永井愛さん作演出の「歌わせたい男たち」を紀伊国屋ホールに見に行った。
これ、再演らしい。
最初チラシの雰囲気から音楽劇っぽいやつなのかなと思っていたが、簡単に言うと、高校の卒業式における国歌斉唱をめぐるすったもんだを描くというやつだった。
客の年齢層はかなり高かった。
で、かなり受けていた。
その笑いの多くは、国歌斉唱を肯定する人たちの滑稽さを笑うというか、もちろん馬鹿にしてというのではなく、みんなが日常、ああ、そういうことで筋を曲げるよね、みたいなところが、なんだかコミカルで笑えるという感じだろうか。しかし、その筋を曲げ方はやはり客の年齢層のような中高年に受けやすいたぐいの・・・つまり中間管理職の筋の曲げ方みたいな、その部分に対する笑いが多いように思った。だから周囲の観客は僕が思う以上に受けていた。
しかし、そういったことごとが、僕からすると、なにか古いなぁという感じを覚えた。
アフタートークに野田秀樹さんが来られていたのだが、野田さんが何回か「あの若い先生の論理をもうすこししゃべらせたらこの芝居別のものになるよね」と言っていたが、そうだと思う。昭和の老人たちは知らないかもしれないが、平成の若者は、昭和の寓話を超えた論理をもっている。チェルフィッチュとかポツドールとかが古くないのはそれをきちんと描いているからなのだ。そしてそのことに言及できる野田さんが古くないのはそういうことなのだろう。
韓国籍の学生・・・話にしか出てこないのだが、彼がみんなの予想を裏切らずに国歌斉唱に反対するとか、なんだか、収まりのいいステレオタイプな人物ばかりと言うのも、物語を食べやすくするには役立つのだろうが、不満だ。
僕の知り合いには、君が代が大好きな韓国人がいる。日本人が、韓国人の彼こそ国歌斉唱に反対すると思って話しかけると逆に、国歌を歌わぬことを、そして君が代と言う素敵な歌を歌わぬことをなじってくる。韓国人からの予想外の反撃に、「韓国人は君が代に反対するもの」と信じて疑わぬステレオタイプな日本人があたふたする。その事実のほうがよっぽど面白いし、僕ら日本人の無意識をあぶりだしていると思う。
「国歌斉唱問題」を利用した喜劇というのではなかった、この芝居は、喜劇を利用して国歌斉唱問題を問う(問うと言うよりも、国歌斉唱に反対する)類の芝居であった。
アフタートークで永井愛さんは、国歌斉唱に反対する人の論理はちょろっと一回しか出てこない。ほとんどが国歌斉唱に賛成する人たちの論理ばかりに他ならない。と言っており、つまりそういうことに言及する彼女の心理は、私は国歌斉唱に反対ではあるが、この芝居はその論理に偏らずに語られているものだ、という公平性への目配せがあると言うことをいいたいのだろうが、それは切り取りや並べ方の問題。国歌斉唱に賛成する人たちの論理をいくら扱うと言っても中間管理職の筋の曲げ方の論理ばかりにすることによって、それは馬鹿にすべき論理であると言うことが逆に主張されてしまう。
僕が、この芝居を紋切り型の土井たか子的な芝居と思ってしまった所以である。
そして、あまりにも土井たか子的な芝居であったため、芝居云々に目が行かず、むしろ、真剣に国歌斉唱問題を考えてしまった。
そういう意味では永井愛さんの意図にまんまと乗ってしまったと言えるのかもしれない。
ちなみに、僕は個人的に国歌は好きだが国歌斉唱に賛成と言うわけではない。
ここにはほんとうに難しい問題がある。
それは対アジア云々と言うような問題ではない。
強制云々と言う問題じゃない。
もちろん主義主張の強制はいけないに決まっている。
だが、国家というものの存在は、存在そのものに、もうすでにある種の「主義主張の強制」が含まれざるを得ないと言うことである。もちろん、それが「国歌」なるものに及ぶのかどうかは議論があるだろう。
このように国家の問題(とくに共通基盤の破壊された国家の問題)について、明らかな結論を僕らが得ていないことから、永井愛さんが校長先生の演説に使ったような司法の判断が下されてしまうわけである。本来、あのような司法の判断の・・・永井愛さんはユニークさと言っていたが・・・を嗤うのではなく、あのような判断を、日本国のエリートが出さざるを得ないほど、国家というものが自明でなくなっている現在の虚脱感をこそ問題にしなくてはいけない。その虚脱感に付け入るのが単純な右翼思想(アフタートークで野田さんの触れていたサッカー右翼のこと)であり、国歌を強制することで古き良き日の国家を取り戻そうと言う頑固爺の空理空論であり、またその虚脱感に気づかないと、土井たか子的な護憲理論は古びた論理として負けていくしかない運命なのである。
ことはこの芝居のように簡単ではない。
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