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2010/01/20

2010年ツイッターの旅

2009年11月末にアカウントを取得、twitterツイッターをはじめた。

ツイッターの松枝アカウント
https://twitter.com/matsugae

いまではツイッターなしの日々は考えられない。

しかし中毒というのとも違う。

ツイッターは僕にとって本当に有益な情報を教えてくれる重要なツールとなったからだ。

ツイッターによって僕は沢山の本やTV番組、映画、情報、考え方と出会い、結構な額を消費している。

はじめはツイッター?ミニブログ?なにそれ?そんなの意味あるの?なところから始めたわけだが、今では、なぜそうなのかの説明が難しいが、やってよかったし、このツイッターといったツールが「ミニブログ」などと言われるものではなく、もっと別の、なにか形容しがたい、やはりツイッターとしか呼ぶことのできない有用なものであることを確信を持って言うことができる。

しかしおそらくツイッターとはなんぞや、みたいな話をすると、だいぶ時間がかかろうから、このエントリーでは、いまさっきツイッターについて思ったことを、ブログなりの長所を生かしてつぶいてみようと思う。

週刊ダイヤモンドという雑誌の編集部がツイッターにアカウントを持っている。

https://twitter.com/diamondweekly

そのアカウント( @diamondweekly )をフォローしていたら、ツイッター特集号を作るという話をになり、その時誰かが、表紙をツイッターユーザのプロフィール写真で埋めたらどうだ的な提案をし、それいいねとなり、早速ダイヤモンド編集部@diamondweeklyは、表紙に載りたい人募集と呼びかけた。そのお祭りさわぎに載って僕もプロフィールのっけて!とつぶやいた。

そのツイッター特集号の表紙が次である。(右下のほうに僕がいる(笑))

Diamond

記事の内容については、ツイッターをやったことのない初心者向けの記事で、これを読んでツイッターはじめようかなという人が出てくれば、それはそれでいいんじゃないかという話である。何人かの有名人のアカウントがずらりと並べてあった。

有名人をフォローしよう的なこととはツイッターの意義は違うかなとは思いつつ、しかし僕も有名人を見つけるとフォローしてしまうし、まずはとっかかりはミーハー的な動機でもいいだろう。始めてみて、結果、それを自分の使い勝手のいいようにカスタマイズして、それぞれがそれぞれの方法で利用すればいいんじゃないかという感想を抱いた。

で、シナリオの作業などいろいろ一段落したので(次の作業はあるのだが)、週刊ダイヤモンド@diamondweeklyの発言をさかのぼって見てみた。今回の表紙の目論見などあたり、さぞやウハウハだろうと思ったからだ。

すると、予想に反して、その発言は明るいものではなかった。

というのも、日垣隆氏( @hga02104 )が、週刊ダイヤモンド編集部@diamondweeklyに噛みついていたからだ。日垣氏の承諾もなく勝手にアカウントを誌面に掲載したことを謝罪しろということだった。

日垣隆さんのツイート
@daiamondweekly 勝手にアカウントや名前載せるな、ダイヤモンド。くず雑誌。私が、ゼロから新人にかえって、一人ずつと交流しているのに。彼らは、いろんな人がいる、の原点がわかってない。編集長、謝りに来なさい。メールアドレスや住所を許可も得ず勝手に載せるのは卑劣だ

実は似たような場面に出くわしたことがある。

有名人A氏のツイッターアドレスを探していたA氏の知り合いのB氏がそれをTL(タイムライン…時間順に自分のフォローしている人の発言が並んだもの)上で呟いたところ、A氏のツイッターアドレスを知っているC氏がTL上で「これがA氏のツイッターアドレスですよ」とさらしてしまったのだ。A氏のツイッターアドレスを探していたB氏は単純に喜んだのだが、A氏、実は、ツイッターをやっているのを隠していたのだ。TL上でアドレスがさらされたことにより、多数の人が突如A氏をフォロー、何事かと思ったA氏、調べてみると自分のツイッターアドレスがTLにさらされているという状態を知る。そして、A氏は、TL上にさらしたC氏、TL上でつぶやいたB氏に激怒した・・・というようなことがあった。

このA氏の話はツイッター上だけで起こった話であり、今回の日垣氏の騒動は雑誌上の話であるから、にわかに同じ問題として論じるわけにはいかないが、共通する問題が含まれている。

それはツイッターが私と公をつなぐ今までにない位置にあるコミュニケーションツールと言うところからきている問題だ。

つまり「つぶやき」という言葉にイメージされるような私性と、インターネット上、垣根なくオープンであるという公性。

メールアドレスは私的なもので、これを掲示板などのネット上でやりとりするのが犯罪的な行為であるのは想像に難くない。一方、ホームページのURLは公的なもので、これを掲示板などのネット上でやりとりするのは構わないだろう。おそらくホームページのURLなんかを雑誌に掲載するときはいちいち掲載をホームページ作成者に確認をしないのじゃないかな(憶測)

なのでダイヤモンドの編集者は、ホームページの紹介と同じノリでツイッターの日垣さんのアドレスを無断で誌面に掲載した。一方、日垣さんはツイッターのアドレスはむしろメールアドレスに近いものと考えているんじゃないかと思うのだけど、だからこそ、ダイヤモンド編集部許すまじとなっている。

というのが、このダイヤモンド-日垣論争の僕なりの理解だ。

問題を理解したうえで、じゃあ、どっちの言い分が正しいのか、あるいは新しい別の解決方法があるのか、ということだが、日垣さんがこの文章を見る可能性があると考えると、非常に言いづらいのだけども、僕はこの問題、日垣さんが間違えているのだろうと思っている。

というのは、ツイッターが持っている私性というのは疑似的なものでしかないと僕は思っているからだ。

特殊な設定をしない限り、ツイッターでの発言は、すべてネット上でさらされている。だからツイッターのアカウントはホームページのアドレス同様公的なものである。というのが僕の意見なのだが、公にさらされているにもかかわらず、ツイッターが私的なツールのように思えるのはなぜなのかをちょっと考えてみた。

ツイッターの画面では、フォローするユーザーのアカウント数にもよるが、膨大な発言が単純に時間順でずらずらとならんでいる。分類やソートをしないというのも、ツイッターの特徴で、それが面白いところである。またそれぞれのユーザーが重要な情報くだらない情報を分け隔てなく発言している。このことから、ほとんどの場合、かなりの情報が波のように押し寄せてくるのであって、観る者はこれをうまくさばいていかないといけない。とはいうものの見る側もずうっとそこをにらんでいるわけではない。したがって、ある情報が、ある人の目に止まるのは偶然性に支配されている。見落とす発言もおおい。

ところで「公」というのは皆に見られる場所のことである。他人の目を気にして自分を律する場所である。

しかし、システム的にオープンであるとしても、自分の発言を誰も見ていない可能性があるとなると、そこは私的な場所と錯覚される。ブログでは書けないような恥ずかしいことを呟いても、じきに情報の海に飲み込まれて掻き消される可能性が高い。ならばつぶやいてしまえ。つぶやいた。・・・やっぱり誰も反応しない。ここにいるのは自分だけだ。このような過程によって、多くのユーザーはツイッターを私性の強いツールと感じている。感じるからこそ、より非公式で私的な発言を皆がする。これによって更にツイッターの私性感は強まる。

このように取り扱う情報量の多さ、必要情報を拾うための情報検索労力の大きさ、見通しの悪さがツイッターの特徴である。またその特徴によって、ツイッターはすべての発言が公的にさらされているにも関わらず私的な場所と錯覚されることになっている。

が、やはり皆に見られる可能性があるという以上、そこは公の場所なのである。ある著名な方がツイッター上で暴言を吐いていて、僕は、こういう場でそういう発言はどうなのか?というような返信をした。ご本人は「どういう意味ですか?」みたいな反応であったが、あれもツイッターを私的な場所とご本人が錯覚しているから起こったことだろうと思っている。(もちろん、発言者が暴言を売りにしている暴言キャラなら別であるが)

以前よりツイッターのユーザーとなっている人にとっては、使っている人も少ないという印象があるのだろう。より小さな場所として日本語ツイッター空間をイメージしている。そこは小さなサークルで、公には程遠い。がしかし、今後ツイッターはより多くの人が使用するようになるだろうし、方向としてはより公の場所になっていくとということが考えられる。

話が遠くに行きすぎたが、ダイヤモンド-日垣論争に戻ると、ツイッターアカウントは、ツイッター空間が公的な場所ということから、ホームページのURLと同じで、おそらく本人の許可なく雑誌掲載をしてよいものだろうと思う。むしろオバマ大統領などのアカウントは本人に許可をとっていたらバカみたいなことになるんじゃないか?(もちろん、日垣さんが日垣さんの名前を隠して活動をしているのに、そのアカウントを掲載し、これこそ日垣氏だと公にさらすのであれば大問題(先ほどのA氏の例はこれ)、しかし日垣さんはツイッターアカウントにちゃんと日垣隆と名前を入れている)

さらに日垣さんは

私が、ゼロから新人にかえって、一人ずつと交流しているのに。

と言っているが、すでに日垣さんは著名人である。

ツイッタープロフィールにもちゃんと「日垣隆」とある。

もしも、個人的な交流を重要視したいというのであれば、従来からあるメールのやり取りをすればよいし、いや「ツイッター上で私人として他のユーザーと向き合いたいんだよ」ということであれば、(1)日垣さんの名前を維持したままでは無理であり(なぜなら日垣さんはもうすでに絶対的に公人であるから)、(2)日垣さんの名前を伏せて活動するなら可能ということなのだろうと思う。

いままで、日垣さんの名前を出しても静かでいられたのは、雑誌がツイッター特集を組まないような時代であったからで、いままさに静かでいられなくなったのは雑誌がツイッター特集をするほど大衆がツイッターに乗り込んできたからだと思う。

「日垣隆」の名前を掲載する時点で、それは著名人としてのアカウント機能を持つ。私的なアカウントではいられない。沢山の注目を浴びフォローされ、それがゆえに彼のフィルターを通して語られた言葉は一市民が語る言葉よりもより大衆に浸透してゆく力を持つ。そういう力と機能が「日垣隆」さんのツイッターアカウントにはすでにあるのである。

これは日垣さんにかぎらない。

政治家、スポーツ選手、映画監督、漫画家、歌手、実業家などなど

実際に、リアルの世界で活躍している人にはすでに公人としてのフラグが立っている。

つまり彼らはリアルでなんらかのフィルタリングをされている人たちである。

情報過多のツイッター空間では、いかに情報をフィルタリングするかが重要であるが、そのフィルタリングの方法の一つに、このリアルフィルタリングされた人たち(=著名人)をフォローするという方法があるのである(話がこのエントリーの最初のほうに戻った)。

で、だからこそ大事なのことは、むしろ次のことである。

成りすましの効用の高い著名人アカウントはちゃんと公的な機関(あるいはそれに準ずる機関)によって、公式アカウントであることを証明されなければならない。

実際、ツイッターがより普及しているアメリカ合衆国では「認証済みアカウント」が多い。

たとえばデビッド・リンチ監督がフォローしている人たち。

https://twitter.com/DAVID_LYNCH/following

ほとんどに「認証済みアカウント」のしるしが付いている。

一方、我が国の映画監督本広監督がフォローしている人たち。

https://twitter.com/kmotohiro/following

ちなみに日本人で「認証済みアカウント」を持っているのは鳩山首相だけではないか?ほかにいるんだろうか?

https://twitter.com/hatoyamayukio

とにかく、朝になってしまったので、そろそろこのエントリーを終えるけれども、ツイッターの特徴を考えると、週刊ダイヤモンドが批判されるべきなのは、無断で日垣さんのアカウントを載せたことではなく、日垣さんのアカウントが本物かどうかを確かめないで掲載し、多くの一般人が偽物をフォローするかもしれない可能性を考慮しなかったことにある。本物の日垣さんでよかったね。ということなんだと思うのだけど、どうだろうか?

ツイッターは匿名性の時代に終わりを告げることになると思う。

(論理的間違いなどありましたらご指摘ください。そこまで自信があって書いているわけではないので、ご指摘は謙虚に受け止めます)

参考:ダイヤモンド-日垣論争のまとめ→http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/01/post-b888.html

: 週刊 ダイヤモンド 2010年 1/23号 [雑誌]

週刊 ダイヤモンド 2010年 1/23号 [雑誌]
「使えない」では済まされない! 140字、1億人の「つぶやき」革命。表紙アイコンに僕います(笑) (★★★)

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