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2010/02/21

梶井基次郎「檸檬」…日本文学シネマ第3夜

日本文学シネマ第3夜は、梶井基次郎「檸檬」を、映画「純喫茶磯辺」などの監督吉田恵輔さんがドラマ化したものだった。(本、記事にはネタばれあります。まだ見ていない人は要注意)

僕は梶井基次郎の他の作品も読んだこともないし、彼がどういう人であるかの認識もない。

また、この「檸檬」の背景も知らない。

だが、僕のような「知らない人」が視聴者のほとんどであるから、そういう目線でドラマが面白いかどうかが重要だとも思う。

結果として、驚いた。そして面白かった。

なにが驚いたかと言うと、「え、檸檬ってそんな話だっけ?」ということだ。

僕の読んだおぼろげな記憶から言うと「檸檬」はエッセイに近く、物語などほとんどないと思っていたからだ。

しかし20年以上前に読んだのだから、本当は物語があったのかもしれない。

ということで原作をもう一度読んでみた。

梶井基次郎「檸檬」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

やはり、エッセイのようなものである。

これをああ映像化するかという驚き、感心。

原作冒頭にはこうある。

「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」

本ドラマにおけるその映像化表現がうまい。

言葉から映像へ…日本文学シネマの第二夜、芥川龍之介「魔術」のときも思ったが、映像化の意味がある。

小説では「えたいの知れない不吉な魂が私の心を押さえつけた」と書いてしまえばいいが、映像でこれをどう表現するのかは、やはりアイディアだ。

作家、吉田恵輔監督、そして脚本家のいながききよたか氏は、その表現を、この「檸檬」が書かれた大正の時代の雰囲気に求めた。

大正14年、それは「檸檬」が同人に発表された年であり、また治安維持法が公布された年でもある。治安維持法・・・ロシア革命以降世界的に高まっていた共産主義活動を弾圧するための法律…特高警察がこれを利用した。

こうして「えたいの知れない不吉な魂」は映像化される。

夜に降りしきる雨。

特高に殴られて雨の中を引きずられていく男。

流される血血血・・・

挙動不審で、金がなく、親切のように見えて、利己的で、気持ちの悪い、共産主義活動、爆弾を作っている男…劇団THE SHAMPOO HATの主宰、赤堀雅秋さん演じるこの破壊活動をする男の気持ち悪さ。気持ち悪い人を演じさせたらこの人の右に出る人はいないんじゃないか。

彼を捕える怖い特高刑事、奇妙に顔と体のバランスがおかしい…僕の目が間違っていなければあれは西海健一郎監督が演じている(笑)

隣の部屋で喘ぐブスな女

そして、結核による吐血吐血吐血吐血・・・葡萄酒のビンになみなみと詰められた。

それはあの特高に殴られ流されたあいつらの血だ。

同じ血が主人公の中にも流れている。

嫌がおうにもさせられるそのことの確認。

「えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終押さえつけていた」

そんな主人公が眼にする檸檬。

「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」、

そして「あの丈のつまったような紡錘形の格好」

「結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった」

そして、それは、一つの残酷で爽快な夢につながれる・・・。

非常に素晴らしい映像化であった。

その素晴らしさを再放送などでぜひ見てほしい。

主人公を演じる佐藤隆太の演技も素晴らしい。

いつもの軽い印象を捨てて、影を背負えるのは非常にすごいことだと思う。

日本文学シネマは残すところあと3話

詳細は↓

http://ameblo.jp/alotf/entry-10459313708.html

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2010/02/18

なぜドラマ「黄金風景」がダメだったか

さて昨晩の日本文学シネマ、梶井基次郎「檸檬」も大変面白かった。

が、本日のブログ記事はこの「檸檬」のことではなく、昨日の記事のコメントに対するお答えを書こうと思う。

コメント欄に返信を書いていたら、長くなり、そして図らずも、あるべき原作のドラマ化に対する考察をすることになったので、せっかくなら披露しようと本文に移すことにした。

詳細は昨日記事とコメントを見てもらうことにして、それを前提に以下は書いています。

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匿名様、丁寧なご指摘、コメントありがとうございます。ちょっと先走ってしまったようですね。プーシキン詩抄ですか。初版は上田さんと言う人が訳しているのですね。ドラマの違和感ばかり先に立ち早合点してしまいました。それからあれ斜陽館なんですね。はじめてみました。素敵ですね。お教えいただきありがとうございました。

しかしながら、その僕のおっちょこちょいにも関わらず、あのドラマが納得いきかねる作品であるのは変わりません。

逆に、プーシキン詩抄や斜陽館というギミックに監督が凝られているというご指摘から、あの作品の独善性(視聴者不在)が納得できてしまいました。

プーシキン詩抄の訳者が上田なんちゃらであることや、撮影場所が斜陽館であるのはドラマの中心からはどうでもいいことで、もちろんそのこだわりが映画屋的に素敵で重要なのはわかりますが、結局は、そのこだわりは服の裏地にたいするこだわりにすぎません。しかしながら、服の裏地のこだわりが素敵であるのは、服自体の着心地が良い場合です。服そのものの着心地が悪くてはどうしようもありません。これを「演出上の違和感はさまざまあって然るべき」ということで済ませては批評は成立しませんし、「いろいろあっていいんじゃない?」では物作りは反省もない焼畑農業になり堕落することになります。

今回のドラマ「黄金風景」の作劇の中心にあるべきなのは、原作の最後の「負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」にドラマを収れんさせることです。

そのためには、前半の主人公の津島修治がお慶に勝利している少年時代の描写が納得的でなければいけません。しかし、ドラマでは「形だけの主従関係」を書くにすぎません。あんなガキにぶつくさ言われれば、たとえ女中といえども、少年をたしなめるというのが自然です。もちろん、時代が「そういう時代でない」と言うのは勝手ですが、「そういう時代」を知らない人のほうが多いのだから、そこをちゃんと描かないといけない。

さらに優香は知られすぎている女優です。とくにバラエティなどに出ることが多い。彼女が、ああいうクソ生意気な少年の言葉に反論しない人間であるようには見えない。なのにそういう人間としてキャスティングしている。まずそこで、視聴者には「これは優香ではなく女中お慶として観ろ、まぁどうやっても優香に見えるけどな」という忍耐を強いることになる。これは視聴者に対してドラマを感情移入ではなく理論的な構築物として表層的に観ろと制作者が言っているに近い。優香が魅力的な女性であるのは言を待たないが、しかし原作にある「私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ」←ここが納得できなければ始まらない。優香ではそれが納得しづらい。演技力の問題ではなくて、彼女は素が世間に露出しすぎだから。

しかし、お慶役が優香でなかったにせよ、あの少年と女中の関係を納得的に見せるのはやはり難しい。とは言うものの「そういう時代だったから」と済ますのでは意味がない。「そういう時代」に対する知識や理解がない人にも納得的にやらなければ、現代にあれを見せる意味はない。「その時代」に知識のない現代人が身につまされる話にこれをしなければならない(次の日の熊切作品、その次の日の吉田作品はそれができている)。

方法はいくつかあろう。

たとえば、少年は大人の模倣をするものである。これは「その時代」に限ったことではない。とすると、大人たちが、たとえば女中仲間やあるいは少年の兄や父親が登場し、愚鈍な女中お慶にひどい仕打ちをしたとしよう。これはかなり納得的である。で、それをじいっとみている少年がいる。少年は心優しい。初めは少年はお慶にやさしいかもしれない。大人たちの無体な振る舞いに同調しない。お慶にとっても少年だけが心の安らぎである。心の交流がある。が、ある日、少年はお慶にイラっとして、いままで見ていた大人たちと同じような振る舞いをお慶にしてしまう。そして一旦、そういうことをしてしまうと止まらない。エスカレートする。最後にはお慶を蹴り飛ばす。そこでお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の言葉。少年の心に刺さる。もともと少年とお慶には心の交流があっただけに刺さる。…少年にとってそれは一つのトラウマになる。

その少年の顔がオーバーラップして青年の太宰になる。あるいは、夢で、うなされた太宰は汗だくで跳ね起きる(ありがち)。あるいは、その少年時代は太宰が書いてい原稿である・・・。などして、青年作家が、あの少年時代のトラウマを引きずっていることをみせる。

もうひとつ指摘できるドラマの問題点として「太宰」がかなり前提になっていることだ。「太宰」が「太宰」であるためには「太宰」でなくても「太宰」でなければならない。斜陽館で撮影すれば太宰だなんていうことはないのである。

少年の顔に青年の顔がオーバーラップなんてよくあるけど、よくある手法にはよく利用されるだけの意味がある。それは視聴者の心に無理を強いることなく、「成長した」ということを理解させる方法だということだ。

最初に青年作家を出してもいい。でそこから回想で少年時代。そして戻ってくる。視聴者はムリなく、ああ、あの少年が成長したんだなとわかる。などなど、方法は沢山編み出されている。

よくある手法、手あかのついた手法を使いたくないという映像作家の気分もわかる。だが、その気分は、視聴者の負担なしに達成されなければならない。

で、何らかの手法で、少年のトラウマが青年作家にうまくバトンタッチされたとしよう。しかし、あの豪邸のお坊ちゃんが、なんでこんな貧乏作家になったのか・・・これ納得しづらい。「太宰がそうだから」。それで済ませるのは「時代がそうだから」と同じ論法で、不遜であるし、創作の放棄である。

あの豪邸のムカつくガキが、同じ豪邸の、クソ生意気な青年になっていたら、そこには説明はいらない。人は納得する。

が、今回は違う。貧乏な青年作家である。あの裕福なクソガキが貧乏作家になったことに納得性がなければ、そのあとの感動もないし、事実そうなんだもんに依拠して木に竹を接ぎ木しているだけのことになる。家が没落して貧乏になったのか、あるいは別の理由があるのか・・・

事実なんてどうでもいい。太宰なんてどうでもいい。ドラマ単体としての論理性がなくては駄目だ。

つまり、「なるほど」である。

クソムカつくガキがなんで作家に!?こうこうこうだから。「ああ、なるほど!」が必要なのである。そしてその「なるほど」には、確実に、お慶を蹴っ飛ばしたことが関係しなくてはならないし実際関係している。

つまり、「お慶を蹴っ飛ばす」は「自我の肥大化」の表現だからである。

「お慶を蹴っ飛ばす」ようなガキは、自分を内実以上に偉いと勘違いした馬鹿者なのである。自分は天才で小説を書けば売れると勘違いした馬鹿ものなのである。だが、世間は甘くない。どんどん貧乏になる。コンビニで働いている人を馬鹿にしているが、コンビニで働いたほうが実入りがあって誠実なのである。そういう話だ。

だが、自分がダメであることを認められない青年作家は、友人たちから金を無心するばかりである。自我が肥大していることを心のどこかで認めながら認められない。ずるずると生きる。

詩的に表現したが、これを、ドラマに落とす場合は何かエピソードを加えてもいい。ドラマでは無心しているシーンや盗みをしようというシーンがあるが、それはトラウマとは完全に切り離されていて、「だって太宰はそうだもん」でしかない。ドラマにするならば、あれはトラウマとリンクしていなければならない(視聴者はそう思ってついてきているのだから)。

たとえば、無心するところで、「大丈夫だ俺は天才だから必ず返す」みたいな風に描いておいて、フラッシュバックで、あのお慶の「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」の時の眼がはいるとか、あるいはその無心しているところをじいっと見ている近所の少女の眼に気付いた青年、ふとその少女の目があの日のお慶の眼に見える…。その眼はもはや青年作家の中に住んでいる冷やかな他人で、「あなた自我が肥大しているだけじゃないの?」という眼である。その眼をふりきるために、酒や薬にはまる・・・。と、ある日、巡査がやってくる。

実際作られたドラマとも大きな違いはない。が、作られたドラマにはドラマを描くよりも原作の描写とか太宰はこうだったとかギミックにとらわれている。だがあたりまえだが大事なのは斜陽館やプーシキンではなく、ドラマに内在している論理…原作の精神をはっきり意識しそのウネリを表現することなのだ。それがなくては、この2010年にあれを映像化する意味がない。

太宰がどうだかは関係なく、あのドラマをドラマ単体の論理性で追求することで、太宰をよりよく表現することができるし、現代の視聴者に耐えうるドラマになる。そう考えたときに、あのドラマ「黄金風景」は作り手としてすごく参考になる…反面教師として…作品であったということができるだろう。

以上、匿名氏の指摘にこたえる形で自分のおっちょこちょいを謝するところから、しかしながら、自分の感じたあのドラマに関する違和感は違和感としてあるので、そこについてあらためて言葉にしてみたら以上のようなことになった。匿名氏とアベユーイチ監督のおかげで、ドラマ作りについて深く考える契機になった。感謝しなければならない。

太宰治についても、プーシキンについてもまだまだ勉強することがたくさんある。とりあえずプーシキンの詩集を買ってしまった。

あ、なんどもいいますが向井理太宰はかなり素敵でしたよ。

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2010/02/17

天国の芥川もニヤリ…

日本文学シネマを2夜連続で見た。

(日本文学シネマについては→

第一夜目の太宰治「黄金風景」は非常に残念な感じだった。
若き日の太宰の家は「どこだ?ここ?」というぐらいの素敵なロケーションをもってきたなとはおもったけどそれだけで、優香の演技、少年の演技ともに、うむむとなる。ついでに、原作にはない足したセリフがどうもおかしい。たとえば巡査が太宰に会って、妻のお慶を連れてくるというくだり、原作では太宰はコメントせずに巡査は去る。が映像ではここで太宰に「来るな!来なくていい!」と絶叫させる。太宰がそんなこと言うわけもないし、たとえ言ったとしても、そんな太宰のせりふを聞いた巡査がなんのリアクションもせず、「今度妻を連れてきますんで」と去るのは不自然極まりない。非常に気になった。なぜ、そんなセリフを足したのかよくわからない。またその巡査に会う前に貧苦に喘ぐ太宰が本を盗むのだが(このエピソードも原作にはない)、その盗む本の著者名が上田某であるのがわかるのだが、これも非常に気になる。というのもマニアックな話となるが、上田とはおそらく上田重彦のことで、太宰の弘前高校時代の小説のライバルの名前だからだ。そのような重大な名前の書いてある本を太宰が盗むにあたってノーリアクションのわけがない。上田某など、視聴者は知らないだろうからと馬鹿にしてその名前を出したのだろうか。だとすればその名を出す意味がわからない。あるいはその名前を出すことが太宰の背景を知っている人に対してのサービスだと思ったのだろうか。もしそうならば無神経すぎるとしか言いようがない。あまりにも頓珍漢である。上田某の名前を出したのは明らかに監督に問題がある。映像もストーリーも演出もテレビの軽さも相まって、あああ、やっちゃったな感が強かった。しかし向井理の太宰治は良かった。

太宰治「黄金風景」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2257_15061.html

一方、昨夜の芥川龍之介「魔術」はかなり良かった。一夜目のあれれな感じが残っているから、熊切監督といえども、ちょっと残念なことになりはしないかと緊張しながら見た。最初のインド人とかは笑えるもののあれれな感じになりかねない危ない橋であったが、しかし、原作にはないオリジナル部分の、中村ゆり絡みの恋愛部分がとても素敵で、CMごとに、え、この先どうなるの?と思わせる素晴らしい運びで、最後エンドロールの映像でちょっと泣きそうなぐらい切ない気持ちにさせる。塚本高史がよくこの詩情を体現していた。また中村ゆりがびっくりするほどに可愛い。20分程度の映像なのに熊切さんさすがと感動。不勉強で原作を読んだことがなかったが先ほど、青空文庫で読むと、この映像作品が、よく芥川の原作の詩情を汲み取り美しく結晶させた作品であることがわかった。芥川の原作を超えているのである。それでこそ映像化の意味があろうというものだ。天国の芥川もニヤリとしているに違いない。

芥川龍之介「魔術」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/95_15247.html

さて、本日第三夜は、梶井基次郎「檸檬」である。監督は、「なま夏」「机のなかみ」「純喫茶磯辺」の吉田恵輔監督。吉田監督は大変態の大天才だから、あの国語教科書でおなじみの「檸檬」がどのように映像化されるか実に楽しみである。

この「日本文学シネマ」の企画。原作があっという間に読める。どう原作の詩情を汲み取り映像化したかがすぐに「採点」できる。そういう面白さもある。ぜひ、みてほしい。

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2010/02/15

日本文学シネマ

本日2月15日から
TBS系列で「BUNGO日本文学シネマ」というのが始まります。
本日は、太宰治「黄金風景」
たのしみです。

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2010/02/12

阿佐ヶ谷スパイダース「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」

英国留学から帰ってきた長塚圭史氏の日本演劇界復帰第一作。

いまや日本では唯一の演劇評価サイトとなったCoRich舞台芸術では、この長塚氏の新作、評判があまりよろしくない。しかし評価が割れるからこそこの目で確かめねばと出かけて行った。

ちなみに、使っている人はみな思うだろうが、CoRichは評価サイトとしては機能していない。「どうしてこんな芝居に」という芝居に好評価のコメントが多数寄せられたり、「これ素晴らしいのに」という挑戦的な芝居にマイナス評価がたくさん載ったりということが起きている。(ただし網羅性は高いので、そういう意味ではあてになる)

だから結局自分で見に行って確かめるしかないわけである。

観た結果、僕の感想は、本作品「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は、これまで見た長塚圭史さんの作品の中で、群を抜いてすぐれた作品なのではないかと思った。

と言っても感動したり泣いたり笑ったり驚いたり…というようなプリミティブな作品ではない。

うなる、うすら寒くなる、うつになる、というような作品である。

ストーリーは、結構、巧妙に作られていている。おそらくストーリーを時間軸順で丁寧に追っていけば、それはそれで、かなりの傑作になっただろう。しかも、わかりやすくて観客にも大いに受け入れられたに違いない。

しかし、長塚氏はその道を取らなかった。

ストーリーは2の次に扱われている。

本作によってストーリーよりも優先されているのは、「方法」であり、その「方法」によってしか達成することのできない衝撃を観客に与えること、「観客の中の根源的な感情…恐怖だったり不安だったり…を直接的に揺さぶる・・・体感させること」である。

具体的には、場所や時間のフラグをあえて立てない展開と演出である。

主人公があいまいな記憶をたどるように、観客は、自分の信じている演劇の枠が解け始めるのを感じる。ここは***のシーンだと信じてみていると、そのシーンとは全く関係ない人と、そのシーンの中の人が会話を始める。観客が何かを信じようとすると、その枠組みはすぐに壊される。それは答えにたどり着きそうでつけない主人公と同じ道を旅することになる。

そのような演出を達成するために、極力、物、光、音は排される。

観客に不親切に見えるこの「方法」こそが本当に観客を「体感」につれていく親切な「方法」なのである。あそこで、いちいち、ここは何々です、ここは何々です、というようなフラグを立てた芝居にしていたら、人々は何も体感せずに、おいしい物語だけを横取りして悦に入った醜い豚になっていただろう。

が、豚は豚で、せっかく長塚氏が親切でやっているにもかかわらず、ぶーぶー言う。

豚だから仕方がないが、演劇をストーリーを物語る「手段」としか考えない人は、本作「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」を、わけわからないもの、おもしろくないもの、意味ないもの、残念なもの、期待はずれとしてとらえ、ぶーぶー言う。

しかし、豚は気付いたほうがいい(気付かなくてもいい)。

もしも、本作に対して、「もっとわかりやすいものを」とか、「つまらない」とか、そういう評価を下すものがいるならば、それはいみじくも、評者自身が、物語に飼いならされた豚であることを表明している。

そのような豚の悲鳴に僕ら創作家は耳を貸す必要はない。

とかいいつつ、そのような物語に飼いならされた豚が実に多数にのぼり、金銭的には彼らに媚びなければ製作が不可能となると、事態はややこしい。豚の民主主義に付き合わなければならなくなる。そして実際、日本はそういう状況にあり、そういう状況において苦しむ創作家の姿をこの作品「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は描いている。

阿佐ヶ谷スパイダース「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」は、東京ではあと2日、明日、明後日と下北沢の本多劇場でやっている。その後、順次、大阪など地方都市でもやるようである。

もしも、ネット上の評価に行こうか行くまいか迷っている人がいて、以下の作品にピンときたら、ぜひ見に行ってほしい。あなたの欲しいものが必ずそこにあるだろう。

デビッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」

東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」

理解できないことを楽しむ度量があれば、もっと大きな喜びや楽しみや感動が得られる。

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