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2006/03/17

チェルフィッチュ『三月の5日間』

チェルフィッチュ「三月の5日間」。

これは一昨年の岸田戯曲賞とったやつだ。
去年は三浦さんの「愛の渦」が岸田戯曲賞。
三浦さんはつい先週まで「夢の城」という新作を披露。
「愛の渦」を超えた世界を見せてくれた。

で、今回、
岡田さんが
「三月の5日間」
を再演するって言うので見に行った。
スケジュールは無かったが、むりやり行った。
どう無理やりかと言うと
打ち合わせの途中、
「ちょっとタバコ買ってきます」
と抜け出してそのまま見に行った。
プロデューサーには怒られたけど見なくてはいけないんだから仕方ない。
だって芝居は見なくてはもう二度と出会えない可能性が高い。
こんなにも前評判が高く、
しかも戯曲を読んだだけでは絵が浮かばない「三月の5日間」。
同時代に生きる同世代の僕が見ないわけに行かない。
見に行かないのは、同時代人としての危機とさえ言える。
だから打ち合わせをブッチしても行く必要があった。
僕にとって観劇は遊びなんかじゃない。
どうしてもセネバならぬ苦役にほかならない。

「三月の5日間」は「芝居」という固まりつつある装置をひっくり返したような芝居だ。

「芝居」や「映画」をストーリーによって評価する人も居るが、
「夢の城」もそうだが「三月の5日間」にはストーリーがない。
いわゆるドラマと言うか葛藤がない。

それどころか「三月の5日間」は「夢の城」にさえあった「役者」というものがいない。
「三月の5日間」をみると「夢の城」が芝居らしい芝居だったんだとさえ思えるほどだ。

「役者がいない」

この表現は誤解を生むかもしれない。
役者らしきものは居るんだが
それは役者と言うよりも「話者」だ。

「登場人物」は居るんだが、それは「話者」の話の中にしか出てこない。時折、「話者」が「登場人物」のようにも見えるけど、「と奴はいってたんですよね」と伝聞調になることによって、「登場人物」を演じる「役者」になりかけた肉体はあっというまに「話者」に戻る。

しかも

「「「「「「****と男1はいってたんですよね」
         と男2はいってたんですよね」
         と女3はいってたんですよね」
         と男4はいってたんですよね」
         と女5はいってたんですよね」
         と男1はいってたんですよね」・・・・

と次々と何人もの「話者」が次の「話者」の箱に入れられていってしまう。
いつのまにかぐるりと回って最初の「話者」がいたりする。

その「入れ子構造のしゃべり」がだらだらと続く中、
いつのまにか、ストーリーらしきものも展開され、
そしてそのなかから浮き上がってくるのは、
ぼんやりとした感覚・・・「幸せ」とも「不幸せ」とも言うことのできない感覚。

宮台は終わりなき日常を生きろといったけど、
学者なんかが言わないでも生きていく方法を人間は見つけ出すのだ。
死んでしまいそうな絶望の中を意気揚々と泳いでいく方法を。
その点は、ほんとうに双子のように
ポツドール「夢の城」とチェルフィッチュ「三月の5日間」は同じなのだ。

ついでに言うと、そんな絶望の中を生きていく人々を見る目に愛がある。
ポツドール「夢の城」とチェルフィッチュ「三月の5日間」は、ともに、現代を生きるしかない人間に対する深い愛・・・同情で貫かれている。こんなに人間を愛した目は類を見ない。

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