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2009/04/17

蜷川幸雄演出「ムサシ」

行きたかったが自分のところの公演にかまけているうちにチケットを取り忘れ、どうしたもんかとなっているところに、金子修介監督から電話。「あの・・・「ムサシ」行かない?」行く行く行きます。行きますとも。ということで、急遽、「ムサシ」をベストポジションで観ることに。

いやあ、素晴らしい。

やっぱり蜷川幸雄さん井上ひさしさんは素晴らしい。

シンプルイズベストは・・・<以降、ネタばれ注意>

<ネタばれ注意>

シンプルイズベストはお能の世界。

劇構造もお能の型を踏襲したものでした。

なのでラストの幽霊落ちは予想の範囲。

演出もセリフも明らかに夢幻能を志向しており、最初の廃寺を再建して・・・といいうようなあたりから、夢幻能の形式を前提にすれば、この幽霊落ちという展開は、物語の冒頭から十分予測されていた。

そして予測可能であることは全く傷ではない。

予測可能な範囲にありながら、見事な現代的解釈を施されているからである。

とは言うものの、もしも「がっかり」する余地があると言うならば、幽霊のあの説得如きで、武蔵と小次郎が決闘をやめてしまったこと、である。

今回の「ムサシ」ものすごいチャレンジをしている。

それは能という古典の形式を取り、宮本武蔵という古き実話に材を取りながら、911以降の中心的課題の一つである「復讐の連鎖をいかに断ち切るか」という現代的問題をみごとに取り扱っているということだ。

だから、あのような幽霊の説得で、決闘をやめると言うのは、このせっかくのチャレンジを、子供だましというか、おとぎ話にしてしまっている。そのようなことで「復讐の連鎖が断ち切れない」ことは誰でも知っているからだ。

その点を非常に残念には思った。

が、役者のレベルの高さ、演出の素敵加減、脚本の妙。

これは、うなるに値する。

日本最高峰の演劇がそこにある。

しかし、だからこそもったいないのだ。

あそこで、決闘を辞めさせることが真にできるならば、この作品は政治的な、そして哲学的な意味においても最高傑作となっていただろう。エンターテイメントという装いをとりながら、恐るべき破壊力を持った作品になったはずだ。

結局、おそらく、井上ひさしさんにも、まだ「復讐の連鎖を断ち切るための方法」について、明確な回答がないのだろう。だから、あのラスト、能の形式としてはまっとうであるものの、現代人の胸に刺さらなかった。ということなのではないかと思う。

芝居後、金子監督とともに楽屋を訪れた。

そこで出演者の方たちなどから、脚本が完成したのが、初日本番の3時間前だったとの話を聞いた。通しを一回もできずに幕が開いたことが奇蹟だと言われていた。

本番の3時間前。

その時までの井上ひさしさんの闘いを思う。

世界と戦う。

今という時代と戦う。

人間と戦う。

その瞬間は世界のだれよりも人類のことを考えていた。

ボロボロになりながら、最後の一瞬まで戦う。

できれば、もう一週間ほしい。

いや一日でもいい。

しかし、

あと3時間後には幕が開く・・・

井上ひさしさんは決断をしたのだと思う。

幕を開けることを。

 

「復讐の連鎖を断ち切るための方法」

そんな難しい問題をいますぐに答えられるわけがない。

だが答えねばならない。

その答えを探す葛藤は幕を開けた今も終わってはいない。

だから井上さんはまた本を書かねばならない。

すべてに決着をつけるまで。

その答えが見つかったときに、

「ムサシ」は本当の意味で完成するのかもしれない。

そして、その答えを見つけるのは僕でもいいのだ。

それを知ったとき、ちょっとむふふと思った。

やる気が出た。

僕ら脚本家にはまだするべき仕事が残っているのだ。

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