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2010/03/28

衆議院議員津村啓介氏からのメール

僕の日銀マン時代の一年先輩で、現衆議院議員(民主党)の津村啓介さんからメールがありました。日銀の中で僕らは同じ憂国の思いを抱く皇道派青年将校としてかなり近しい友人でした。二人して決起寸前の勢いで毎日のように上司とぶつかり合っていたのを思い出します。その後、僕は彼より一足先に日銀を辞め政治より文化と思い現在のような演劇映画をやっていますが、彼は日銀を辞めた後も政治的志をつらぬき衆議院議員となり政府の一員となりました。日銀の政策決定会合に出席するなど最近の彼の目覚ましい活躍には愉快痛快拍手喝さいです。明日、28日テレビに出るようです。ぜひご覧ください。

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国家戦略室の政務官になってから約半年の間、フジテレビの密着取材を受けておりました。

明日、いよいよ放送の運びとのこと。

生意気な姿、弱気な姿、スタッフとのやりとり、試行錯誤…。どうも失敗の場面ばかり編集して頂いたようで、汗顔の至りですが、もしお時間があえばご笑覧下さい。

津村啓介

■日時 2010年3月28日(日)14:00~14:55
■番組 フジテレビ 「ザ・ノンフィクション
■タイトル 新・霞が関物語 激突「政」と「官」

※関東を中心とするローカル放送のため、ご覧頂けない地域もあるようです。

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2010/03/26

TAMAGOKAKE GOHAN!

そんなことをしている場合ではないんだが・・・

TAMAGOKAKE GOHAN

できたら、音ありで見て。

それから一通り終わった後、「新しく作る」を選ぶと、新たに醤油の量やら味の素の量やら混ぜ具合を変え、自分好みのTAMAGOKAKE GOHANを作ることができる。

みんなの最適な卵かけごはんをつくって僕にみせておくれ。ま、見せなくてもいいけど。

こんなことを「味の素」がやってるのが面白い。

いつもは味の素をかけないけど、今度やってみようかなという気になる。

きっと「味の素」の売上をいくらか伸ばすのに役立つのじゃないかな。

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2010/03/22

大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」

現在、沖縄を舞台にしたある原作小説を映画にする作業に取り組んでいる。

もちろん脚本家としてである。

で、ここ数日、脚本化の方向性を考えあぐねていた。

沖縄~素敵な楽園、みたいな映画は沢山あり、そんな映画なら僕はやる気はしない。

なにか、違うもの。

小説を読んだときに、僕が引っ掛かったのは、食べることは殺生である…というような描写だった。

殺生という言葉は小説のスパイスで、中心ではないのだが、僕は妙に引っ掛かっていた。

一方、ツイッターで、橋本治さんの小説「リア家の人々」が評判で、ぜひ読んでみたいと思い、掲載されている新潮の4月号を買っておいた。

ふとその表紙を見ると、大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」とある。

殺生か…まさに、いま気になってること。

と思い、パラパラとページをめくった。

一気に読んでしまった。

そして、泣いた。

批評で泣いたことなど初めてではないか。

おかげで、脚本化の方向性に一条の光がさした。

いろいろ素晴らしいのだが、一番素晴らしい部分は手にとって読んでもらうとして

でもたとえば次のような文章は、美しく的確でそして深い。

きっと誰も命を殺して食べることの恐怖を一人で引き受けられない。自分が自然の一部であることを、今、この瞬間に死につつあることを、殺されていることを、食べられていることを、思い出してしまうから。この恐怖を分け合うところに社会が生まれた。(大澤信亮「批評と殺生―北大路魯山人」より)

この素晴らしい批評はみんなが手に取り読めばいいと思う。

しかし、この素晴らしさを受け取るには、いろいろなことをクリアしなければいけない。

最近思うのはやはり教養は必要だということだ。

教養がなければ、この批評の素晴らしさを受け取ることができないに違いない。

そして僕の周りには、残念なことに、教養のない人間が多すぎる。

僕自身も長らく教養を耕すことをおろそかにしてきた。

いま義務として、僕は、自分の教養を耕すこと、愛する人たちに教養を身に着けさせるよういろいろ教えることを、自分自身に課している。

他人に教えるなんておこがましいと思ってきたが、そのような下らない謙遜で失われているものの方が多いというのにようやく気がついた。

後輩たちには、強制し強要しなければいけない。

教養を身につけるのは時間のかかることなのだから。

やっとけばよかったと思った時には遅い。

個人の問題ならまだいいが、消費者個人のレベルの低下は、必要とされる生産物の知的要求水準を強制的に引き下げることになる。

人類が長い年月をかけて蓄えてきたものが急速に失われ始めている。

そんな焦りが最近僕にはある。

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2010/03/16

批評について

僕はだいぶ長い間自分の活動とは別に「批評とは何か」、「なぜ批評は消滅しつつあるのか(演劇批評はほぼ消滅しつつあるとの印象)」、「批評ではなく感想文がなぜ増えているのか」、「批評と感想文の違いな何か」などということをぼんやりと考えています。で、自分の執筆の煮詰まった時にみつけた素晴らしい文章を全文採録します。「クォンタム・ファミリーズ」も面白かったけど、ますます東さんを尊敬しちゃうなあ。

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批評について
(東浩紀の渦状言論2009/3/25の記事)
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090325/1237964478

ぼくはなにが専門というわけではないけれど、批評とはなにかについてだけは、ここ15年ほどえらく真剣に考えてきたという自負があります。

そんなぼくにとって、批評という行為については、もはやなにを論じているか、その対象やメッセージはどうでもよくなってしまう傾向があります。言いかえれば、ぼくは批評をメタ作品というよりも、ベタにひとつの作品として読んでしまうところがある。したがって、その社会的な影響力や「正確さ」なんてものは、究極的にはどうでもいい。むろん、多くのひとが批評を逆にそういう点でだけ読んでいるのは知っていますし、その受容は尊重しますが。

それは、シネフィルにとっての映画、アニオタにとってのアニメと同じだと考えればいいかもしれません。いかにひどい物語を語っていても、いい映画、いいアニメはありうる。ぼくはそれと同じように批評を読みます。ぼくにとって批評の魅力は、たとえば、文章の構成、問題設定の妙、展開のリズムなどに、またそれに付け加えれば、批評家が「自分が批評を書いていること」に対してどれほど自覚的であるのか、その意識の深さにあるのであり、そういうものがない文章は、ぼくは批評として評価できない。逆に、その基準さえ満たしていれば、対象がなんであろうとぼくには批評的強度に満ちたものに見える。この点ではぼくはいまだに、批評空間+表象文化論派というか、柄谷行人と蓮實重彦の直系です(彼らの弟子たちは厭がると思うけど)。どの場所に強度を見いだすのか、その場所が異なるだけで。

ぼくはよく「批評は売れなければいけない」と言います。そのせいで誤解されてしまうのだけど、批評なんて当然売れるわけがない。そんなことはぼくも知っているし、そもそもぼくはぜんぜん本を売ろうとしていない著者です。しかし、同じ売れないにしても、1万部売れればぎりぎり批評という行為は再生産されるけど、2000部しか売れないと批評というジャンルそのものが消滅してしまう。そんな環境のなかで、ぼくが言いたいのは、もし批評というジャンルを愛しているのであれば、批評というジャンルを生き残らせるために最低限の売れる努力をしていこうよ、これからは文芸誌も大学も助けてくれないのだからさ、というだけのことです。

批評を嫌いなひとは、よく「批評なんて社会にとって必要じゃないんだから、消えたってかまわない」と言います。それはまったくそのとおりで、批評は社会にとって必要なものではありません。しかし、そんなことを言ったら、映画もアニメも、いやあらゆる文化が必要なものではありません(だってつい100年前には映画もアニメもなくても社会は回っていたのですから)。ぼくはその前提のうえで、個人的な愛の問題として、日本の文芸批評の伝統は生き残らせたいと感じる。それだけのことです。

ただそのときぼくが、文学とか芸術とかハイカルチャー系のひとたちとちょっとだけ違うのは、彼らはよく、「○○が消えつつあるのは××のせいで、これは悪いことだからみなで対策を立てるべきだ、具体的には公的な支援が必要だし出版社も良書の出版に務めるべきだ」と言うのだけど、ぼくはもうそういう支援は貰えないので言っても仕方ないと思っているということです。批評を生き残らせたいのだったら、自分たちで地味にがんばるしかない。だから思想地図もゼロアカも行っている。これからも似た企画は続けるでしょう。むろん、それは批評を愛していないひとには関係のない話で、そういうひとにはぼくの仕事すべてが滑稽なものに見えるでしょう。実際、ぼくに向けられている批判には、そういった滑稽さを指摘するものが多い。でも、それも、あらゆる職種、あらゆるジャンルに言えることじゃないかと思います。なにかを愛しているひとの行為は、それを愛していないひとには滑稽に見えるものです。

ぼくは一般には、一方に現代思想系のアカデミシャン、他方に非モテ系のオタクたちを読者にする分裂した書き手だと思われています。しかし、ぼくはじつは、学者もオタクも主要な読者だと考えたことがない。ぼくがぼくの本を読んでもらいたいのは、なによりも批評を愛するひとたちです。そしてぼくが批評を書くことで行いたいのは、批評を愛する読者を増やすことです。

ぼくは最近、自分がアカデミズムや大組織の空気に馴染めない変わり者であることがわかってきたので、もうこれからは文章を書いて孤独に生きていくしかないと覚悟を決めました。のたれ死ぬかもしれませんが、そのようにしか生きられないのだからしかたがない(ルソーに惹かれているのはなによりもそういう人生の点でです)。小説を書きだしたのもそのためです。ほかにもなにかやるかもしれない。ただ、これからどのような人生を送ったとしても、ぼくの批評へのこの愛は変わることがないと思います。

とくになにがあったというわけではないけれど、新年度も近くなったことですし、書きたくなったので書いておきます。

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2010/03/13

再び敗戦の音が聞こえる。

映画や芝居の感想を聞いたり眼にすると、答え合わせをしている気になる。あの人と僕はやっぱり同じ感性だとホッとしたり、やっぱあいつとは意見合わないなと思ったり。何が正しいかわからないけど、人間の傾向はわかる。コリッチやブログなんか見ていると、全然面識のない人で意見のずいぶん合う人がいる。その人が観ろと勧める作品はたいがい僕も面白いと思う。実際会ってその人と人間としての相性がいいとは限らない。だけど、感想を読むぶんにはだいぶ参考になる。あと嘘をつく人。世間の流れ的に「こう言ったほうがオレ馬鹿に観られないで済むんじゃね」と迎合的な意見を書く人がいる。ああ、そういう奴なんだと思う。それはたいていバレる。もっとも僕なんかも弱虫で、他人の意見や作品に対するマイナス評価はなかなか書けない。敵を作るし、めんどくさい。でも今年はなるべく喧嘩しようと思っている。歳をとるとケンカを避ける方法を覚える。でもそこで僕はあえてケンカしたり角が立つようなことを言ってみる。案の定ケンカになったりする。疲れる。もう辞めようと思う。でも頑張ってケンカをする。その先に何かが見えるはずと思うから。ちゃんとケンカをして、ちゃんと仲直りをして、ちゃんと生産的な次を生み出す。生み出さないといけない。そう思っている。でもやっぱり皆が面白いと言っているものに、それつまんないよ、とは言いづらい。とくに熱狂的なファンがいる場合にはかなり攻撃される。先日の阿佐ヶ谷スパイダースの公演は、本当に面白かったからべた褒めしたけど、かつて「悪魔の歌」という阿佐スパの作品をぼろくそ書いたら、ものすごい書き込みと匿名のメールがきた。ぜんぶ「おまえみたいなチンケなシロウト劇作家に言われたくねぇ」みたいな意見だった。映画「踊る大捜査線2」を批判したときもだいぶ反発があった。それから、こんなこともある。僕が見てつまんなくて死にそうになった作品を、すごい気の合う友人がブログでほめていたりする。え?まじかよと焦って電話をする。するとこういう答え。「いや、**さん、敵に回すと面倒だからさ、一応褒めといた。でもよく読むと内容のことほめてないよw衣装とか美術のことしかほめてないよ、よく読んで!」なんてことを言う。まだ日本は空気に支配されている。なんとなぁぁく世間的に**と言っといたほうがよさそうだと思うと軽い人は空気を読んでそう発言する。思慮深い人は黙る。大衆は黙ってる人の意見を聞くことができない。だから軽い人の意見に教育される。全体の流れが悪いほうに行く。たまに反対意見を声高に言う人がいる。でもそういう人はエキセントリックだ、と看做される。みなされると、その人の発言は発言内容によってではなく発言姿勢によって支持されない。はみ出し者になる。結局、空気だけが日本を支配する。政治も芸術も劣悪になるのはそのせいだと思う。もしも戦前の日本が何かを間違えて戦争に突入した、そういう部分が少しでもあるとするならば、それはきっとこの空気が関係している。そしてそれは今も変わらない。空気を読むというのは相変わらず日本人の行動原理なのだ。だが空気を読んでいる限り、日本は再びとんでもない失敗をすることになるだろう。だから。だから思慮深い人は黙ってはいけない。臆病な人も黙ってはいけない。あえて発言し、あえてたたかれ、あえて醜態をさらし、あえて野垂れ死にすべし。僕らが黙れば黙るほど、日本はまたいつか来た道をたどる。耳を澄ませば聞こえないだろうか。カチカチと旧式の時限爆弾の刻む敗戦の針の音が。日本の政治的文化的民族的な敗戦はふたたび始まっている。

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2010/03/07

クリント・イーストウッド監督「インビクタス/負けざる者たち」

自分が日本銀行を辞めて、映画や演劇の世界に身を投げたのは、福沢諭吉の「ペンは剣より強し」ではないが、日本や世界をよりよいものとするためには、より正しきエンターテイメントを作ることが重要だ、と思ったというのがある。映画や演劇が好きだというのが前提にあるが、好きということだけで言うと経済学もずいぶん好きだった。

もちろん映画や演劇には「おもしろかったね、で?」みたいな作品も多いわけだが(それ自体が悪いわけではない)、広く世界を見回してみると、やはり何かしらの危機感というか、時代に対する責任を感じて作られた映画が少なくない。また、そういう映画が面白かったりするから、人間は捨てたもんじゃないと思う。

そういう意味で言うと、クリント・イーストウッド監督は神だ。僕は彼の作品を悪く言う人を信じない。

現在、僕は23歳になる劇団員斉藤新平と二人暮らしをしているわけだが、ある日、彼が映画「インビクタス」をみてきて、あれをありきたりで全然面白くなかったと言った時には、殺意を覚えた。というかこの男とは同じ空気を吸いたくないと思い、家から追い出すことを決意した。が、いきなり追い出してはかわいそうなので、一回だけチャンスを与えることにした。もう一度、ちゃんとみてこい。もちろん、もう一度見た後の感想が否定的だったときに家を追い出すとは彼には伝えていない。伝えれば、彼は住む場所を奪われたくないがゆえに、面白かったと虚言を弄する可能性がある。

とは言うものの「ありきたりで面白くない」という斉藤新平の言葉は言葉で彼なりの誠実であろうから、漫然ともう一回見ただけでは同じ結果になる可能性が高い。

で考えた。あの「インビクタス」をありきたりで面白くないと答えた斉藤新平と、あれを見て激しく感動した僕の差は何か。それはおそらくあの映画が事実であることに関する前提知識の差ではないだろうかと思った。斉藤新平はアパルトヘイトの何物かを全く知らないし、ネルソン・マンデラが何者であるかもしらなかった。

映画や演劇は前提知識を必要とせずその作品単体で全てを語りつくしているべきだという意見もありそうだが、実はそのような考えは幻想で、程度に差こそあれ、全ての作品はなにかを前提にしている。たとえば「***は赤かった」と文章にあるときに、「赤とはトマトの実が成熟したときに見せるあの情熱の色である」というような解説は付かない。赤は赤なのだ。これは最低の事例であるが、結局、言葉・文章というものはどうあがいても共有知識を前提にして書かれているし、前提にせざるを得ない。(このことについて三島由紀夫が的確な表現をどこかでしており引用しようとしたが発見できなかった)

「インビクタス」という映画には、南アフリカ共和国をめぐる世界史的なある程度の知識が必要なのだ。映画はネルソン・マンデラが大統領として就任した直後から始まる。それ以前の世界は書かれていないし説明もされていない。どのような対立を経て彼がそこにいるのかは書かれていない(マンデラが牢獄にいたこと、いたときの回想的シーンもちらりとあるにはあるけど)。クリント・イーストウッドは描かない部分においては、そんなの知ってて当たり前、世界的な常識でっせと言っているわけである。なので、僕は、その知識を斉藤新平にレクチャーした。そのうえで、あの映画をもう一度見なさいと伝えた。

こんな粘着質的な行動を僕がとるには理由がある。

斉藤新平は差別されてきた人間なのだ。いじめと言ってもいいが、同級生だけではなく教師たちからもお前は違うと理由なき(あったとしても肌色が違う程度の理由で)差別を受けてきた人間なのだ。その人間ならば、あの映画を見て、僕などよりも強く思うことがあるはずなのだ。それを「ありきたりで面白くない」と言うようでは、監督者兼教育者としての僕の沽券に関わるわけである。最近は監督者兼教育者としての立場が面倒で教育を放棄していた。しかし、大学にもいかず、バイトの毎日で、アパルトヘイトの何事かも知らない若者に何かを教えられるとしたら、それは劇団の主宰の僕しかいないはずで、それを彼に教えるのは僕の責任だろうと思ったわけである。

二度目の観劇を経て、斉藤新平が「まったく違う映画に見えました」と言ったのはほかでもない。

差別すること、差別をされた人間がどのような怨念を抱くかということ、怨念を抱いた人間が何をするかということ、そのようなことを程度の差はあれ実地に見て経験し思った事のある人間は、あの映画を見て驚き泣きそして未来に希望をもつに違いない。映画や演劇が世界を動かしうることを信じられる映画である。策を弄さずストレートにあれを描けるクリント・イーストウッドはやはりすごい。

インビクタス/負けざる者たち@ぴあ映画生活

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2010/03/06

松井周演出「ハコブネ」

2009年「家族の肖像」、2010年「あの人の世界」と2年連続岸田戯曲賞にノミネートされている松井周さん。

現在、「ハコブネ」という芝居を、池袋あうるすぽっとで上演中である。

で、これを見に行った。(以下ネタばれ注意)

松井周さんの作品を常々観たいと思っていながら見ていなかった。

今年はいろいろ謙虚に学ぼうと思っているので出かけて行った。

僕は強力に野田秀樹さんの影響を受けているので、その後の静かな演劇とやらを敬遠しているところがあって、敬遠と言うよりも嫌煙しているところがあって、いまや青年団にあらずんんば演劇人にあらずてきな、あの勢力を長らく見ないで来てしまった。平田オリザさんの「演劇入門」を読んでケッと思ったことも大きい。

しかし、五反田団やハイバイ、砂地の作品を見てもそう思うが、やはり平田オリザは人を育てている。

野田秀樹が偉いしすごいのはすごいのだろうが、後進を育てるという意味ではやはり平田オリザに軍配があがるのではないだろうか。

僕はこれを、空海と最澄になぞらえてみたい。

弘法大師空海は確実に最澄を上回る天才であったが、逆にその天才ゆえに後進が育たなかった。一方、伝教大師最澄はシステムを作り己を神格化しなかったから、法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮と多様な才能を生み出し鎌倉仏教隆盛の礎を作った。

とまあ、そんなことはどうでもよく、今日は、松井周さんの作演出、北九州芸術劇場プロデュース「ハコブネ」である。

一言で言って、非常に面白く興味深いものであった。

松井周さんのブログに行くと、影響を受けた作家の一番に「楳図かずお」さんの名前があり、ああ、やっぱりというような感慨もある。伏線の回収にこだわらず、また筋立てが良い意味で野蛮だ。

ご本人が映画芸術のインタビューで確率論について言っていたが、この「ハコブネ」という作品においても、物語前半の確率的に高い筋立てで進む部分は、丁寧で、ああ、静かな演劇眠くなるぜという感じであったが、途中から、システムの暴走が始まり、確率論的に低いことが起こり続ける。ここは大変エキサイティングで、つまり、平均化されたものは確率論に回収されるが、一回性の人生は結局確率的にはありえないようなことの連続であり、それこそ「事実は小説よりも奇なり」なのである。その事実がそこにあった。

なによりもその確率論や事実をうそくさくしていないものは、人間を見据える力、裸の王様を告発できる力ではないだろうか。僕はありきたりになりそうな芝居を見るといつも、ひやひやする。どう裏切るのだろう。結局裏切らないのか?と。

で、今回の芝居、前半で長く、工場労働者と厳しく理不尽な工場の監督の関係が描かれ、途中、工場労働者の反乱が起こる。ここで、ええ、ああ?まさかプロレタリア文学か?というような気分になるが、いやいや、そこで終わらぬだろう・・・と見続けると、痛快な出来事に出会った。どうとは書かない。見に行っていただきたい。そして僕はこの人間の描き方だけで、松井周さんが信頼できる。ありきたりなプロレタリア文学を望む世間に対して、いやいや、どちらかが明確な悪なんてそんな簡単な世界ではないでしょう、俺たちのいる世界は。と、ちゃんと正論を言っている。(この作品が「蟹工船」を参照していることはコリッチに書きこむ昨日知った)

ちなみにまた脱線になるが、若き日の太宰治がプロレタリア文学を目指しながら大成しなかった理由として、編集者たちから売れ筋の定番として求められた筋立て「かわいそうな労働者VS理不尽で傲慢なブルジョアジー」という図式を明確に描けなかったことがあると思う。彼はブルジョアジーの出身だから実地に、その「かわいそうな労働者VS理不尽な権力者」という皆が好きな構造が嘘だということを太宰は見ているから、たとえ売れるためといえども嘘を書けなかった。結果として、彼の書く作品は、プロレタリア文学の顔をした怪奇文学となり、評価されない。正直者の不幸が彼を傷つけた。

同じように僕ら表現者は売れるために嘘をつきたくなるが、そんなことあるわけないだろうとちゃんと言う、それは表現者としてはあたりまえと思うだろうが、現実にはなかなか難しいと感じる。それを松井さんはやっていた。売れることと、ちゃんと言うことを両立させるのは偉いことだ。

最近、僕の古い友人の芝居を見に行った。コリッチではかなり評判が高いから期待と若干の焦りをもって見に行った。結果として、僕は、コリッチでほめられているその芝居のサスペンスとしての緻密さなどよりも、女性の描き方の一辺倒な調子にがっくりきた。一人の女性を除いて、他に登場する6人ばかりの女性が皆、男の浮気に泣かされているのだ。舞台上で本当に泣きわめかせるのだ。そして嫉妬に狂った女が自分の男と浮気をした親友の女を殺してしまうのである。この女性像の古臭さはなんだろう。あれを評価している皆はそんなことどうでもいいのだろうか。僕はあれだけで物語を見る気を失う。サスペンスの緻密さ以上に、人間をちゃんと描くことをしなければいけないのではないか。(彼には同じ場所にいる友人として頑張ってもらいたいと思っているが)

また話が脱線した。

というわけで、松井周氏作演出「ハコブネ」は確率論として低い事実を描きながら、しかし浮つかない本当の人間と社会構造が痛快な形で描かれている素敵な芝居であった。

これが結論。

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