サイモン・マクバーニー「春琴」
2月21日初日、プレビュー公演を見に行った。
会場に着いたら、なんと開演1時間押しとのアナウンス。
1時間押しと聞いても、「ふざけるな」って気持ちにならないのね。
ギリギリまで良いものをつくろうと頑張ってるんだなと、むしろうれしくなる。
開場押しといえば・・・僕も経験がある。
おととしの12月にやった「偽伝、樋口一葉」という芝居。
初日開場開演が30分遅れることになってしまった。
原因は演出家である僕の不注意。
演技の修正に夢中になったあまり、気付いたらやばい時間になっていた。
監修についていただいた金子修介監督が会場の外にならぶお客様に直々に頭を下げに行ってくださった。
だから「開場1時間押し」と聞くと、自分たちのあのときの「!!!まじ?」を思い出す。
ま、僕らが「押し」たのと、今回の「春琴」の「押し」たのとを一緒にしちゃよくないけど。
金子監督からも「深津なら許す人もいるんじゃないの?」というメール。
たしかに。
僕レベルで30分開演押しはやっぱないよね・・・と2年越しの反省。
と、まあ、「春琴」の話に戻る。
演出であるサイモン・マクバーニー氏については、とりあえず、僕にとっては、蜷川、野田、ケラ、松尾、白井とならんで、演劇人生の必須科目となっている人。
僕の演劇の原点にいる野田秀樹師匠とも浅からぬ仲にあり、劇団夢の遊眠社解散後の野田演劇に影響を与えている演出家でもあり、彼演出の「ルーシー・キャブロルの三つの人生」、「コーカサスの白墨の輪」という2つの作品において、野田さん自身が役者出演の可能性もあったという、まぁ、サイモン・マクバーニーとは、そういう演出家なんですわ。
だから必須科目。観るしかない。
「エレファント・バニッシュ」というサイモン・マクバーニー演出の作品を世田谷パブリックシアターで見たのは何年前か。
ストーリーというよりもあふれ出すイメージ。
そういう舞台だった。
とくに印象的だったのは「光」。
世田谷中の電気を使ってしまったんじゃないかと思うぐらいの光の洪水。
それが「エレファント・バニッシュ」が僕に伝えたイメージだった。
うろ覚えだが、サイモン・マクバーニー自身が東京に来たときのイメージだったと思う。
まばゆい光。
東京は昼も夜も光で溢れていた。
というのがサイモン・マクバーニーの「東京」への印象で、それが「エレファント・バニッシュ」に結実した・・・たぶんそんなことをパンフか何かに書いてあったように思う。うろ覚えだが。
ひるがえって、「春琴」。
観た人はお分かりだと思うが、今回、僕らが舞台で目にするのは、「陰(かげ)」である。「エレファント・バニッシュ」が「光」なら、その真逆である。
そういう意味では、今回の芝居の原作は、タイトル「春琴」の元にもなっている谷崎潤一郎の「春琴抄」よりも同じ谷崎の作品「陰翳礼讃」なのである。
ところで「陰翳礼讃」。
これを読めばわかるが、そのエセーは、日本人論、西洋対東洋の文明論、今昔の時代論、文化論であるとともに、優れて照明についての論説でもある。
「われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである」(「陰翳礼讃」より)
「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳も作用を離れて美はないと思う」(「陰翳礼讃」より)
「われわれは見えないものを考えるに及ばぬ。見えないものは無いものであるとする。強いてその醜さを見ようとする者は、茶室の床の間へ百燭光の電燈を向けるのと同じく、そこにある美を自ら追い遣ってしまうのである」(「陰翳礼讃」より)
佐助が醜くなった春琴を見ないように(すなわち美しき日の春琴を永遠のものとするために)自らの目をつぶして盲になったのもそうであるし、なによりも、春琴は生まれながらにして闇の中にいるのだ。そして生まれながらに盲であったということが、美しい春琴の人生に影を落としていく。影は暗いことばかりではない。あたたかい影となったのは佐助という下男であった。
舞台に「陰(かげ)」を作り出すのは照明だけではない。
音にも、「陰(かげ)」がある。
音の出ているところと、音の無いところ。
で、気付いたことがある。
花粉症なので(笑)物音を立てやすい状況にあったから、なおさらそのことに気付いたのだと思う。
音が無いという状態(音の意味において陰な状態)が、この芝居でいかに重要であるか、ということである。
客席は、瞬時にそのことを察し、開演したその場から水を打ったように静かになるのである。この「春琴」ほど客席で物音を立てないように気を使った芝居も無い。
そういう意味では、サイモン・マクバーニーが開演前に客席前に現れて片言の日本語と、通訳を介しての英語で言ったことに呼応するが、客席もこの芝居に参加するのである。陰を作ること、それは見ることにおいて、そして聞くことにおいて、どちらもそうだけれども、僕らはたしかにこの芝居に足跡を残す、残さざるを得ないのである。
ところで、見えないこと(すなわち演技の陰)によって見せること。
聞こえないこと(すなわち音楽の陰)によって聞かせること。
語らないこと(すなわち台詞の陰)によって語ること。
演劇とはむしろその不自由さを逆手に取ったエンターテイメントなのである。
そう考えると、フィジカル・シアターというものを背負ったサイモン・マクバーニーが、谷崎潤一郎の言う陰翳に興味を持つのはもっともだということがいえる。
マイムは、見えないものを見せることであり、それは見えないこと・・・すなわち「演技における陰」を利用して、見えるはずも無いものを(見えては化けの皮がはがれてしまうものを)見せるという転倒を起こさせる技だからである。もともとサイモンは影使いだった。
僕らは、世田谷パブリックシアターの闇の中に、見てはいけないもの、本来あるはずの無い愛、永遠の白い肌をみることができる。それはすべてにおいて「陰」の影響だ。ぜひとも、「陰翳礼讃」を読んだ上で、この芝居を見て欲しい。「春琴抄」はむしろ読まないほうがいい。「陰翳礼讃」を読んで見ると、この芝居の良きガイドになる。読めばこの芝居の価値が100倍アップして見えるだろう。
「エレファント・バニッシュ」の光、「春琴」の陰。
その対比、そして日本人としての意味。いろいろなことを考えさせられる。
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