは先ごろ見た本広監督演出の舞台「演劇入門」と問題意識を共有する部分があった。

●「演劇入門」と「美しきものの伝説」の類似性

どういうことかというと、本広さんの「演劇入門」が、いわゆる平田オリザさんの牽引する「現代口語演劇」という流れがいかに人心に受容され、演劇の表現方法の主流となっていくかという1990年代の演劇革新の様態を描いたものだとすると、「美しきものの伝説」は、ちょうど100年前の大正時代にリアルな演劇表現をもとめて演劇革新運動を起こした人々の生きざまを描いたものともいえるからだ。

劇中劇を多用するスタイルも両者は非常に似ている。当時はこんな芝居が演じられていたんですよ、と見せる必要が「演劇入門」にも「美しきものの伝説」にも発生するから、このような劇中劇を多用する形になったのだろう。

だが、違いもある。

●目的の違いから生じる表現の相違

「演劇入門」は、演劇革新の「成果」を見せることに目的があるから、Aという舞台表現がB=A+⊿Aになりましたと表現するわけだが、成果である⊿A=B-Aを評価するにはB>Aでなくてはならない。ということはAをBよりも低いものとして明確に描かないとならない。本広さんはツイッターなどでAを馬鹿にしているわけではなく多様な表現があると言いたいだけというような趣旨の発言をしていたが、成果を評価することに目的があるから「演劇入門」には内在的にB>Aと表現する圧力があるわけで、つまり「Aを嗤う」ということが必要的に生じる。実際、たくさん笑わせていただいた。「演劇入門」を観た後に、赤坂で「ジャンヌ・ダルク」を観たのだが、あまりにも「演劇入門」で馬鹿にされていた表現が多用されていたために、失笑を禁じえなかった。

しかし「美しきものの伝説」は、演劇革新の「成果」を見せることに目的が無い。AもBも、あるいはその先行世代も、死ぬほど生きたのだ。そして、その死ぬほど生きた人たちを鎮魂すること。そこにこの劇の目的がある。僕ら、おまえら、死ぬほど頑張った。がんばってがんばって死ぬほど頑張って実際死んじゃった奴も多いけど、そして後の世代にはそのがんばりでさえ忘れ去られてしまうだろうけど、でも、きっとAもBも美しかったんだよ、僕らだけはそう思おう。というようなことが主眼である。だからなのか、劇中劇が嗤えない。Aを馬鹿に出来ない。構造としては「演劇入門」と同じだから、大仰な芝居、奇矯な表現を馬鹿にし失笑が漏れてもおかしくない。実際、僕は「嗤おう」と努力した。だが、この劇中劇…トルストイ「復活」、「サロメ」、有島武郎「死と其の前後」…が死ぬほど真剣で死ぬほど美しく、僕は嗤うどころか感動してしまった。

●リアルを志す演劇表現の歴史

歴史を知っていた方が多少面白いかもしれない(ちなみに僕が連れて行った子はそういう歴史を知らない子であったが十分楽しんだようである)。

発端は明治維新にある。

大衆娯楽として歌舞伎があり、これはもちろん娯楽としてだけではなく、政治的な意図も持った立派な芸術ではあったのだが、それを革新する内在的な動機は開国に至るまで、歌舞伎の中になかったのは想像に難くない。

で、明治になり、やはり大衆娯楽として歌舞伎は存在したが、開国により、より多様な存在の仕方に目を向けた人々が、より自分たちの心情にあった表現方法を求めるのは最もなことで、これは小説表現においては、写実主義、自然主義、言文一致というような運動を生み出すことになる。

演劇表現においても、同じ作用が働いたのだと思う。

写実主義、自然主義、言文一致である。(そう考えると、現在演劇表現の主流にある現代口語演劇なるものは、この運動の余波、最先端というふうに捉える事が出来る)

「美しきものの伝説」に登場する文芸協会・芸術座の島村抱月(1871-1918)と、自由劇場の小山内薫(1881-1928)は、その演劇革新運動の代表的な存在である。

●島村抱月の芸術座

まず、文学者でもある坪内逍遥(1859-1935)がいる。

逍遥は、26歳のときに、かの有名な「小説神髄」を著し、伝統的小説表現を革新すべきこと、時代に即した嘘のない写実的な小説表現を行うべきことを宣言する。そして、47歳となる1906年に、35歳の島村抱月と「文芸協会」なるものを結成する。島村抱月は前年に4年間のイギリス留学より帰ってきている。イギリスにいて日本の演劇表現が古いことを痛感したに違いない。一回り上の大先達、坪内逍遥と意気投合し、演劇表現の改革に乗り出した。当初は演劇だけでなく、美術や文学などあらゆる芸術表現の革新を目指していたようだ。その公演の様子を夏目漱石が「三四郎」に書いている。

しかし、実験的な運動がほとんどそうであるように、逍遥と抱月の文芸協会は多額の負債を抱えることになる。

●小山内薫の自由劇場

そうやって文芸協会がもたもたしている間の1908年に、抱月の10歳年下の小山内薫27歳が、幼馴染み(16歳、17歳自分の俳句仲間)の1年先輩の歌舞伎役者二代目市川左團次と演劇表現の革新を企図、リアリズム演劇を志して「自由劇場」を立ち上げる。小山内薫はこの時点で国外の経験が無いが、襲名披露公演で儲けた金で市川左團次が私費留学を9カ月している。左團次が海外視察によって感じた演劇表現の革新の必要性と小山内の考えが合致した。

小山内と左團次は森鴎外にイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の翻訳を依頼する。新しき酒には新しき革袋をと言うことだろう。旗揚げ公演は1909年11月である。この「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の初演の様子は森鴎外の「青年」に描かれている。

●「大根役者」とリアル

ちなみにこの二代目左團次、「大根役者」として有名であった。しかし、モノの本によれば、歌舞伎的な大仰な表現を、よりリアルにしたいという意図が左團次にはあり、それが結果として、無表情、抑制的演技になり、大根に見えたということらしいが、真偽のほどは判らない。むしろ大根がゆえに「これこそ自然」と言い訳を探したのかもしれない。ともあれ、時代として、演技をしないことこそ役者の仕事、というような流れは来ていたのだと思う。そして、このことについて「美しきものの伝説」でも言及がされている。ルパシカは小山内薫のことである。その小山内薫が、ライバルの抱月のところにいる主演女優松井須磨子を大根女優と馬鹿にしたことについて…

四分六 君、松井須磨子のこと、大根だと言いましたね?
早稲田 大根なんてものではありませんよ、あの女優は、あなた…
四分六 君は黙っていなさい。(ルパシカに)大根だと言うことについてはわしもあえて異議は唱えんが、しかし、これからの新劇の役者は、すべからく大根でなきゃいかんのじゃなかろうかね?
ルパシカ どういう意味です? 
四分六 君は言ったよ。自然であること、あくまでも自然にふるまうことによってしか人間の真実は描けん。…大根がいつまでも大根では具合が悪かろうが、しかし、新劇の新劇たるゆえんの物は、脚本もだが、大根ばかりで一座を組むところにあるんじゃないのかね?

●イプセンと両派の成功

森鴎外訳のイプセンの劇のおかげか、大根のおかげか、小山内と左團次の自由劇場の旗揚げは大成功する。

この影響を受け、多額の借金を抱える、逍遥、抱月の文芸協会でも、同じくイプセンの「人形の家」を島村抱月自身が翻訳し1911年上演。主演のノラ役に、文芸協会で作った俳優養成所の生徒、松井須磨子を抜擢し、これまた大当たりとなる。

「美しきものの伝説」で四分六と呼ばれる堺利彦が島村抱月を「ノラ先生」と呼ぶのはそのためである。

●抱月と須磨子の不倫愛

島村抱月をノラ先生と呼ぶのは、「松井須磨子のノラ役で儲けた先生」と言う意味であるとともに、その「松井須磨子と不倫スキャンダルを起こした先生」という意味でもある。

イプセンの「人形の家」を当てて復活した文芸協会であるが、主演女優である松井須磨子と妻子持ちの演出家の島村抱月の不倫愛が発覚し大問題となる。逍遥は怒り狂い、抱月は辞任、須磨子は退所処分となる。が、この二人、落ち込むわけもなく、1913年、抱月と須磨子は2人して仲良く新しい劇団「芸術座」を立ち上げることになる。

「美しきものの伝説」では、四分六が女優になりたいと言う野枝に「誰にも言うなと言いながら」この話をする。

つまり、「美しきものの伝説」はこの「芸術座」が旗あげられる寸前の1912年に始まる。

●小山内薫とスタニフラスキー

同時期に、「美しきものの伝説」のもう一人の重要人物ルパシカ、本名、小山内薫はモスクワを訪れる。そこでモスクワ芸術座のゴーリキー作「どん底」をみて感激し、その演出家であったスタニフラスキーの自宅を訪問する。スタニフラスキーと言えば、演劇を志す人間で知らぬものはいない俳優教育においての巨匠である。スタニフラスキー・システムは現在においても、自然で作らない人物を演じるための演技方法の源流として不動の地位を確保している。後年、小山内は、映画制作に乗り出した松竹のキネマ俳優学校の校長となる。おそらくそこにはスタニフラスキーの影響がある。

●新劇

旧劇たる歌舞伎に対比して、リアルを求めて立ち上げられたこの演劇を「新劇」と総称する。今でこそ、「新劇」は古い芝居がかった芝居のことだが、当初は、芝居がかかった芝居である旧劇を否定して誕生した新しい演劇こそが、この「逍遥、抱月の文芸協会」と、「左團次、小山内の自由劇場」の代表する「新劇」なのであった。どちらも言文一致的なリアルな表現方法を採用し、同時に、イプセンのリアルな現代劇の導入を必要としたのである。

●二元の道

しかし、この後、抱月と須磨子の劇団「芸術座」は、おかしなことになっていく。リアルな芝居を作るという理想を持った抱月であったが、松井須磨子という人気スターと行動を共にすることによって、劇団がスター劇団になっていくのだ。須磨子に歌をうたわせ、それが大ヒットし、大衆的になり、興行的には当たるが、それは若き日の抱月が目指した方向とは違った方向で劇団が発展していく。しかし、抱月は若き日の志を完全に捨てることはできずに、大衆劇と並行して、小人数だけを相手にする研究劇というのを行っていくことになる。「美しきものの伝説」では、抱月は、この自分の方法を「二元の道」と称し、「芸術性」と「大衆性」の双方を満たしていこうと行こうとするオッサンとなる。

●批判

ライバルの小山内薫とその小山内を信奉する学生の久保栄は、抱月の「二元の道」を痛烈に批判する。久保栄役は、僕作演出の「ルドンの黙示」で主演の一人を演じてくれた川口覚くんである。

川口くん演じる学生の久保栄が、すでに演劇界の重鎮たる抱月に食ってかかるシーンは、今回の「美しきものの伝説」で、一番スリリングなシーンと言ってもいいだろう。抱月と久保栄の対比は非常に見事である。観客は、どちらの言い分を正しいと思うだろうか?どちらも正しい。おそらく人によって分かれるだろう。この時の抱月は47歳、スペイン風邪をこじらせ死ぬ直前である。理想主義と現実主義の間でいまだに迷っていて、ときに、学生の久保栄の実直で的確な理想主義の言葉が胸に響いてしまう抱月の気持ちが、僕には痛いほどよくわかった。

公演後に川口くんに聞いたのだが、蜷川さんも「俺は抱月だ」と言っていたらしい。

●「美しきものの伝説」をみるための演劇史要点

演劇史としては、おおざっぱに

1.「旧劇」である歌舞伎の型の表現から、言文一致的なリアルな表現をもとめる「新劇」へと言う流れがあり、

2.その「新劇」の中には、オッサンの島村抱月の芸術座の流れと、小山内薫の自由劇場の流れがあり、

3.島村抱月の芸術座は、理想とは離れ音楽劇などの大衆芸術に傾倒していくが

4.一方若者たちは、理想を追求するとともに、政治を志す者が増えてきて

5.劇団的なところの多くが、共産主義運動、無政府主義運動をしている人達のたまり場になる…

というところを掴んでいると、「美しきものの伝説」の理解の下地はできたと言えるのではないだろうか。


(つづく)

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