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2010/02/18

なぜドラマ「黄金風景」がダメだったか

さて昨晩の日本文学シネマ、梶井基次郎「檸檬」も大変面白かった。

が、本日のブログ記事はこの「檸檬」のことではなく、昨日の記事のコメントに対するお答えを書こうと思う。

コメント欄に返信を書いていたら、長くなり、そして図らずも、あるべき原作のドラマ化に対する考察をすることになったので、せっかくなら披露しようと本文に移すことにした。

詳細は昨日記事とコメントを見てもらうことにして、それを前提に以下は書いています。

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匿名様、丁寧なご指摘、コメントありがとうございます。ちょっと先走ってしまったようですね。プーシキン詩抄ですか。初版は上田さんと言う人が訳しているのですね。ドラマの違和感ばかり先に立ち早合点してしまいました。それからあれ斜陽館なんですね。はじめてみました。素敵ですね。お教えいただきありがとうございました。

しかしながら、その僕のおっちょこちょいにも関わらず、あのドラマが納得いきかねる作品であるのは変わりません。

逆に、プーシキン詩抄や斜陽館というギミックに監督が凝られているというご指摘から、あの作品の独善性(視聴者不在)が納得できてしまいました。

プーシキン詩抄の訳者が上田なんちゃらであることや、撮影場所が斜陽館であるのはドラマの中心からはどうでもいいことで、もちろんそのこだわりが映画屋的に素敵で重要なのはわかりますが、結局は、そのこだわりは服の裏地にたいするこだわりにすぎません。しかしながら、服の裏地のこだわりが素敵であるのは、服自体の着心地が良い場合です。服そのものの着心地が悪くてはどうしようもありません。これを「演出上の違和感はさまざまあって然るべき」ということで済ませては批評は成立しませんし、「いろいろあっていいんじゃない?」では物作りは反省もない焼畑農業になり堕落することになります。

今回のドラマ「黄金風景」の作劇の中心にあるべきなのは、原作の最後の「負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」にドラマを収れんさせることです。

そのためには、前半の主人公の津島修治がお慶に勝利している少年時代の描写が納得的でなければいけません。しかし、ドラマでは「形だけの主従関係」を書くにすぎません。あんなガキにぶつくさ言われれば、たとえ女中といえども、少年をたしなめるというのが自然です。もちろん、時代が「そういう時代でない」と言うのは勝手ですが、「そういう時代」を知らない人のほうが多いのだから、そこをちゃんと描かないといけない。

さらに優香は知られすぎている女優です。とくにバラエティなどに出ることが多い。彼女が、ああいうクソ生意気な少年の言葉に反論しない人間であるようには見えない。なのにそういう人間としてキャスティングしている。まずそこで、視聴者には「これは優香ではなく女中お慶として観ろ、まぁどうやっても優香に見えるけどな」という忍耐を強いることになる。これは視聴者に対してドラマを感情移入ではなく理論的な構築物として表層的に観ろと制作者が言っているに近い。優香が魅力的な女性であるのは言を待たないが、しかし原作にある「私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ」←ここが納得できなければ始まらない。優香ではそれが納得しづらい。演技力の問題ではなくて、彼女は素が世間に露出しすぎだから。

しかし、お慶役が優香でなかったにせよ、あの少年と女中の関係を納得的に見せるのはやはり難しい。とは言うものの「そういう時代だったから」と済ますのでは意味がない。「そういう時代」に対する知識や理解がない人にも納得的にやらなければ、現代にあれを見せる意味はない。「その時代」に知識のない現代人が身につまされる話にこれをしなければならない(次の日の熊切作品、その次の日の吉田作品はそれができている)。

方法はいくつかあろう。

たとえば、少年は大人の模倣をするものである。これは「その時代」に限ったことではない。とすると、大人たちが、たとえば女中仲間やあるいは少年の兄や父親が登場し、愚鈍な女中お慶にひどい仕打ちをしたとしよう。これはかなり納得的である。で、それをじいっとみている少年がいる。少年は心優しい。初めは少年はお慶にやさしいかもしれない。大人たちの無体な振る舞いに同調しない。お慶にとっても少年だけが心の安らぎである。心の交流がある。が、ある日、少年はお慶にイラっとして、いままで見ていた大人たちと同じような振る舞いをお慶にしてしまう。そして一旦、そういうことをしてしまうと止まらない。エスカレートする。最後にはお慶を蹴り飛ばす。そこでお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の言葉。少年の心に刺さる。もともと少年とお慶には心の交流があっただけに刺さる。…少年にとってそれは一つのトラウマになる。

その少年の顔がオーバーラップして青年の太宰になる。あるいは、夢で、うなされた太宰は汗だくで跳ね起きる(ありがち)。あるいは、その少年時代は太宰が書いてい原稿である・・・。などして、青年作家が、あの少年時代のトラウマを引きずっていることをみせる。

もうひとつ指摘できるドラマの問題点として「太宰」がかなり前提になっていることだ。「太宰」が「太宰」であるためには「太宰」でなくても「太宰」でなければならない。斜陽館で撮影すれば太宰だなんていうことはないのである。

少年の顔に青年の顔がオーバーラップなんてよくあるけど、よくある手法にはよく利用されるだけの意味がある。それは視聴者の心に無理を強いることなく、「成長した」ということを理解させる方法だということだ。

最初に青年作家を出してもいい。でそこから回想で少年時代。そして戻ってくる。視聴者はムリなく、ああ、あの少年が成長したんだなとわかる。などなど、方法は沢山編み出されている。

よくある手法、手あかのついた手法を使いたくないという映像作家の気分もわかる。だが、その気分は、視聴者の負担なしに達成されなければならない。

で、何らかの手法で、少年のトラウマが青年作家にうまくバトンタッチされたとしよう。しかし、あの豪邸のお坊ちゃんが、なんでこんな貧乏作家になったのか・・・これ納得しづらい。「太宰がそうだから」。それで済ませるのは「時代がそうだから」と同じ論法で、不遜であるし、創作の放棄である。

あの豪邸のムカつくガキが、同じ豪邸の、クソ生意気な青年になっていたら、そこには説明はいらない。人は納得する。

が、今回は違う。貧乏な青年作家である。あの裕福なクソガキが貧乏作家になったことに納得性がなければ、そのあとの感動もないし、事実そうなんだもんに依拠して木に竹を接ぎ木しているだけのことになる。家が没落して貧乏になったのか、あるいは別の理由があるのか・・・

事実なんてどうでもいい。太宰なんてどうでもいい。ドラマ単体としての論理性がなくては駄目だ。

つまり、「なるほど」である。

クソムカつくガキがなんで作家に!?こうこうこうだから。「ああ、なるほど!」が必要なのである。そしてその「なるほど」には、確実に、お慶を蹴っ飛ばしたことが関係しなくてはならないし実際関係している。

つまり、「お慶を蹴っ飛ばす」は「自我の肥大化」の表現だからである。

「お慶を蹴っ飛ばす」ようなガキは、自分を内実以上に偉いと勘違いした馬鹿者なのである。自分は天才で小説を書けば売れると勘違いした馬鹿ものなのである。だが、世間は甘くない。どんどん貧乏になる。コンビニで働いている人を馬鹿にしているが、コンビニで働いたほうが実入りがあって誠実なのである。そういう話だ。

だが、自分がダメであることを認められない青年作家は、友人たちから金を無心するばかりである。自我が肥大していることを心のどこかで認めながら認められない。ずるずると生きる。

詩的に表現したが、これを、ドラマに落とす場合は何かエピソードを加えてもいい。ドラマでは無心しているシーンや盗みをしようというシーンがあるが、それはトラウマとは完全に切り離されていて、「だって太宰はそうだもん」でしかない。ドラマにするならば、あれはトラウマとリンクしていなければならない(視聴者はそう思ってついてきているのだから)。

たとえば、無心するところで、「大丈夫だ俺は天才だから必ず返す」みたいな風に描いておいて、フラッシュバックで、あのお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の時の眼がはいるとか、あるいはその無心しているところをじいっと見ている近所の少女の眼に気付いた青年、ふとその少女の目があの日のお慶の眼に見える…。その眼はもはや青年作家の中に住んでいる冷やかな他人で、「あなた自我が肥大しているだけじゃないの?」という眼である。その眼をふりきるために、酒や薬にはまる・・・。と、ある日、巡査がやってくる。

実際作られたドラマとも大きな違いはない。が、作られたドラマにはドラマを描くよりも原作の描写とか太宰はこうだったとかギミックにとらわれている。だがあたりまえだが大事なのは斜陽館やプーシキンではなく、ドラマに内在している論理…原作の精神をはっきり意識しそのウネリを表現することなのだ。それがなくては、この2010年にあれを映像化する意味がない。

太宰がどうだかは関係なく、あのドラマをドラマ単体の論理性で追求することで、太宰をよりよく表現することができるし、現代の視聴者に耐えうるドラマになる。そう考えたときに、あのドラマ「黄金風景」は作り手としてすごく参考になる…反面教師として…作品であったということができるだろう。

以上、匿名氏の指摘にこたえる形で自分のおっちょこちょいを謝するところから、しかしながら、自分の感じたあのドラマに関する違和感は違和感としてあるので、そこについてあらためて言葉にしてみたら以上のようなことになった。匿名氏とアベユーイチ監督のおかげで、ドラマ作りについて深く考える契機になった。感謝しなければならない。

太宰治についても、プーシキンについてもまだまだ勉強することがたくさんある。とりあえずプーシキンの詩集を買ってしまった。

あ、なんどもいいますが向井理太宰はかなり素敵でしたよ。

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コメント

興味深く読ませていただきました。

一点、少年時代の描写が納得的ではないとあるのですが、ドラマは、お慶をいじめていたのは恋心によるものと描写してますよね。
それがダメなのでしょうか?
もっとも、前半を「恋」にしてしまうことで「負けた」が活きないというか、原作と違ってしまう感じはしますが・・・。でも、個人的にはそこそこ納得がいく内容でした。

投稿: ゆき | 2010/02/27 05:52

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