朝鮮総聯幹部の息子
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高橋伴明監督「赤い玉、」を見た。
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玉砕とは別の未来を想像するのは難しい。だけど過去には参照すべき未来がある。いまさらだけど岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」をみた。なんて素晴らしい映画なんだろう。無駄の全くない映画だった。これは義務教育で必ず見せたほうが良い。日本はああやって「具体的に」戦争を終わらせたのだ。日本の勝ち得た今はギリギリの綱渡りで手に入れたものだと「実感させられた」(理屈としての了解ではなく)。その後録画していたNHKの「”終戦”知られざる七日間」をみた。玉音放送までの24時間が「日本のいちばん長い日」だとすると、玉音放送後の7日間の話だ。日本中の兵士たちが玉音放送で鉾を納めたわけではなかった。それまで南支では勝利しか無かった。だから敗戦など寝耳に水で信じられなかったと言う。玉音放送を聞いても「これは天皇陛下の本意ではない」と思ったそうだ。実際戦闘をやめていない。そんな日本が8/22に武装解除されるまでの「具体」を、ご高齢の生存者の声なども集め、検証した素晴らしい番組だった。「具体」だった。学校の歴史がだめなのは「具体」が欠けているからだ。そこにあるのは「理屈としての了解」でしかない。そのやせ細った理屈を、映画や演劇は豊かな「具体的現実」に引き戻し人々に突きつけることができる。脚本というのはややもすると痩せた理屈に加担する。太った現実の呼び水となるようなそんな本が書きたい。荒戸さんに岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」の話をした。荒戸さんもあの映画には衝撃を覚えたそうだ。封切時にみた荒戸さんは福岡の高校生だった。俳優が素晴らしいと荒戸さんは言った。本当にそうだ。鈴木貫太郎の笠智衆、阿南惟幾の三船敏郎、畑中少佐の黒沢年男、佐々木武雄大尉の天本英世。一平卒の敬礼の仕方まで理屈を超えた具体がそこにある。
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映画「セッション」(原題Whiplash:Whiplashは映画内でもっとも練習されるジャズの曲の名であり、また映画の主たる現象「鞭打つこと」を意味する英語)を見て来た。
(以下ネタバレあり)
この映画、前半、ぼくは狂喜した。
僕の愛してやまない人がそこにいたからだ。
それは世界のニナガワ、蜷川幸雄である。
もちろん、映画「セッション」はアメリカのジャズ界を舞台にした鬼教師とジャズドラマーとして世界に名を残したいと考えているイチ生徒の話だから、蜷川幸雄が出てくるはずがない。ないけれども、しかし、蜷川さんのもとに居たことのある人や、彼が演出家として行うエキセントリックな稽古の話を聞いたことがある人は、JKシモンズ演ずる鬼教師の姿に「これは蜷川さんだ」と思わずにいられない。
この映画には何度もあるエピソードが出てくる。それは、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが名奏者になるきっかけのエピソードだ。若きチャーリー・パーカーの下手くそな演奏にぶちきれたジョー・ジョーンズがドラムのシンバルをチャーリー・パーカーに向かってぶん投げた、つまり「理不尽で暴力的なひどいこと」をされたことをきっかけにしてチャーリー・パーカーは天才となったというような、「理不尽で暴力的なひどいこと」をもって生徒を指導する鬼軍曹の指導を正当化するようなエピソードだ。そのエピソードによって正当化された映画のなかの鬼教師は、生徒にむかってパイプ椅子をぶん投げる。その瞬間また「蜷川だ!」老いてパイプ椅子を俳優に向かって投げる蜷川幸雄を見たことがある。
だから、蜷川幸雄を信奉している僕はこの映画に心を鷲掴みにされた。エキセントリックな鬼教師が、ニヤニヤ笑うムカつく白デブの少年をどこまで追い込み、どんな風に限界を突破させ、奇跡をおこすのか、映画はそれをどのように描くのか。それを思うととんでもなくワクワクした。
が、結果は、残念な物になってしまっていた。映画「セッション」はとんでもない歴史的な名作となる可能性があったのに、結果として、そうなり損ねた。
簡単に言うと映画はモラルハラスメントな指導はよくない、というような「常識」に回収されてしまった。僕自身は、映画や演劇や芸術は「常識」を補足するものであってはならない、「常識」を側面から揺さぶり、「非・常識」の正当性を示唆するものでないとならない、と考えている。だから、この映画の、蜷川の元を追い出された若者が蜷川の指導を告発するような、本当は自分は才能があったんだと言うような自己弁護の映画になってしまったことが残念でならない。あるシーンから、もう一度作り直してほしいぐらいだ。そこまではパーフェクトな出来であったから。
この映画に限らず、芸術のある高みを目指す人間の話しはたくさん映画になっている。
そういう類の映画の中で、一番最近見た中で、僕が素敵だなと思ったのは「ブラック・スワン」だ。あれは「セッション」の前半のワクワクがラストのラストまで持続するような映画で、最後の最後には、僕は思わず「この映画は完璧だ!」とつぶやいたら、映画のラストのセリフが「パーフェクト(完璧だ)」で、してやられたりと思った。完璧であることに自覚的なのだ。
ちなみに「ブラックスワン」には鬼軍曹はいない。演出家は出てくるが、鬼軍曹のような暴力的な指導でヒロインを突破させるわけではない。が、エキセントリックの種は与えている。それは「オナニーをしろ」という、セクハラで訴えられてもおかしくない指示だ。性的なことで女性が意識の幕を張り現実と折り合いをつけてしまい表現の限界を突破できなくなっていることは大いにあり、そこの突破が重要になるというのは絶対的にあるので、あのエピソードは正しいと思うし、「ブラックスワン」は親の目を気にして自己を肯定できなかった少女が自己を肯定し、肯定することが芸術的完成と生命の完成になるという非・常識的だが芸術的に実に正しい映画だ。
芸術ではなくてスポーツの世界の話になるが、アニメの「あしたのジョー」も、頂点を目指す若者の話という意味においては似た構造をもった物語である。主人公の矢吹丈を指導するトレーナー丹下段平は矢吹丈にボクシングという居場所を見つけてやる。多少の追い込みもする。しかし後半、矢吹丈は鬼軍曹の追い込みではなくて自己の欲求によって頂点を探求し始め、逆に丹下段平はおろおろするばかり。命を顧みるというのが「常識」であるが、命を顧みないという「非・常識」を追求することによって、ありえないパワーを手に入れて、頂点に立つが、それは命と引き換えによってである。アニメ「あしたのジョー」は「ブラックスワン」同様、素晴らしい作品である。
同じボクシングを題材にした映画「百円の恋」も素晴らしい。安藤サクラ演ずる主人公は、本来的には命と引き換えにしないと得られないエキセントリックな至高の世界を、少しだけ垣間見る。多くの実際のプレイヤーは、チャンピオンにはなれないし、歴史に名を残せない。だが、その何人かは、トップには手が届かないが、その向こうにあるはずの至高の世界を一瞬だけ垣間見ることができる。「非・常識」の世界の匂いを一瞬だけ嗅ぐことができる。「百円の恋」は、本来凡人の見ることの出来ない瞬間を垣間見ることの出来た凡人の姿を捕らえた傑作だと思う。
鬼軍曹が出てきて、理不尽なことを新兵に言ってしごきあげ立派な士官にするみたいなのは「愛と青春の旅立ち」に限らずある。そしてそれを彷彿させるやり方を「セッション」でもやっている。だから、そのしごきに耐えて立派な演奏者になりました…という展開だけはいやだなと考えていた。さすがにそれはやってない。そこはちょっとだけ救われる。
ちなみに「セッション」において鬼軍曹JKシモンズは、青年の家族のこと、家族関係のことを罵る。「ブラックスワン」のヒロインが母親から離れて性的に自己肯定することが一番の突破口であるのと同様、「セッション」の主人公の青年にとっては、ダメな息子の存在を許す父親との優しい関係をぶち壊すことが突破口である。それをJKシモンズ演ずる鬼軍曹は見抜いている。だから、家族との関係、父との関係を口汚くののしる。言われるまでもなくぼんやりそのことを自覚していた青年は、父からの電話に出なくなり、毎週一回映画を一緒に見ると言う父の誘いにも応じなくなる。しだいに青年の顔は変わっていく。「百円の恋」の安藤サクラの顔がボクシングに熱中することで凛々しく変わっていくように、「セッション」の主人公の青年の顔も凛々しく変わっていく。そんな時に行われる父や親戚たちとの食事会の主人公の浮きぶりが素晴らしい。父親たちは、スポーツのように明確に勝ち負けが決まらない「音楽の世界」を、お偉いさんの主観によって優劣が決められる「いい加減な世界」と馬鹿にしている。だが、JKシモンズを信じる青年は、音楽の世界は、判断者の基準によって良い音楽がころころ変わるような不定形の場所ではなく、数学的な緻密さで判定の出来る絶対的な世界であるということを主張する。JKシモンズが音楽を聴いて一瞬で判定を下せるように、分かる人には判る絶対的に良い音楽というのはある。それは数学の答えのように厳密で明らかなものなのだ。演劇とかやっていると、良いか悪いかは監督が気分で決めていると思っている俳優がよくいる。そんなふうに思っている俳優はだめだ。判断は人それぞれなんかじゃない。絶対的に良いものはあり、優劣は絶対的につくのだ。しかし、そんなことは門外漢には判らない。だが、あるのだ。父との圧倒的なズレ。青年の確信。この「セッション」の家族との食事のシーンを見た時にはこの映画が傑作であるのを震えるように確信していたのだが…。
JKシモンズ演ずる鬼軍曹は「超越者」である。主人公の若者は、くだらない常識の中に生きており、しかし本能的にその常識を受け入れていることがだめなことをも知っている。そんなとき、若者は、実現不可能と思われた「非・常識」を実行している「超越者」に出会い、その世界に足を踏み入れるためのパスポートを手にする。
「地獄の黙示録」が傑作であるのは、ウィラード大尉が、「超越者」たるカーツ大佐に感化され目を開かされる、にもかかわらず、そのカーツ大佐を殺すという「常識」を行ってしまうところにある。しかし、その行われた「常識」はもはやカーツに会う前の「常識」とはまったく違っている。カーツの門をくぐることによって「常識」は装いは同じながら、実はカーツ的な「非・常識」の実践になってしまっている。「地獄の黙示録」というフィクションが素晴らしい作品であるのは、その転倒、その奇跡を映画が発見した、ということにあるように思う。
ひるがえって「セッション」だ。セッションは「地獄の黙示録」になりそこねた。
パンフレットによれば、「セッション」のほとんどは、監督のデミアン・チャゼルの実際の体験がもとになっているらしい。ジャズ・ドラマーを目指したことも、鬼軍曹がいたことも、鬼のような特訓のことも、JVCなどで演奏したことも全部実際に監督の経験らしい。ああ、だからそうなのか。と思わざるを得なかった。つまり、この映画は、監督の、天才ジャズ・ドラマーに成れなかったことの恨み節、本当は自分は凄いんだぜという自己肯定でしかないということだ。この映画がだめなのはそこだ。
徹底した自己否定の向こうに素晴らしい演奏があるのに、それを徹底できないで離脱した人間が、「僕はほんとうは才能もあり正しいんだ」と甘えたことを言うのを許してしまったのがこの映画だ。
柔道の行き過ぎた指導が訴えられたことがある。あの時に、蜷川さんの傍に居る者たちはギクリとしたに違いない。いつか蜷川さんも訴えられるかもしれないと。非・常識の世界が常識によって裁かれる。愚かなことである。柔道でも何でもいいが、「てっぺんをとる」ためには、悪魔に魂を売る覚悟が必要で、しかし悪魔に魂を売るまでもなく優雅に暮らしていける現代において、その覚悟をするのは本当に困難だ。それを蜷川さんは恐ろしく追い込むことによって実現している。成果を出している。その恐ろしい非常識こそを芸術は肯定すべきだろう。JKシモンズ演じる鬼軍曹はもっともっと想像を超えた恐ろしい形で肯定されるべきだ。「セッション」はその近くまで行っているのに最後、若者の浅い自己肯定の話しになってしまった。監督が28歳の時に書いた脚本らしい。だからかもしれない。彼が鬼軍曹の年齢になったときに、本来書かれるべきだった「セッション」の本当の後半を描いて欲しいと願わずにいられない。
映画の中で鬼軍曹が自分はチャーリー・パーカーを育てられなかったと悔やむシーンがある。蜷川さんは俳優を育てられなかったと悔やむだろうか。蜷川さんの目的は俳優を育てることには無い。舞台上に奇跡を起こすことだけにある。そう僕は思っている。実際蜷川さんは奇跡を起こしてきている。その奇跡のからくりはこうだ。1にもみたいない欠陥のある若者0.3をみつけてきてしごき倒す。0.3しかなかったはずの彼は本番100を超えるパワーを出す。大事なのは欠損0.7があるということ。その欠損0.7を指摘し痛めつけ肯定させることこそが奇跡のパワーを取り出す源泉だ。そこに鬼軍曹の興味と快感がある。蜷川さんが素人に毛の生えたような俳優の居るニナガワ・スタジオやネクスト・シアターやゴールド・シアターを好んで続けているのはそこにある。しかし、そこは1を育ててる場所ではない。蜷川さんのしごきありきで欠損した人間0.3を100にする場なのだ。人を育てる場ではなくて、奇跡の作品を作る場なのだ。時折100を出したことにうぬぼれた者が蜷川さんの元を離れるが、蜷川さんのしごき無しでは100を出せずにこぞって消えていく。0.3は0.3に過ぎず、蜷川さんのもとを離れれば彼らは皆0.3に戻ってしまう。自らを蜷川的に追い込み100のパワーを自分から引き出すことはなかなかほとんど不可能だ(できるのは矢吹丈だけ)。そういう意味でも「人を育てることができなかった」とつぶやくJKシモンズ演ずる鬼軍曹には蜷川さんが重なって見えた。
いや本当に惜しい、もったいない作品だった。芸術的な真実の隣にまで行ったのに、最後にそれを放棄する徹底性の欠けた映画だった。
※文中、蜷川さんに関する記述はぜんぶ想像なんで、違ってたらごめんなさい。
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ようやく、2014年8月公演の情報を公開できる日がやってきました。と言っても、ちょろっとだけですし、ホームページはまだ「かもめ」のままなんですが。
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私たちには手近な目標も、遠い目標もありません。
心の中は、球でも転がせそうなほど、空っぽです。
私たちに政治はない。
革命もない。
神もなければ、幽霊も怖くは無い。
死も盲目も怖くは無い。
何も欲せず、何ひとつ希望も持たず、怖いものなど何もない。
そのような人間が芸術家になれるはずがない。
これが病気であるのかないのか。
呼び名はどうでもいい。
ただ、私たちの立場が都知事の比ではないほど悲惨であるのは認めざるをえません。
1892年11月25日
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夏の終わりに実験的な舞台をやります。
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なんだかんだしているうちに、1年以上、ブログを更新しなかった。
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荒戸源次郎監督のワークショップ初日終了。
いつもの4人の映画監督によるワークショップの時と違い4日間を荒戸監督お1人に見てもらうためだけに使うので贅沢に時間が使える。
しかもいつもより役者の参加人数が半分ぐらいであり、またいつもは1クラス1日3時間なのだが、今回は1クラス1日4時間と時間も長い。役者ひとりひとりをかなりじっくりと見ることができる。
初日はなんと参加者の自己紹介だけに1日をついやした。
自己紹介だけ?そんなんで1日はうまるのか?と始まる前は正直不安だったのだけれども、ものすごく充実した1日になった。
「自己紹介」と言っても、真っ正直に自己を紹介する必要はなく何をしゃべっても何をやってもいい(しかも時間無制限)。なにをやっても、その時間の構成の仕方、何を表現するのか、その「選択」によって、その人がどんな人か分かるので、結局のところ「自己紹介」になるって寸法。
基本、真っ正直な「自己紹介」が多かったが、その語り口や態度や自己との恥じらいの距離なんかで、実に「人」がよくわかった。僕は全員について詳細なメモをとりながら聞いていた。
面白いのは各人の話す内容だけではなく、荒戸監督が話に間の手を入れる・・・というか話を横取りして脱線させるのだけれども、これがまた面白い。
脱線のさせ方は話し手への、また聞き手への監督からのシグナル、あるいは監督自身の「自己紹介」になっている。これに気付く人は自分の「自己紹介」をどんどん進化させていく。気付かないひともいる。気付かないは気付かないで、自己中心的な人は自己中心的な人で、それはそれで「自己紹介」になっている。どんなにいい話をしても自己中心的な人間だなというのは態度で判る。どんなに酷い話をしてもセンスのいいやつだというのは笑い方で判る。「自己紹介に意味はない」と不平不満を言う人もいる。それこそが「自己紹介」。
運営側としては8時間、「自己紹介」を聞き続けるわけだけれども、こんなにも人間を見せつけられ、そして自らも見せ続けねばならなかった時間はない。全員がこの時間を面白いと思う必要はないが、すくなくとも僕と荒戸監督は8時間をきちんと楽しんだ(役者たちに荒戸監督が興味を持ってくれたのが嬉しい)。
そして8時間、他人の話を興味を持って聞き続けるというのは、じつはそれ自体が大変疲労することであって、終了後、獺祭を六合ほどのんだら爆睡。気付いたらソファーの上で朝を迎えていた。
まもなく荒戸源次郎監督のワークショップ2日目昼クラス。
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4月6日金曜日
DULL-COLORED POP 第11回本公演
「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」
の14時の回のアフタートークに出演します。
この作品は、劇作家・演出家の谷賢一氏が率いるDULL-COLORED POP(ダルカラードポップ)という劇団の第11回目の本公演で、前回の第10回が再演であることを考えると、2009年8月の第8回公演「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」以来、2年8か月ぶりの書き下ろし脚本による劇団本公演じゃないかと思います。
2年8か月ぶりとは言っても、小劇場界隈の人々はよく知っているように、この間も、谷賢一氏は、演出家として、劇作家として目覚ましい活躍をしており、ますますその作る作品のレベルと評判は高まっています。
演出家としては、世界の演劇を照準にとらえた冒険をしながら、しかし、沢山の人々に物語を手渡す丹念な作業を怠らない稀有な演出家であり、また劇作家としても、その取り繕って生きる人間の内側を暴いて見せるランセットの鋭利さはますます際立っており、観る者も血を流す覚悟を持たねばならないおそろしい脚本を書く作家であり、将来世界的な劇作家として名を残すかもしれない匂いをプンプンさせている人です。
小劇場界隈の人は谷賢一が何者かはもう知っているはずですから、僕は、それ以外の世界の人々に彼の作品をぜひぜひ観て欲しいと思っています。
もしよろしければ、観に来てください。
いま目撃しておきましょう。
谷賢一の芝居を。
そして劇団DULL-COLORED POPの芝居を。
2012年4月の今、目撃しておきましょう。
ぜったい損はないです。
てことで、4月6日14時開演の回、小竹向原のアトリエ春風舎で会いましょう。
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DULL-COLORED POP vol.11『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』
場所:アトリエ春風舎(板橋区向原2-22-17 すぺいすしょう向原B1)地図
アクセス:東京メトロ有楽町線・副都心線/西武有楽町線「小竹向原駅」 下車4番出口より徒歩3分
日時:4月6日14時開演
チケット:前売り2,500円、当日3,000円、学生1,500円(前売りのみ取り扱い/受付にて要学生証提示)
チケット予約:こちら
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長塚圭史さんの演出するテネシー・ウィリアムズの自伝的作品「ガラスの動物園」を見てきた。
もちろん、ミーハーな僕であるから深津絵里、瑛太という出演者に惹かれての観劇だが、長塚圭史さん演出というのも重要。
8人のダンサーによる不気味さの表現が秀逸。花沢健吾「アイアムアヒーロー」的な不気味さを演劇でやったと言う感じ。立石涼子のお母さんが「おかん」だった。この芝居はおかんに支えられている。
そして何よりも、特筆すべきは、深津絵里と鈴木浩介の息を飲むやりとり。なんだろう、これだけで見る価値がある。
決して表現形態としてリアル(現実のありのままの模写)というわけじゃない。深津絵里の演じ方はいろんな意味で過剰で、見ててちょっと嫌になる一歩手前だが、その腐りかけのギリギリで最高の風味を醸し出す肉のような芝居は「最適」であるという科学的な言葉を使いたくなるほどに、そこにしかないであろう真実を表現するにふさわしく、また一部もずれることを許さない微妙なラインを攻めている。内実のリアルを担保するために許される演劇的な過剰の狭い狭い許容範囲ギリギリを攻めている。そして、その狭いマトを的確に射抜く深津絵里の芝居の過剰さのおかげで、万人がいれば、ほぼ万人がローラの出会う感情の波を一緒に体感することになる。喜びの鋼がぼろぼろと崩れて行く様を手に取るように見ることになる。
最近、僕は演劇にはストーリーではなくて、その「波の顕れ」に出会いたくて行っているので、まさに出会ってしまったと言う感じ。
テネシー・ウィリアムズは、「ガラスの動物園」を「追憶の芝居」と言っている。主人公であり、テネシー・ウィリアムズ自身でもあるトムが、実姉と実母への追憶を後悔と共に語る。
しかし、その作者の意図を越えて、コクーンの舞台の上にある深津絵里と鈴木浩介の芝居は、生々しかった。演劇的な虚実の向こうに浮かび上がる本当のリアルが、追憶という形式をぶち壊すほどに観客の胸に迫る。
あるいは「追憶こそリアル」。という演出の意図があるのかもしれない。
というのも、「追憶」は追憶者(=経験者)による経験の都合の良い情報整理と考えられ、それは大概、「紗幕」の向こうのドラマチックな思い出となるが、今回の芝居はこれが逆転している。つまり「紗幕」の向こうにあり美しく整えられているのは「過去の経験」ではなく、「追憶者本人」の「現実」なのである。すなわち「現実」こそが彼岸にあり、追憶者であるトムは気持ちよく過去を追憶するやもしれないが、「紗幕」のこちら側にいる観客は、過去を忘却するどころか、忘れ去られたはずの「過去の痛み」とともにこちら側に置き去られる。そのように演出されている(ちなみに台本通りなのかもしれないが、現在手元になく確認できない)。
「追憶」されるべき「過去」が追憶しようもないほどにリアルにそこにある。
そうだとすると、あのダンサーたちも「そうなのではないか」と思えてくる。
過去を忘却し美化しようと言う働きを許さぬ妖怪たち。忘れようとしているそばから、彼女たちは「過去」を引っ張り出してくるのである。なぜならば彼女たちはトム自身の「目玉」であるからだ。見た物は見た。忘却を許さないトム自身の無意識=目玉こそがあの8名のダンサーのような気がする。だから彼女たちはやたら大きな目をしていた。「見ているぞ」というわけである。
というわけで、この長塚圭史版「ガラスの動物園」は忘却しようにも忘却しえないで追いかけてくる記憶たちの話と言っても良い。しかし追憶。ノスタルジーという優しい訳語があるが、字面通り、逃げても逃げても「追」いかけてくる記「憶」ということの略とすれば、長塚圭史版「ガラスの動物園」は、まさに「追」「憶」の話なのである。そのように僕は見た。
ちなみに、鈴木浩介演じるジム・オコーナーだが、彼も病んでいる。「J・エドガー」に描かれるアメリカの中心にある病・・・「健全であれかしという病」に犯されている。話し方教室に行き快活な話し方を学ぶと言うことがいかに病んでいるか。と言う意味で、このような4人芝居を作り出したテネシー・ウィリアムズ恐るべしと思うのである。
S席9000円払っても惜しくは無い。4月3日まで渋谷シアター・コクーンにて。
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4月8日の1日だけですが、芝居を披露をします。
ピアノ、チェロ、歌がライブで入る、ちょっと贅沢な総尺1時間の短編音楽劇です。
無料です。
神谷町にある由緒正しきお寺さん青松寺の「花まつり」のメイン・イベントとして披露されます。
ご近所の子供たちも来るらしいので、子供たちの心に何かを残せる芝居になればいいなと思っています。
(ちなみに宮沢賢治って作詞・作曲してるんですね。いい歌なんです。)
13時開演と16時半開演の2回のみ。
よろしければ足をお運びください。
音楽劇「銀河鉄道の夜」
原作・作詞・作曲:宮沢賢治
脚本・演出:松枝佳紀
出演:西村優奈、縄田智子、寺田有希、ナカヤマミチコ
演奏:小栗慎介(ボーカル)、ゆりまる(ピアノ)、小林幸太郎(チェロ)
協力:清川あさみ(絵)、リトルモア(出版)、シネ・フォーカス(技術)
プロデュース:佐藤 政(ストーリー・レーン)、福田一博(アズムプロダクション)、南 慎一(OFFICE H.I.M.)
会場:青松寺(港区愛宕2丁目4番7号、03-3431-3514)
行き方:
(1)地下鉄・日比谷線、神谷町駅3番出口より徒歩8分(3番出口地上を出てすぐ左折、ずんずん道なりにしばらく進みます。左手に高くそびえる愛宕グリーヒルズを左折します。まもなく進むと左手に「青松寺」の門がみえます。そこをお入りください)
(2)地下鉄・三田線、御成門駅A5出口より徒歩5分(A5出口を地上に出て、後ろ、ローソンのある方に進みます。道なりに行くと歩道橋があります。登り、通りを渡り右折します。まもなく進むと左手に「青松寺」の門がみえます。そこをお入りください)
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銀河鉄道の夜の主人公ジョバンニは言います。
「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない」
自分を犠牲にしても誰かのために生きたい。
それは作者宮沢賢治の思いでした。
しかし「誰かのために生きたい」という気持ちは宮沢賢治のような聖者だけが持つものなのでしょうか。
たしかに人間は誰もが「毎日を楽しく過したい」と思っています。
けれども同時に「自分を犠牲にしても誰かのために生きたい」という思いもまた誰もが持っている。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」はそのことに気付かせてくれます。
今回の音楽劇では、幼い子供でも楽しめるような楽しい芝居と豪華な演奏、楽しい歌を楽しんでいただきながらも、洞窟の奥に眠る宝石を掘り起こすように、心の中に眠る「誰もが持っている尊い想い」に気付くことのできる。そんな「劇」にできればと思ってます。
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「日本の問題Ver.311」全日程終了致しました。
ご来場いただいた観客の皆さま、座談会に参加していただいたゲストの皆さま、快く脚本を提供してくださった広田さん、瀬戸山さん、蔭に日向に企画へのご意見をくださった皆さま、本当にありがとうございました
震災から1年目という区切りに、皆様と同じ時間を過ごし葛藤したことは、僕らにとって大変意義のある事となりました。皆様にとりましても、本企画に足を運んでいただいたことが、なにかしら意義あることであったと感じていただければ大変うれしいです。
この「日本の問題」と題した公演は、昨年11月の「日本の問題(小劇場版)」、同12月の「日本の問題(学生版)」、そして今回の「日本の問題Ver.311」と、3回目となる企画です。しかしながら、今回ほど、お客様から積極的に沢山のお言葉をおかけいただいた公演は初めてでした。
賛否両論あれども、「企画に対して」、「演目に対して」、「前説に対して」、終演後、積極的に、お声をかけていただき、大変熱いご意見を、多数のかたに、お聞かせいただくことができました。それは通常の公演を考えると異様なほどでした。
これは、4劇団の演目および前説がお客様のご意見を誘発するような内容を持っていたこともさりながら、ご来場いただいた皆さまにとっても「東日本大震災」が底知れぬ心理的ダメージを与える事柄であったということの証左ではなかったかと思います。あれがなんであったのか、なんであったと捉えるべきなのか、目の前の悲劇を差し置いて自分らは幸せであってよいのか、いったい自分はなんなのか、そのような根源的なことを、語り、表現し、自分たちで何かを納得しないと前に踏み出せないほどに、観客の皆さまも、そしてぼくらも、あの震災から強くダメージを受けていたのだろうと思います。そういう意味で、震災に関する表現欲求は、僕ら企画側だけにではなく、観客の皆さまにもあったのだろうと思うのです。
願わくば、今回の企画が、観客の皆さまや僕らを含めた参加者それぞれの心の中にあった傷を癒すものとなり、癒された後は、まだまだ続くであろう被災地の復興に対して、直接的に、間接的に、関わり続けていくきっかけのひとつとなったら幸いです。僕自身も関わり続けます。沢山いただいたお言葉(批判であれ何であれ)を真摯に受け止め考え、明日からの表現に必ず活かしてまいります。
事前に告知しておりましたように、本公演の収益金および寄付金、総額29万1千619円は、あしなが育英会の「東日本大震災・津波遺児支援」事業に、本日、3月13日、全額寄付させていただきました。
ご来場いただきました皆様、関わってくれた皆様、ありがとうございました。
「日本の問題」代表 松枝佳紀
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