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2010/10/13

特権的であるべき知識の存在

プロジェクト文学の公演プログラム(500円)は大変評判が良かった。

これを読んで興味を持って観に来てくれた人もいたぐらいだ。

プログラムには、4人の演出家が、演出する太宰作品の解説それから翻案演出意図、そして演者たちの解説が載っており、公演をより楽しんでもらえるような内容となっている。

僕は今回企画の製作総指揮として、プログラムのトップに公演の企画意図というようなものを載せた。

記録として、以下に再掲しておく。

「特権的であるべき知識の存在」 

 本日は企画公演「Project BUNGAKU 太宰治」にご来場いただきまことにありがとうございます。企画立案、製作総指揮の松枝佳紀です。アロッタファジャイナと言う劇団の主宰で、普段は、自劇団で脚本と演出、そのほか映画などでシナリオライターをやっています。

 文学を演劇する。演劇を文学する。
 そもそもなんでそんなこと必要があるんだろう?、という疑問はあると思います。なので、以下に文学を演劇しようと思った最初の僕的な動機なんかを話してみます。

 もともとこの企画発足当初は演劇化するターゲットを文学に限ろうとは思っていませんでした。文学と言うよりも、古典と言うほうがいいでしょうか、なにか昔「教養」というものが重視された時代に皆が参照したモノ=「古典」をあらためて重視してみませんか?というのが僕の最初の発想でした。
 「古典」を重視しようと思ったからには、現在、「古典」が重視されていないという思いがあるということです。現在「古典」が重視されていないと言うことは「教養」が必要とされていない時代になったと言うことです。2010年の今日、そういう時代になったと言う認識が僕にはあります。

 なぜ「教養」が必要とされていない時代になったのか。理由はいろいろあると思います。
 たとえば技術進歩があり、新知識の習得の重要性が高まったと言うこと。IT革命(IT革命という言葉さえ古い感じですが)。古き知識の重要性が(相対的に)薄れたということ。「古い」ということが基本的に否定的な印象を持つ時代になったということ。それはあるでしょう。「あいつ古いんだよ」そのセリフはだいたい悪い意味です。カラオケに行ったって「古い」歌をうたうのは躊躇すべきことです。平気で若者ぶる老人が増えたり。古い知識を持っていることが収入につながりにくくなった。それもあるかもしれません。が、マニアックな江戸知識とかはやはり金になるだろうと思います。ということを考えると、単に「古い」知識が必要とされなくなったということではない。マニアックはいまむしろ必要とされているからです。と言うことを考えると、「教養」の崩壊は単に古い知識の価値が減ったから、と言うことでもないように思います。

 「教養」と「マニアックな知識」は方向性が真逆です。つまり、「マニアックな知識」は皆に共有されては意味がなくなりますが、「教養」は皆が共有して持っていることによって意味が発生します。

 「情報」には「単独価値」と、それがみんなで共有されていることを前提に発生する「共有価値」があるようです。昨日のお笑い番組を見るには、そのお笑いを見ることによる楽しみ(単独価値)と、次の日にあれ面白かったねと話す楽しみ(共有価値)があるということです。その番組が番組として面白くとも、皆がその番組を見ていないなら、その番組を見る価値が減る。同じようなことで「情報」の保有価値は決まります。情報には、皆が保有することによって高まる価値があるのです。この価値については難しい。たとえば独りがその「情報」の保有を破棄する。それによってもその「情報」の「共有価値」は目減りをするはずなんだけども見えずらい。だから誰かが放棄する。意外にいける。2人目が放棄する。意外に行ける。3人目が放棄する。意外に行ける…という具合にその情報を保有する努力をしなくなる人が増えたとします・・・ある時、気付かれる。「あれ?この情報いらなくね?だって結構みんな知んないよ?」途端にその情報を保有する価値は暴落する。暴落することにより、さらに、その情報を保有する意味が無くなる。さらに情報を放棄する人が増える。さらにその情報を保有する価値が大暴落する。その過程は経済恐慌やデフレ・スパイラルと同じです。紙幣が紙くずになるごとく、教養とされてた知識は一瞬で無駄知識に変わります。

 ぼくらの先輩たちが持っていた「教養」はそういうことで崩壊した。というのが僕の認識です。
 そして厄介なことに崩壊した「教養」は復活が難しい。失うのは個々人の行動の積み重なりですが、復活には、全員でヨイショっと持ち上げる力が必要となります。国家と言う暴力機関、強制機関が必要になる。が、民主主義の世の中では、この暴力機関を動かすにはコンセンサスが必要で、そもそもコンセンサスが取りづらいから国家を使おうと言うのにコンセンサスが必要になるというジレンマ。憲法の改正が難しいのと同様、崩壊した教養は復活が難しい。とは言うものの、難しい難しいと言って、放っておかれるうちにどんどん「教養」は崩壊する。もはや、こんなところで、僕が「教養」の崩壊は大変だと騒いでも、失われるモノは失われるからいいんじゃね?なんて言われる始末顛末。

 だが、長い歴史が培ってきたモノ、様々な摩擦を経て生き残った情報…「古典」には生き残るだけの意味があるだろうと思っています。いまこの瞬間に「古典」に含まれる情報に意味があるのかどうかには関わりません。それは短期的な意味ではなく、もっと根深く外縁的なモノの構成に関わるかもしれないし、民族的な無意識を構成する情報かもしれない。「そんなの必要ない」と短期的で浅薄な若者の考えで判断し捨てて失われるモノの大きさを考えると怖くなります。だから僕はもう一度、「教養」とされた「古典」に関する知識の、知識としての特権的地位を復活させたいと思っているわけです。無理なのは承知なうえで。

 今回の企画で言うところの「文学」というモノも同じで、まぁ「太宰」は「古典」ではないでしょう。「古典」ではないでしょうけれども「古典」であろうとも思っています。つまり「教養」であってもいい「情報」として「太宰」の「文学」はあるんじゃないかということです。プロジェクト文学とは、失われつつある、あるいは失われてしまった「文学」(=「教養」としての小説群、可能性としての「古典」)を復興しようと言う意図があります。これはこの企画に参加する他の演出家とのコンセンサスではないです。ないんですが、無意識的なコンセンサスはあろうと思っています。というのは、全員が、教養主義的な作品を作っているからです。僕らは先輩たちが作ってきた日本的な何かをかろうじて受け継いでモノづくりをしている。「教養」というものをどこかしら信じている。というか「教養」の必要性だったり面白さだったりを、たぶん判っている。観に来てくれた方々には、今回の公演を、この文章に書いた屁理屈とは関係なく素直に楽しんでもらいたいと思います。ですが、願わくば、最近の小説家よりも太宰治の小説の方が面白そうだとか、深いんじゃね?とか感じてもらって、その先にある教養的な何か、特権的であるべき知識の存在について思いをはせるきっかけをつかんでくれればなと思っています。

製作総指揮 松枝佳紀(アロッタファジャイナ主宰)

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