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2007/09/05

長塚圭史演出「ドラクル」

またしてもめちゃくちゃ良い席。

前から六列目中央より。

この作品、長塚圭史氏のコクーンデビュー作品。

そういう意味で注目していた。

(以下ネタバレあり)

が、先に結論を言うと、僕の印象は、美術と照明のすばらしい舞台、役者もそろっている、音楽も素敵だ。しかし本がいまいちだったなということになる。結構役者も台詞を噛んでおり、ラスト、拍手も一回こっきりだった。

まずもって、前半頭で、舞台がフランスで、しかも子殺しの話が出た時点で、ぼくはジル・ド・レの話だなとわかった。そして期待がいや増した。蜷川さんの「ひばり」の記事でも書いたが、僕は昔ジャンヌ・ダルクの話を書いたときに、このジル・ド・レという人物とジャンヌの関係を主軸に話を書いたのであって、聖戦に従事した神の乙女に従順だったジル・ド・レという男が、大量の子殺しをする(しかもかなり性的な虐待をした上で殺す)残虐な殺人鬼になっていくそのことに興味を持っていた。

ジャンヌ・ダルクを失ったジル・ド・レが吸血鬼になる。だが再び聖女・宮沢りえを得て、聖なる乙女に従順な男になる・・・そういう設定。これは素敵だ。かなりドラマチックになる要素が含まれている。そして、長塚本もこれを最後まで主軸としているのだが、結局最後まで、人の心に火をつけることのできない本となった。また演出的にも、美術はとても素敵だが、ラストシーンについては納得がいかない。「こけおどし」を馬鹿にしてはいけない。おじいちゃんになっても蜷川さんも串田さんもちゃんと舞台的な「こけおどし」を真剣に用意している。もちろん「こけおどし」が無くてもいいが、無いならないで、それは何かの意識的なアンチでなくてはいけないように思う。「ドラクル」もラストで「こけおどし」(目潰し照明と檻からの脱出)を用意しているのだが、それがあまりに中途半端でがっくりくる。時間切れで強制終了的な印象だ。むしろあそこをちゃんとしていれば、途中のつまらぬ会話劇なんて覆すような印象を残せたはずだ。金を使えるからこそ、僕らのできない、馬鹿みたいな真剣な「こけおどし」を用意してほしかった。また、そういうのがふさわしい舞台でもあったように思う。返す返す残念だ。

長塚圭史的な「毒」ということでいえば、少年を惨殺する回想シーンと、美女・宮沢りえに、レイプされたときに感じてしまった、とフランス書院的な告白をさせるところだろうが、美女に下ネタを言わせて喜ぶだけのような印象で、毒というにはチンケな感じだ。

ここで僕は三島由紀夫「サド侯爵夫人」の「毒」を理想として掲げたい。うまくすれば、宮沢りえの告白は、三島由紀夫「サド公爵夫人」の告白を凌駕するものになりえた。ぼくら劇作家は、ここのところの違い(長塚氏と三島の違い)を、ようく考えなければいけない。そういうように自戒しつつ、宮沢りえの告白を聞いてしまった。

とは言うものの、ホーンテッドマンション的な前半の舞台美術と、スクリーンに映し出された両開きのカーテンとか、木漏れ日のゴシック調の照明とかそれが見られたというだけでも価値のある舞台ではある。

また、役者が見所なのは言うまでも無い。山本亨、明星真由美のしっかりエンターテイメントしたドラキュラコンビ。山崎一の心にしみる説明台詞。手塚とおるの悪どい司教のムカつきっぷり。勝村さんの好青年ぶり。渡辺哲の下心おやじっぷり。永作博美の愛を与えられぬ女の同性に対するサドっぷり、そこに見える悲しみ。長塚舞台の常連中山祐一朗のにょろにょろした声。など見ていて飽きない。

宮沢りえも役柄がピッタリだ。

そして市川海老蔵。素敵だね。芝居もそうだが、パンフを読むとなおさら惚れる。長塚氏が海老蔵の「なぜなぜ」ボウヤっぷりに押され気味なのが笑える。長塚氏は「(市川海老蔵くんの言動で)僕が驚いたのは「台本で、気持ちがわかるきっかけはどれ?」って聞いてきたこと」と言って驚いているんだけど、これは僕は常々考える。僕はむしろ海老蔵ちゃんと同じ考えだ。海老蔵ちゃんは「俺から見ると、みんなには動きが無いから、「あれ、内面を伝える作業も大事だけど、魅せ方はどうするんだろう」って思っちゃう」と言っている。手前味噌だが、これは、僕が最近よく言うことでもある。とくに満島ひかりちゃんや岡村麻純という映像系の役者を使うと、彼女たちは心を開き感じるのが上手だから、その役そのものの内面を作ることはできる。しかし演劇で重要なのはその内面の変化なり動きをどうやって観客に伝えるかで、逆に言うと、実際の心の動きなんか無くても、それが記号として形に表れており、観客が理解してくれればいい。観客は役者の心の中を見ることができない。観客は役者の外面的な変化、形だけを頼りに理解する。それが芝居の難しいところだ。メソッドでがんばっている役者が使いづらいのは、それを外面的に出すという技能をおろそかにしている場合が多いからだ。限られた時間でたくさんの情報を観客に伝えなきゃいけないとき、日常の自然な動きだけでは限界がある。心にうそが無いからこの演技でいいでしょ、というわけにはいかないのだ。むしろ逆で心にうそがあっても記号として演技が成立していることのほうが重要だ。もちろん一番いいのは、役者の心にもうそが無く、そしてそれがちゃんと形にも表れているということ。僕らが目指すべき演技・芝居はそこにある。そのことを市川海老蔵ちゃんが言っていてちょっとうれしくなってしまった。

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コメント

「心にうそが無いからこの演技でいいでしょ、というわけにはいかないのだ。むしろ逆で心にうそがあっても記号として演技が成立していることのほうが重要だ。」

...確かに。
観客として、猫もそうおもいます。
口悪くいうと、「あんたがどう感じたかなんてどーでもいいよ、その動きからそんなことわかんねーーよ。」なんて思うことも多々あり...です。
どんな荒唐無稽な物語にも、狂人にも狂人のロジックが通ってないと、わけのわかんないものを見せられたとか、自己満足につきあわされた感を抱いてしまいます。

投稿: 猫ぴ@もか組 | 2007/09/05 22:56

そうですね。その辺が一番の課題ですね。
でも根本は役者が感じることだと思います。
そのうえでどうするか。
バランス?難しいですね。

投稿: 白畑 | 2007/09/07 03:21

猫さん、白畑さんコメントありがとうございます。

そうですね、役者が感じることが一番ですね、あとは感じた役者の表現を表現になっているのかどうかをちゃんと演出がチェックできるかどうかでしょうね。

感じていてもそれを表に出さない人も多いので、とくに心に膜を作っている人はそうで、それを破いてもらうのが大変ですよね。膜を破くのも演出の作業なんでしょうが、なかなか面倒で、そうなるともともと破けている人を使ったほうがいいというような気にもなるし、破けてない人を破いたほうが面白いものが出てくる的な気持ちもあるし、そこんところは演出と役者がどう出会うかということになるのかな。運命というか偶然というか。

投稿: まつがえ | 2007/09/09 10:10

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