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2010/03/07

クリント・イーストウッド監督「インビクタス/負けざる者たち」

自分が日本銀行を辞めて、映画や演劇の世界に身を投げたのは、福沢諭吉の「ペンは剣より強し」ではないが、日本や世界をよりよいものとするためには、より正しきエンターテイメントを作ることが重要だ、と思ったというのがある。映画や演劇が好きだというのが前提にあるが、好きということだけで言うと経済学もずいぶん好きだった。

もちろん映画や演劇には「おもしろかったね、で?」みたいな作品も多いわけだが(それ自体が悪いわけではない)、広く世界を見回してみると、やはり何かしらの危機感というか、時代に対する責任を感じて作られた映画が少なくない。また、そういう映画が面白かったりするから、人間は捨てたもんじゃないと思う。

そういう意味で言うと、クリント・イーストウッド監督は神だ。僕は彼の作品を悪く言う人を信じない。

現在、僕は23歳になる劇団員斉藤新平と二人暮らしをしているわけだが、ある日、彼が映画「インビクタス」をみてきて、あれをありきたりで全然面白くなかったと言った時には、殺意を覚えた。というかこの男とは同じ空気を吸いたくないと思い、家から追い出すことを決意した。が、いきなり追い出してはかわいそうなので、一回だけチャンスを与えることにした。もう一度、ちゃんとみてこい。もちろん、もう一度見た後の感想が否定的だったときに家を追い出すとは彼には伝えていない。伝えれば、彼は住む場所を奪われたくないがゆえに、面白かったと虚言を弄する可能性がある。

とは言うものの「ありきたりで面白くない」という斉藤新平の言葉は言葉で彼なりの誠実であろうから、漫然ともう一回見ただけでは同じ結果になる可能性が高い。

で考えた。あの「インビクタス」をありきたりで面白くないと答えた斉藤新平と、あれを見て激しく感動した僕の差は何か。それはおそらくあの映画が事実であることに関する前提知識の差ではないだろうかと思った。斉藤新平はアパルトヘイトの何物かを全く知らないし、ネルソン・マンデラが何者であるかもしらなかった。

映画や演劇は前提知識を必要とせずその作品単体で全てを語りつくしているべきだという意見もありそうだが、実はそのような考えは幻想で、程度に差こそあれ、全ての作品はなにかを前提にしている。たとえば「***は赤かった」と文章にあるときに、「赤とはトマトの実が成熟したときに見せるあの情熱の色である」というような解説は付かない。赤は赤なのだ。これは最低の事例であるが、結局、言葉・文章というものはどうあがいても共有知識を前提にして書かれているし、前提にせざるを得ない。(このことについて三島由紀夫が的確な表現をどこかでしており引用しようとしたが発見できなかった)

「インビクタス」という映画には、南アフリカ共和国をめぐる世界史的なある程度の知識が必要なのだ。映画はネルソン・マンデラが大統領として就任した直後から始まる。それ以前の世界は書かれていないし説明もされていない。どのような対立を経て彼がそこにいるのかは書かれていない(マンデラが牢獄にいたこと、いたときの回想的シーンもちらりとあるにはあるけど)。クリント・イーストウッドは描かない部分においては、そんなの知ってて当たり前、世界的な常識でっせと言っているわけである。なので、僕は、その知識を斉藤新平にレクチャーした。そのうえで、あの映画をもう一度見なさいと伝えた。

こんな粘着質的な行動を僕がとるには理由がある。

斉藤新平は差別されてきた人間なのだ。いじめと言ってもいいが、同級生だけではなく教師たちからもお前は違うと理由なき(あったとしても肌色が違う程度の理由で)差別を受けてきた人間なのだ。その人間ならば、あの映画を見て、僕などよりも強く思うことがあるはずなのだ。それを「ありきたりで面白くない」と言うようでは、監督者兼教育者としての僕の沽券に関わるわけである。最近は監督者兼教育者としての立場が面倒で教育を放棄していた。しかし、大学にもいかず、バイトの毎日で、アパルトヘイトの何事かも知らない若者に何かを教えられるとしたら、それは劇団の主宰の僕しかいないはずで、それを彼に教えるのは僕の責任だろうと思ったわけである。

二度目の観劇を経て、斉藤新平が「まったく違う映画に見えました」と言ったのはほかでもない。

差別すること、差別をされた人間がどのような怨念を抱くかということ、怨念を抱いた人間が何をするかということ、そのようなことを程度の差はあれ実地に見て経験し思った事のある人間は、あの映画を見て驚き泣きそして未来に希望をもつに違いない。映画や演劇が世界を動かしうることを信じられる映画である。策を弄さずストレートにあれを描けるクリント・イーストウッドはやはりすごい。

インビクタス/負けざる者たち@ぴあ映画生活

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