阿佐ヶ谷スパイダース「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」
英国留学から帰ってきた長塚圭史氏の日本演劇界復帰第一作。
いまや日本では唯一の演劇評価サイトとなったCoRich舞台芸術では、この長塚氏の新作、評判があまりよろしくない。しかし評価が割れるからこそこの目で確かめねばと出かけて行った。
ちなみに、使っている人はみな思うだろうが、CoRichは評価サイトとしては機能していない。「どうしてこんな芝居に」という芝居に好評価のコメントが多数寄せられたり、「これ素晴らしいのに」という挑戦的な芝居にマイナス評価がたくさん載ったりということが起きている。(ただし網羅性は高いので、そういう意味ではあてになる)
だから結局自分で見に行って確かめるしかないわけである。
観た結果、僕の感想は、本作品「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は、これまで見た長塚圭史さんの作品の中で、群を抜いてすぐれた作品なのではないかと思った。
と言っても感動したり泣いたり笑ったり驚いたり…というようなプリミティブな作品ではない。
うなる、うすら寒くなる、うつになる、というような作品である。
ストーリーは、結構、巧妙に作られていている。おそらくストーリーを時間軸順で丁寧に追っていけば、それはそれで、かなりの傑作になっただろう。しかも、わかりやすくて観客にも大いに受け入れられたに違いない。
しかし、長塚氏はその道を取らなかった。
ストーリーは2の次に扱われている。
本作によってストーリーよりも優先されているのは、「方法」であり、その「方法」によってしか達成することのできない衝撃を観客に与えること、「観客の中の根源的な感情…恐怖だったり不安だったり…を直接的に揺さぶる・・・体感させること」である。
具体的には、場所や時間のフラグをあえて立てない展開と演出である。
主人公があいまいな記憶をたどるように、観客は、自分の信じている演劇の枠が解け始めるのを感じる。ここは***のシーンだと信じてみていると、そのシーンとは全く関係ない人と、そのシーンの中の人が会話を始める。観客が何かを信じようとすると、その枠組みはすぐに壊される。それは答えにたどり着きそうでつけない主人公と同じ道を旅することになる。
そのような演出を達成するために、極力、物、光、音は排される。
観客に不親切に見えるこの「方法」こそが本当に観客を「体感」につれていく親切な「方法」なのである。あそこで、いちいち、ここは何々です、ここは何々です、というようなフラグを立てた芝居にしていたら、人々は何も体感せずに、おいしい物語だけを横取りして悦に入った醜い豚になっていただろう。
が、豚は豚で、せっかく長塚氏が親切でやっているにもかかわらず、ぶーぶー言う。
豚だから仕方がないが、演劇をストーリーを物語る「手段」としか考えない人は、本作「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」を、わけわからないもの、おもしろくないもの、意味ないもの、残念なもの、期待はずれとしてとらえ、ぶーぶー言う。
しかし、豚は気付いたほうがいい(気付かなくてもいい)。
もしも、本作に対して、「もっとわかりやすいものを」とか、「つまらない」とか、そういう評価を下すものがいるならば、それはいみじくも、評者自身が、物語に飼いならされた豚であることを表明している。
そのような豚の悲鳴に僕ら創作家は耳を貸す必要はない。
とかいいつつ、そのような物語に飼いならされた豚が実に多数にのぼり、金銭的には彼らに媚びなければ製作が不可能となると、事態はややこしい。豚の民主主義に付き合わなければならなくなる。そして実際、日本はそういう状況にあり、そういう状況において苦しむ創作家の姿をこの作品「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は描いている。
阿佐ヶ谷スパイダース「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は、東京ではあと2日、明日、明後日と下北沢の本多劇場でやっている。その後、順次、大阪など地方都市でもやるようである。
もしも、ネット上の評価に行こうか行くまいか迷っている人がいて、以下の作品にピンときたら、ぜひ見に行ってほしい。あなたの欲しいものが必ずそこにあるだろう。
デビッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」
東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」
理解できないことを楽しむ度量があれば、もっと大きな喜びや楽しみや感動が得られる。
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