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2007/04/30

鈴木勝秀演出「写楽考」

見てきました「写楽考
うちの野木太郎安川結花も感想を書いているので
そちらも見に行ってやってください。

つうか、前評判悪かったよね。
太郎と結花は役者の見地から感心しているけど
それでも「さらっとしたテイスト」とか「静かな印象の舞台」と書いているよね。

実際、「えんげきのぺーじ」で感想を拾い読むとかなり辛口の評価がつづく。

で、ちょいと不安になりながらも見に行く。

正直僕は感動したし、これをつまらない芝居だと言うのはよくわからない。

パンフレットを開き
蔦屋重三郎を演じた西岡徳馬さんのインタビューを見ると
こんなことが書いてある。

「改めて台本を読み直してみて、やはりよくできた芝居だなと思いました。最近、こういう芝居が少なくなりましたよね、派手な動きが無い本当の台詞劇というものがね」

この芝居を多くの人がつまらないとか思うのは、きっとこれがかなり純粋な台詞劇なのだからではないか。

台詞劇は、言葉で世界を作り、劇的な真実を積み上げていく
だから観客はぼーっと見ているだけでは、奥地には行けず
何を話しているのか聞き取ろうとかなり頑張らなくてはついていけない。

 ( 面白いのはこのことを如実に表すように
  見に行った僕のツレは始終身を乗り出して芝居を見ていた。
  身を乗り出して話を聞こうとする人だけに聞こえる物語なのだ。
  もちろん、後列の人の邪魔にならないように )

さらに、今回の芝居の難しさは
この「身を乗り出して話を聞こうとする人だけに聞こえる」台詞劇ということプラス
書かれている内容が歴史的なことであるということがある。

つまり見る者が、写楽とその周りにいる人物の置かれる状況について
ある程度の知識を持っていなくてはこの芝居を面白いと思えない
面白いと思えても、その面白さが半減してしまうということにある。

もちろん、今回の芝居の本質は、「写楽うんぬんの史実」から離れても十分受け入れられるものであるけれども、「写楽うんぬんの史実」をもってその「言いたいこと」を描いたということは、当然、「言いたいこと」は言いたいこととして、「写楽うんぬんの史実」がちゃんとした史実であることが重要だったのであり、つまり結局、「写楽うんぬんの史実」を知らないと、作家、矢代静一が、この芝居「写楽考」で描こうとしたものをすべては受け取れないということなのだと思うわけです。

つまり、今回の「写楽考」は、

(1)「身を乗り出して話を聞こうとする人だけに聞こえる」台詞劇であるということ、

(2)「写楽うんぬんの史実」をある程度知っている人が興味を持てる部分の多い歴史劇であったということ

の2点においてハードルが高く設定されてしまったと言えるんじゃなかろうか。

つうか、実はこの芝居の鑑賞ハードルをあげているのは、これだけではなくて、思うにあと二点あって、

それはまず、この話が、ある面だが、「芸能」の話だからである。
芥川龍之介の「地獄変」のような研ぎ澄まされた図式的な配置は無いが、写楽と歌麿の対立やそれら芸術と対峙する商売人蔦屋の存在は、芥川龍之介が言うような「芸術の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に堕ちる。人生の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる」というような問題を浮き彫りにさせる。

が、そんな問題は芸能芸術にかかわる人間でなくてはあまり関心の無いことなのではないか。僕はたまたま映画や演劇に関わっているが、そうでない人には、書きたいものを書くか、売れるものを書くかみたいな問題は、「ふーん、そうか」ぐらいのことじゃないのかな。

だから

(3)「芸術家の在り様」という普遍化しづらい問題を主題の1つにもってきた教養度合いの高い劇であったというとこ

そこでもこの芝居は敷居が高くなってしまう。
観客のほとんどは芸能や芸術を生業とはしていないだろうから
そこで観客が(3)の問題をクリアするには、芥川龍之介的な「芸術家の理想と現実問題」を理解する素養と理解力と教養が必要になるからである。

ちなみに、僕と一緒に行ったツレは、同業の人間だったので、ちょうど「写楽考」を見る前に、似たような話をして昼飯を食っていたから、舞台を見て、「おお、さっきの話とシンクロしている・・・」と思ったわけで、それは観劇後ツレにも話したら同じことを言っていた。つまり、芸能芸術(学芸をふくめ)に関わるような人でないと食い込みづらい設定の舞台であったということは言えるのじゃないだろうか。

そして厄介なのはもうひとつの問題。

今回、鈴木勝秀演出「写楽考」は、矢代静一さんの「写楽考」のいくらかをカットした台本を使ったらしいが、その問題である。

2005年にマキノノゾミさんが演出したときには、矢代静一さんの原本のままだったらしい。

僕はその公演を見ていないが、その公演を見た人のブログを読むにつけ、マキノノゾミ演出の「写楽考」を見ている人は、そのときと比較して、今回の鈴木勝秀「写楽考」が若干物足りない的な発言をしているのをいくつかみた。

そして、マキノノゾミ「写楽考」が、スズカツ「写楽考」に比べて面白かった理由は、「ロック・ミュージックや映像を使用したり、エンターテイメントとして成立した」ものだったからとか、「大衆的な笑いもふんだんにあった」からだとかの記述に出会うことができます。

これは、上記に指摘したいくつかの要素(①台詞劇、②歴史劇、③芸術論)からこの「写楽考」という芝居が食べづらいものであるとの認識から、料理人である演出家が、食べやすいものに変えた苦労のあとなのかもしれないが、もし、これらのエンターテイメント部分が矢代静一さんの原本にあり、それを鈴木勝秀さんが削ったというなら、それは、より問題を研ぎ澄ます作業をしたのであり、非難されるべきことではないのだろうとも思う。

台詞劇をより台詞劇に・・・そう研ぎ澄ませるために、「ミュージック」や「映像」や「大衆的な笑い」をそぎ落とした。

それは当然、作品を食べづらくするが、しかし、矢代さんが「写楽考」で扱おうとした問題をより直截に表現するものへと変える作業であったのだと思う。しかし、それはやはり理想主義的に過ぎてしまい、西岡さんが言うような本当の台詞劇が少なくなったのは、需要側である観客の変質が大きいのであり、それに身を寄せ、ある意味媚びて「ミュージック」や「映像」や「大衆的な笑い」を足したマキノノゾミ「写楽考」はまさに歌麿的「写楽考」であり世間に早々と受け入れられ、・・・・つまり観客に食べづらい食べ物を供したの鈴木勝秀「写楽考」は、まさにここで、自分の好きを通した写楽につながり、それは早い時期には時代に受け入れられずに孤立する・・・そのあり方からして「写楽考」に描かれた写楽的な「写楽考」なのである。(「写楽考」において歌麿と写楽の関係はそんなに簡単には書かれていないけど)

いみじくも演出の鈴木勝秀さんはパンフレットに書いている。

「矢代も写楽に似せて矢代自身を書いたのだ。つまり、写楽を考えながら、自分を考えたということである。・・・(中略)・・・何かに似せて自分自身を描く-個人的には、「写楽考」を考えながら、自分自身を見つめなおしている今日この頃である」

つまり、矢代が写楽に身を寄せて「写楽考」を書いたように、演出家鈴木勝秀は矢代「写楽考」に書かれた写楽に身を寄せて「写楽考」を演出したのである。それは「ミュージック」や「映像」や「大衆的な笑い」を身にまとい、観客に迎合することではなく、台詞劇という矢代が思い描いた、あるいは鈴木勝秀自身の好きを強引に表現することだった。

そういう意味で、「ミュージック」や「映像」や「大衆的な笑い」をそぎ落とした「写楽考」をここに発明したことは、芸術的な成功ではあった。

しかしネット上の評判が芳しくないところを見ると、この写楽的な「写楽考」は、まさに写楽的であるがゆえに、世間から評判を得るというような貨幣的な成功をもたらさなかったというように言えるのかも知れない。

とは言うものの、それこそまさに写楽考にふさわしい展開と言える。

だから「えんげきのぺーじ」や他のblogによる今回の芝居の不評はむしろ今回の芝居が研ぎ澄まされた「写楽考」であったから生じるもので、むしろそれでいいということなんじゃないかと思う。

おしむらくは、その研ぎ澄まされた「写楽考」をきちんと受け入れられるような時代ではなかったということで、「写楽考」の写楽の台詞にあるように、「なんとも間の悪い」ことだなあと、つまり、鈴木勝秀「写楽考」は、あまり評価をされない自分というものを、ちゃんと内部に描いて自覚的(批評的)である・・・今回の「写楽考」は取り巻く時代構造までを反映した巨大な時代批評になっている。というのが僕の感想。

間の悪い写楽が晩年ふいに世間に受け入れられたように、この研ぎ澄まされた「写楽考」の思想を受け止められる時代がいつかくるのかな。とりあえず、現在が、そういう時代でないのは確かで、そのことさえ描いている鈴木勝秀「写楽考」は実に批評性の高い作品だということができるだろう。

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