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2010/03/22

大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」

現在、沖縄を舞台にしたある原作小説を映画にする作業に取り組んでいる。

もちろん脚本家としてである。

で、ここ数日、脚本化の方向性を考えあぐねていた。

沖縄~素敵な楽園、みたいな映画は沢山あり、そんな映画なら僕はやる気はしない。

なにか、違うもの。

小説を読んだときに、僕が引っ掛かったのは、食べることは殺生である…というような描写だった。

殺生という言葉は小説のスパイスで、中心ではないのだが、僕は妙に引っ掛かっていた。

一方、ツイッターで、橋本治さんの小説「リア家の人々」が評判で、ぜひ読んでみたいと思い、掲載されている新潮の4月号を買っておいた。

ふとその表紙を見ると、大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」とある。

殺生か…まさに、いま気になってること。

と思い、パラパラとページをめくった。

一気に読んでしまった。

そして、泣いた。

批評で泣いたことなど初めてではないか。

おかげで、脚本化の方向性に一条の光がさした。

いろいろ素晴らしいのだが、一番素晴らしい部分は手にとって読んでもらうとして

でもたとえば次のような文章は、美しく的確でそして深い。

きっと誰も命を殺して食べることの恐怖を一人で引き受けられない。自分が自然の一部であることを、今、この瞬間に死につつあることを、殺されていることを、食べられていることを、思い出してしまうから。この恐怖を分け合うところに社会が生まれた。(大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」より)

この素晴らしい批評はみんなが手に取り読めばいいと思う。

しかし、この素晴らしさを受け取るには、いろいろなことをクリアしなければいけない。

最近思うのはやはり教養は必要だということだ。

教養がなければ、この批評の素晴らしさを受け取ることができないに違いない。

そして僕の周りには、残念なことに、教養のない人間が多すぎる。

僕自身も長らく教養を耕すことをおろそかにしてきた。

いま義務として、僕は、自分の教養を耕すこと、愛する人たちに教養を身に着けさせるよういろいろ教えることを、自分自身に課している。

他人に教えるなんておこがましいと思ってきたが、そのような下らない謙遜で失われているものの方が多いというのにようやく気がついた。

後輩たちには、強制し強要しなければいけない。

教養を身につけるのは時間のかかることなのだから。

やっとけばよかったと思った時には遅い。

個人の問題ならまだいいが、消費者個人のレベルの低下は、必要とされる生産物の知的要求水準を強制的に引き下げることになる。

人類が長い年月をかけて蓄えてきたものが急速に失われ始めている。

そんな焦りが最近僕にはある。

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