梶井基次郎「檸檬」…日本文学シネマ第3夜
日本文学シネマ第3夜は、梶井基次郎「檸檬」を、映画「純喫茶磯辺」などの監督吉田恵輔さんがドラマ化したものだった。(本、記事にはネタばれあります。まだ見ていない人は要注意)
僕は梶井基次郎の他の作品も読んだこともないし、彼がどういう人であるかの認識もない。
また、この「檸檬」の背景も知らない。
だが、僕のような「知らない人」が視聴者のほとんどであるから、そういう目線でドラマが面白いかどうかが重要だとも思う。
結果として、驚いた。そして面白かった。
なにが驚いたかと言うと、「え、檸檬ってそんな話だっけ?」ということだ。
僕の読んだおぼろげな記憶から言うと「檸檬」はエッセイに近く、物語などほとんどないと思っていたからだ。
しかし20年以上前に読んだのだから、本当は物語があったのかもしれない。
ということで原作をもう一度読んでみた。
梶井基次郎「檸檬」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html
やはり、エッセイのようなものである。
これをああ映像化するかという驚き、感心。
原作冒頭にはこうある。
「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」
本ドラマにおけるその映像化表現がうまい。
言葉から映像へ…日本文学シネマの第二夜、芥川龍之介「魔術」のときも思ったが、映像化の意味がある。
小説では「えたいの知れない不吉な魂が私の心を押さえつけた」と書いてしまえばいいが、映像でこれをどう表現するのかは、やはりアイディアだ。
作家、吉田恵輔監督、そして脚本家のいながききよたか氏は、その表現を、この「檸檬」が書かれた大正の時代の雰囲気に求めた。
大正14年、それは「檸檬」が同人に発表された年であり、また治安維持法が公布された年でもある。治安維持法・・・ロシア革命以降世界的に高まっていた共産主義活動を弾圧するための法律…特高警察がこれを利用した。
こうして「えたいの知れない不吉な魂」は映像化される。
夜に降りしきる雨。
特高に殴られて雨の中を引きずられていく男。
流される血血血・・・
挙動不審で、金がなく、親切のように見えて、利己的で、気持ちの悪い、共産主義活動、爆弾を作っている男…劇団THE SHAMPOO HATの主宰、赤堀雅秋さん演じるこの破壊活動をする男の気持ち悪さ。気持ち悪い人を演じさせたらこの人の右に出る人はいないんじゃないか。
彼を捕える怖い特高刑事、奇妙に顔と体のバランスがおかしい…僕の目が間違っていなければあれは西海健一郎監督が演じている(笑)
隣の部屋で喘ぐブスな女
そして、結核による吐血吐血吐血吐血・・・葡萄酒のビンになみなみと詰められた。
それはあの特高に殴られ流されたあいつらの血だ。
同じ血が主人公の中にも流れている。
嫌がおうにもさせられるそのことの確認。
「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」
そんな主人公が眼にする檸檬。
「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」、
そして「あの丈のつまったような紡錘形の格好」
「結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった」
そして、それは、一つの残酷で爽快な夢につながれる・・・。
非常に素晴らしい映像化であった。
その素晴らしさを再放送などでぜひ見てほしい。
主人公を演じる佐藤隆太の演技も素晴らしい。
いつもの軽い印象を捨てて、影を背負えるのは非常にすごいことだと思う。
日本文学シネマは残すところあと3話
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