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2005/01/18

デビルマンのライター候補として(続き)

ライターを10人も集めてディスカッションする。
自分の企画がいかにデビルマンの映画化にふさわしい企画であり
他の人の企画がそうではないということをディスカッションする。
その競争の中から、監督やプロデューサーがアイディアを拾い
また競争の中から、ぼくらの企画が進化していく。
そういうことを狙ったプロジェクトだった。
従来の映画作成手法を離れて
本当に良い映画を模索する、そういった那須博之監督の発案からスタートしている。

ちなみに僕の企画。
「デビルマン・ネクスト(仮)」(最終更新日付が2002年9月4日になっている)の企画書の出だしは次のようなもの。

新時代のデビルマンは、不動明少年がウィルスD(ディー)に罹患することによって誕生する。時は西暦2015年。後天性奇形病を発症するウィルスDが世界を席巻している。ウィルスDに罹患した人間は、肉体を気味悪く変形させ(まるで悪魔のように)、その性格を凶暴凶悪化させる。そして各地でウィルスD罹患者への排撃、隔離が行われた結果、結束したウィルスD感染者たちはテロ組織ガイアを結成し人間たちに戦いを挑むみ、世界はたちまち人間v.s.ガイアの戦いの場と化してしまう。そんな時代の高校生不動明は、文化人類学者を父に持つ内気な少年である。卒業後の進路を考え、自分が何者であり、何者であるべきかを悩む、普遍的な悩める少年である。ただ明の父・不動永(ながき)教授が、研究赴任地のアフリカで、ウィルスDの秘密を解き明かしたことから、明の生活は大きく変化する。アフリカ・デドサンガ共和国のアカルア族とともに暮らす不動永教授は、アカルア族が太古よりウィルスDを意識的に利用していたことを知る。すなわち、ウィルスDにより変体した人間は環境と和合することを可能にすることを突き止める。人間は環境を自らに合わせて変化改造するが、それには限界がある。ウィルスDに罹患した人間は、環境に合わせて自らを変化させることができる。ただし、ウィルスDはうまくしないと、悪活性化し人間を凶暴化原始化させてしまう。不動永教授は、人間対ガイアの戦いを終わらすべく、ウィルスDのコントロール方法(良活性化の方法)について世に公表しようとするが、何者かによって殺害されてしまう。明は、父の持って帰ってきたウィルスDに感染することによって、デビルマンとなる。

永井豪先生の書く悪魔と西洋的な悪魔の違い。
それは西洋的な悪魔がアプリオリに悪魔であるのと違い。
永井先生の悪魔は、ある主体から見ての悪魔なのである。
つまり物が見る角度によって、
いろいろな様相を見せるように
かならずしもAにとっての悪魔がBにとっての悪魔ではない。
西洋的な悪魔がアプリオリに悪魔であるのは
疑いようも無い第一歩。聖書があるからだろう。
永井先生の悪魔=デーモンであってこそ
僕らはデーモンに感情移入しさえできる。
そして物語を語りうる重いテーマ=葛藤が生まれる。
だから僕はどうしても、実際に可能性のある存在として
言ってみれば、
進化の別ルートとして存在する知的生命体として
デーモンを考えてみたかった。

僕は学部は経済学部だったけれども
本当は理系志望で、
とくに進化論なんてものが興味の中心にあった。
だから、デーモン族を悪霊や妖怪という非科学的な存在ではなく
実際いてもおかしくないものとして、
現代の科学レベルに照らし合わせて
定義しなおしたいという気持ちがあった。

そこがおかしい、つまりいきなり悪魔と合体したとかやると
漫画、悪い意味での漫画になっちゃうと思うのだ。
悪魔という言葉に気持ちがひいてしまう人もいると思うのだ。
ああ、非現実的な話ね・・と。
だから、そこは注意深くありそうな感じでスタートしたい。
(これは那須監督の意向でもあった)
そう考えると、
ウィルスとかDNAとか、
まぁありきたりと言えばそうだが
そういうところで
デーモンと言う存在を考えるしかないだろうと言うのが
そのときの僕の考えだった。

そこで、
人間=自分の都合のいいように環境をいじくる存在
デーモン=環境に適応できるように自分をいじくる存在
としたのである。

そして、非適応的進化をしてきた存在が自分をいじくるにはウィルスDというものの作用を利用する必要がある。
しかし、このウィルスDは、まともに作用すると人間をデーモンにできるが、変な風に作用すると、人間を凶暴凶悪な存在に変えてしまう。そして見かけ的には、まともに作用した人間も、変な風に作用した人間も、区別できない。
だから人間は、両者をともに殺そうとする。魔女狩りを始める。というような話を考えてみた。

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コメント

ウイルスDが悪魔をつくるというか、人間の中の悪魔的な部分をactivateするというような、そんな感じなのかな?善も悪も両方備えているが故の痛み/悲しみみたいなものが描かれるような可能性を感じます。
永井作品を読んで、僕がいつも感じるのは、血を吐くような痛み/苦しみのイメージ.....。

.....このプロットの映画化をみてみたかったです。
(舞台でみせてー!^^)


投稿: 猫ぴ@朋加組 | 2005/01/19 11:09

実は、ダンス・ダンス・ベイビーダンスって、このプロット・コンセプトを少しだけもらっているんですよ。

投稿: 松枝 | 2005/01/20 02:18

あ、猫ぴさん来てなかったんだっけ…。

投稿: 松枝 | 2005/01/28 04:07

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